「関ヶ原の戦い」は、日本の歴史の中でもとても大きな戦いで、西軍(石田三成側)と東軍(徳川家康側)が戦いました。結果は、徳川家康の率いる東軍が勝ちましたが、その勝敗を大きく左右したのが「裏切り」でした。
実は、戦いの途中で西軍についていたはずの武将たちが裏切り、東軍に味方したのです。その裏切りによって西軍は大混乱! 最後には大敗してしまいました。
では、一体どんな武将が裏切ったのでしょうか? そして、なぜ彼らは裏切ったのでしょう?
今回は、関ヶ原の戦いにおける裏切り者一覧を紹介します。
関ヶ原の戦いの裏切り者一覧:人物の特徴

関ヶ原の戦いは、ただの戦いではありませんでした。「どちらが強かったか」よりも、「誰が裏切ったか」が勝敗を決めたのです。
では、実際に裏切った武将たちを見ていきましょう。
関ヶ原の戦いで裏切った武将一覧【総まとめ】
まずは、関ヶ原の戦いで裏切った武将たちを一覧にしてみましょう。
武将名 | 最初の所属 | 裏切ったタイミング | その後の動き |
---|---|---|---|
小早川秀秋 | 西軍 | 戦の途中で東軍へ | 東軍勝利の決め手に |
脇坂安治 | 西軍 | 小早川とともに東軍へ | 生き残るが領地を減らされる |
赤座直保 | 西軍 | 小早川に追随し東軍へ | 領地を失い消息不明 |
朽木元綱 | 西軍 | 東軍側に寝返る | 領地を守ることに成功 |
小川祐忠 | 西軍 | 東軍へ寝返る | その後の消息不明 |
このように、多くの武将が戦いの最中に裏切りました。特に、小早川秀秋の裏切りが決定的で、これがなかったら西軍が勝っていたかもしれません。
なぜ彼らは裏切ったのか?主な裏切りの理由
「なんで武将たちは裏切ったの?」と思うかもしれませんね。理由はいくつかありますが、大きく分けると次の3つです。
- 徳川家康の圧力
徳川家康は「もし裏切らなかったら、お前の領地を取り上げるぞ」と脅していました。武将たちは「生き残るためには仕方がない」と考えたのです。 - 石田三成の人望のなさ
石田三成は戦のリーダーでしたが、あまり人気がありませんでした。「三成についていっても勝てなさそう…」と思った武将が多かったのです。 - 勝ち馬に乗りたい心理
「勝ちそうな方につきたい!」と思うのは自然なことです。武将たちも「徳川家康のほうが勝ちそうだな」と判断し、裏切ったのでした。
こうして、西軍の武将たちは次々と東軍に寝返っていったのです。
小早川秀秋の裏切りと勝敗を決めた一手
関ヶ原の戦いで最も有名な裏切り者といえば小早川秀秋です。彼の裏切りが、戦の決め手となりました。
小早川秀秋は最初、西軍についていましたが、実は最初から東軍に寝返るつもりだったのです。しかし、なかなか動こうとしませんでした。そこで徳川家康は、彼の陣に向かって鉄砲を撃ち、「早く裏切れ!」とプレッシャーをかけました。
ついに小早川秀秋は決心し、西軍の陣に攻撃を開始。これにより、西軍は大混乱! 一気に崩れてしまいました。もし彼が裏切らなければ、西軍が勝っていたかもしれません。
脇坂安治・赤座直保・朽木元綱・小川祐忠らの裏切りの真相
小早川秀秋の裏切りを見た他の武将たちも、「あ、もう東軍が勝つな」と思い、次々と寝返りました。特に脇坂安治、赤座直保、朽木元綱、小川祐忠の4人は、小早川に続いて西軍を攻撃し始めました。
この4人は、もともと戦国時代を生き抜くために「いつでも裏切れるように」準備をしていたといわれています。つまり、「勝ちそうな方につく」ことが彼らの生き方だったのです。
結果的に、この4人の裏切りも決定打となり、西軍は完全に敗北しました。
西軍の崩壊を招いた裏切りの連鎖とは?
最初は「小早川秀秋だけが裏切る」予定だったのに、どうして次々と裏切りが起こったのでしょうか? それは、「みんなが自分の身を守るために裏切り始めたから」です。
・「あの人が裏切ったなら、自分もやらないと危ない」
・「このまま西軍にいたら、負けたときに処罰される」
・「もう勝負は決まったな…東軍につこう」
こんなふうに、武将たちは考えました。結果的に、西軍はどんどん戦意を失い、最終的には総崩れになってしまったのです。
関ヶ原の戦いの裏切り者一覧:その後の人生

関ヶ原の戦いでは、多くの武将が裏切り、その結果、東軍が勝利しました。しかし、戦いが終わった後、裏切った武将たちはどうなったのでしょうか?
「裏切り」は必ずしも成功するとは限りません。むしろ、裏切ったことで人生が大きく変わってしまった武将もいます。
では、それぞれの武将の運命を見ていきましょう。
小早川秀秋の悲劇!裏切りの末路とは?
関ヶ原の戦いで最も有名な裏切り者、小早川秀秋。彼の裏切りが、徳川家康の勝利を決定づけました。しかし、その後の彼の人生は決して幸せなものではありませんでした。
・戦の後、大きな領地をもらうも…
小早川秀秋は、裏切りの功績を評価され、大きな領地(筑前52万石)を与えられました。一見すると「大成功」ですが、彼には大きな問題がありました。
・「裏切り者」というレッテル
彼は関ヶ原で西軍を裏切ったため、「いつまた裏切るか分からない」と周囲から信用されなくなってしまったのです。そのため、徳川家康や他の大名たちからも警戒されていました。
・そして若くして謎の死…
関ヶ原の戦いからわずか2年後、小早川秀秋は21歳という若さで急死しました。死因については、
- 酒の飲みすぎで体を壊した
- 精神的に追い詰められ、ストレスで病気になった
- 呪いを受けた
など、さまざまな説があります。
「裏切りで得たものは大きかったが、その後の人生は短かった」という、まさに悲劇の結末でした。
脇坂安治・赤座直保・朽木元綱・小川祐忠の運命の分かれ道
関ヶ原の戦いで、小早川秀秋に続いて裏切った脇坂安治、赤座直保、朽木元綱、小川祐忠の4人。彼らは戦後どうなったのでしょうか?
武将名 | 関ヶ原の裏切り後の運命 |
---|---|
脇坂安治 | 領地は減らされたが生き延びた |
赤座直保 | 領地を失い、歴史から姿を消した |
朽木元綱 | 裏切りのおかげで領地を守ることに成功 |
小川祐忠 | 戦後、消息不明 |
このように、裏切ったからといって全員が成功したわけではありません。
特に赤座直保や小川祐忠は、戦後ほとんど歴史に登場しなくなり、どうなったのか分からないままです。一方で、脇坂安治や朽木元綱は領地を守ることができ、生き延びることができました。
戦国時代は、「生き残るためなら何でもする」のが当たり前。裏切りも戦略の一つでしたが、うまくいくかどうかは運次第だったのです。
徳川家康は裏切り者たちをどう扱った?
関ヶ原の戦いで徳川家康が勝った後、彼は裏切り者たちをどう扱ったのでしょうか?実は、家康は「利用できる者は利用し、不要な者は切り捨てる」という方針でした。
小早川秀秋には大きな領地を与えたが信用はしなかった
「勝つために裏切ってくれる人」は助かりますが、家康にとっては「また裏切るかもしれない人」でもあります。だから、小早川には領地を与えましたが、彼を完全には信用していませんでした。
役に立ちそうな武将は、生き残らせた
例えば、脇坂安治や朽木元綱のように、今後も利用価値がありそうな武将は生かしました。しかし、赤座直保のように「もう不要」と判断した武将は、領地を取り上げられました。
つまり、家康は「裏切り者を全員処罰したわけではなく、自分にとって役立つかどうかで判断した」のです。さすが戦国時代の生き残り方を知っている家康ですね!
関ヶ原の裏切り者たちは本当に「悪者」なのか?
「裏切り者」というと、どうしても悪いイメージがありますよね。でも、本当にそうなのでしょうか?
・戦国時代では、裏切りは当たり前
戦国時代では「どちらについたら得か?」を考えて動くのが普通でした。特に関ヶ原の戦いは、どちらが勝つか分からなかったので、最終的に「勝ちそうな方」につくのも仕方がないことだったのです。
・裏切らなければ、逆に滅ぼされていたかも
もし、小早川秀秋が裏切らずに西軍が負けたら、彼は処刑されていたかもしれません。そう考えると、「生きるために裏切る」のは仕方のない選択だったとも言えます。
現代の感覚では「約束を守ること」が大切ですが、戦国時代は「生き残ること」が最優先だったのです。
関ヶ原の裏切りが日本の歴史に与えた影響
関ヶ原の戦いの裏切りは、その後の日本の歴史にも大きな影響を与えました。
- 徳川家康が天下を取る
裏切りがあったからこそ家康が勝ち、最終的に江戸幕府を開くことができました。 - 武将たちは「信用」が大事だと学ぶ
裏切ることは成功することもあれば、失敗することもあります。この戦いの後、武将たちは「裏切らないこと」が大切だと学びました。 - 日本の歴史が大きく変わった
もし、裏切りがなければ西軍が勝ち、徳川家康が天下を取れなかった可能性もあります。そうなると、日本の歴史は全く違うものになっていたかもしれません。
総括:関ヶ原の戦いの裏切り者一覧まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 関ヶ原の戦いは日本の歴史の大きな転換点で、西軍(石田三成)と東軍(徳川家康)の戦いだった。
- 東軍の勝利は「裏切り」によって決まった。特に小早川秀秋の裏切りが決定的だった。
- 裏切った武将一覧
- 小早川秀秋(西軍 → 東軍):勝利の決め手、戦後に大領地を得るも若くして急死
- 脇坂安治(西軍 → 東軍):生き延びたが領地を減らされる
- 赤座直保(西軍 → 東軍):領地を失い、消息不明
- 朽木元綱(西軍 → 東軍):領地を守ることに成功
- 小川祐忠(西軍 → 東軍):その後の消息不明
- 裏切りの理由
- 徳川家康の圧力(「裏切らなければ領地を失うぞ」と脅された)
- 石田三成の人望のなさ(「三成について行っても勝てなさそう」と思われた)
- 勝ち馬に乗る心理(「勝ちそうな方につこう」と判断)
- 裏切りの連鎖が発生し、西軍の士気が崩壊 → 東軍の圧勝
- 戦後の裏切り者の運命
- 小早川秀秋:大領地を得るも信用されず、21歳で急死
- 脇坂安治・朽木元綱:領地を守り、生き延びる
- 赤座直保・小川祐忠:消息不明
- 徳川家康の対応
- 裏切り者をすべて処罰せず、「利用価値のある者は生かし、不要な者は切り捨てた」
- 関ヶ原の戦いの影響
- 徳川家康が天下を取り、江戸幕府が成立
- 武将たちは「信用の重要性」を学ぶ
- 裏切りがなければ歴史が大きく変わっていた可能性がある