『源氏物語』を書いた紫式部について知っていますか?彼女は平安時代に活躍した天才作家で、宮廷の華やかな世界を描いた物語を残しました。

しかし、そんな紫式部の死因や晩年については、意外と知られていません。

実は、彼女がどのように亡くなったのか、はっきりした記録が残っていないのです。そこで今回は、紫式部の最期について、歴史に残る記録や様々な説をもとに詳しく解説していきます。

「紫式部はどこで、何歳で亡くなったの?」「病気だったの?」「もしかして暗殺?」など、みなさんの疑問を解決する内容になっています。

それでは、一緒に紫式部の人生の最後をたどっていきましょう!

紫式部の死因とは?歴史に残る記録と諸説を徹底解説

紫式部は『源氏物語』の作者として有名ですが、実は彼女の死因については明確な記録が残っていません。しかし、いくつかの歴史資料や研究から、いくつかの説が考えられています。

ここでは、紫式部の死因についての有力な説を紹介します。

紫式部の死因は不明?歴史的記録に残されていない理由

紫式部の死因については、明確な記録がありません。

これは、当時の平安時代において、男性の貴族や天皇の記録が中心で、女性の記録はあまり残されなかったためです。特に紫式部は、作家として有名ではあったものの、政治的な権力を持っていたわけではないため、彼女の最期について詳しく記録する人がいなかったのです。

ただし、平安時代の貴族の日記『小右記(しょうゆうき)』には「藤式部(紫式部)が亡くなった」とする記述があります。このことから、彼女が1019年頃に亡くなった可能性が高いと考えられています。しかし、死因についての詳細な記述はなく、現代の研究者たちが様々な説を立てて検証しているのが現状です。

紫式部の死因に関する3つの説【病死・老衰・暗殺説】

紫式部の死因には、大きく分けて3つの説があります。

  1. 病死説
    平安時代は衛生環境が悪く、多くの人が感染症や栄養不足で亡くなりました。紫式部も、当時流行していた疫病にかかった可能性があります。また、彼女の体調が悪化していたことを示す記述もあるため、何らかの病気で亡くなったという説が有力です。
  2. 老衰説
    紫式部は40歳以上生きたとされていますが、当時の貴族の平均寿命は30歳前後だったと言われています。そのため、彼女が長寿を全うし、自然に亡くなったという説もあります。
  3. 暗殺説
    紫式部は宮廷で活躍していましたが、その才能が周囲の嫉妬を買った可能性もあります。特に、彼女が仕えた中宮彰子(ちゅうぐうしょうし)の周囲には、藤原道長を敵視する人もいました。そのため、紫式部が何者かによって暗殺されたのではないか、という説もあるのです。

紫式部の健康状態と下垂体腫瘍説|視力障害が死因だった可能性

紫式部は、自身の日記『紫式部日記』の中で「最近、目が悪くなり、お経が読めなくなった」と記しています。この記述から、専門家の間では「下垂体腫瘍(かすいたいしゅよう)」が原因ではないかという説もあります。

下垂体腫瘍とは、脳の下部にできる腫瘍で、視野が狭くなる症状が特徴です。現代なら手術で治すこともできますが、当時は治療方法がなく、進行すると死に至ることもありました。

そのため、紫式部はこの病気が原因で亡くなった可能性も考えられます。

紫式部の死因は疫病?平安時代の病気と医療事情を考察

平安時代の貴族たちは、現代のような医療を受けることができず、病気になると命を落とすことがよくありました。特に流行していた病気には、次のようなものがあります。

  • 天然痘(てんねんとう):発疹が出て、高熱が続く病気。致死率が高かった。
  • 結核(けっかく):長期間にわたって咳が続き、次第に衰弱していく病気。
  • 麻疹(ましん):子どもだけでなく、大人も感染し、高熱が出る病気。

紫式部がこれらの病気のいずれかにかかり、亡くなった可能性は十分にあります。特に、貴族たちはお香を焚くことで病気を防ごうとしましたが、医学的な根拠はなく、多くの人が命を落としていました。

紫式部の死因は老衰?平安時代の平均寿命と比較

平安時代の貴族の平均寿命は30歳前後でしたが、紫式部は40歳以上生きたとされています。これは当時の基準では長生きとされ、彼女が老衰で亡くなった可能性も考えられます。

また、宮廷を離れた晩年は、静かに暮らしていたと考えられており、大きな病気にかかることなく、自然に亡くなったとも言われています。

ただし、病死や暗殺説と比べると、老衰説を裏付ける記録は少ないのが現状です。

紫式部の死因:晩年の様子や何歳で亡くなったのか

紫式部の晩年については、あまり多くの記録が残っていません。しかし、『小右記』や『紫式部日記』などの文献から、彼女がどのような最期を迎えたのかを推測することができます。

ここでは、紫式部の晩年の生活や、彼女が何歳で亡くなったのかを詳しく解説していきます。

紫式部は何歳で亡くなった?歴史資料から推測される死亡年

紫式部の生年については諸説ありますが、一般的には970年(天禄元年)から978年(天元元年)の間に生まれたとされています。そして、亡くなったのは1019年頃と推測されています。

このことから、紫式部は40歳から50歳の間で亡くなった可能性が高いと考えられます。平安時代の貴族の平均寿命が30歳前後だったことを考えると、紫式部は比較的長生きした人物であったと言えるでしょう。

晩年はどこで過ごした?紫式部が隠棲したとされる場所

紫式部は、一条天皇の中宮である彰子(しょうし)に仕えていましたが、1013年頃には宮廷を離れたとされています。その後は、京都の雲林院(うんりんいん)や、紫野(むらさきの)周辺で静かに暮らしていた可能性が高いです。

雲林院は、平安時代に学問の場として知られていた場所で、紫式部の父・藤原為時(ためとき)とも関わりがあったとされています。このような場所で、彼女は晩年を静かに過ごし、『源氏物語』の執筆や改訂を続けていたのではないかと考えられています。

紫式部の最期の記録|死亡当時の状況と家族の反応

紫式部の死亡当時の状況について、詳しい記録は残っていません。しかし、藤原実資(ふじわらのさねすけ)の『小右記(しょうゆうき)』には、「藤式部(とうしきぶ)亡くなる」との記述があることから、1019年頃に亡くなったと考えられています。

彼女には藤原賢子(ふじわらのけんし)という娘がいました。賢子は後に歌人として活躍し、「大弐三位(だいにのさんみ)」という称号で知られるようになります。紫式部の死後、賢子がどのような思いを抱いていたのかは分かりませんが、母の遺志を継いで和歌の道を歩んだことは確かです。

紫式部の墓所はどこ?現代に残る墓と供養の歴史

紫式部の墓とされる場所はいくつかありますが、最も有名なのは京都市北区紫野(むらさきの)にある「紫式部墓所」です。ここは、彼女が晩年を過ごしたとされる雲林院の近くにあります。

また、京都の廬山寺(ろざんじ)も紫式部ゆかりの地とされています。この寺の境内には、「紫式部邸宅跡」の石碑が建てられており、彼女の存在を今に伝えています。

さらに、滋賀県大津市の石山寺(いしやまでら)にも、紫式部の供養塔があります。石山寺は、紫式部が『源氏物語』を執筆した場所として知られ、多くの参拝者が訪れるスポットです。

紫式部の晩年と『源氏物語』の完成|死後の評価

紫式部は、晩年も『源氏物語』の執筆を続けていたと考えられています。『源氏物語』は全54帖からなる長編小説ですが、すべてが紫式部の手によるものかどうかは議論の的となっています。

彼女の死後、『源氏物語』は多くの人々に読まれ続け、時代を超えて愛される作品となりました。鎌倉時代には注釈書が書かれ、室町時代には絵巻としても広まりました。そして現代に至るまで、さまざまな形で再解釈され続けています。

紫式部自身の晩年については謎が多いものの、彼女の作品は1000年以上にわたって人々を魅了し続けているのです。

総括:紫式部の死因を簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  1. 紫式部の死因は不明
    • 明確な記録が残っておらず、死因については複数の説がある。
  2. 紫式部の死亡時期と年齢
    • 970年~978年頃に生まれ、1019年頃に亡くなったと推測される。
    • 亡くなった年齢は40~50歳と考えられる。
  3. 死因の有力な3つの説
    • 病死説:当時流行していた疫病や感染症が原因の可能性。
    • 老衰説:平安貴族の平均寿命30歳を超えていたため、自然死の可能性。
    • 暗殺説:宮廷の権力闘争に巻き込まれた可能性(証拠は不明)。
  4. 下垂体腫瘍説
    • 『紫式部日記』の記述から、視力障害を伴う脳腫瘍(下垂体腫瘍)による死亡の可能性も指摘されている。
  5. 晩年の過ごし方
    • 1013年頃に宮廷を離れ、京都・雲林院や紫野で隠棲していたと考えられる。
    • 『源氏物語』の改訂や執筆を続けていた可能性が高い。
  6. 紫式部の最期と家族の反応
    • 彼女の死に関する詳細な記録はない。
    • 娘・藤原賢子(大弐三位)は母の影響を受け、歌人として活躍した。
  7. 紫式部の墓所
    • 京都市北区紫野にある「紫式部墓所」が有名。
    • 京都・廬山寺や滋賀・石山寺にも供養塔がある。
  8. 『源氏物語』の完成と紫式部の死後の評価
    • 彼女の死後も『源氏物語』は高く評価され、1000年以上にわたって読まれ続けている。
    • 鎌倉時代以降、注釈書や絵巻が作られ、文化的影響を与え続けている。