今日は幕末から明治にかけて活躍した榎本武揚(えのもと たけあき)について解説します。

榎本武揚といえば、「函館戦争」や「蝦夷共和国」で有名な人物ですが、実は明治時代には政府の大臣としても大活躍しました。幕末の戦乱の中で新選組の土方歳三と共に戦い、敗北したあとも、日本の発展のために尽力したすごい人なのです。

この記事では、榎本武揚がどんなことをしたのか、なぜ明治政府に迎えられたのか、そして新選組の土方歳三との関係について、分かりやすく解説します。歴史の授業でも出てくる人物なので、ぜひ最後まで読んでくださいね!

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榎本武揚は何をした人か簡単に解説!激動の人生

榎本武揚は、幕末に活躍した幕府の海軍士官であり、明治時代には政治家や外交官としても日本の発展に貢献しました。彼は西洋の技術を学ぶためにオランダへ留学し、帰国後は幕府の軍艦を率いて戦います。

しかし、戊辰戦争で旧幕府軍が敗れると函館へ逃れ、「蝦夷共和国」という国を作りました。その後、新政府軍に降伏し投獄されますが、その才能を買われて明治政府に迎えられます。外交や北海道開拓など、さまざまな分野で活躍したのです。

榎本武揚は幕末の幕臣であり、優れた海軍士官だった

榎本武揚は1836年、江戸で生まれました。幼い頃から勉強熱心で、特に海外の技術や文化に興味を持っていました。幕府が設立した「長崎海軍伝習所」に入り、オランダ人の教師から船の操縦や造船技術、化学、国際法などを学びます。

その後、1862年にオランダへ留学し、さらに高度な海軍技術を学びました。オランダでは、当時最新の軍艦である「開陽丸(かいようまる)」の建造にも関わり、帰国後はその船の艦長に就任します。

帰国したとき、日本はすでに幕末の戦乱期に突入しており、榎本は幕府の海軍を指揮する立場となりました。

戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷共和国を建国

1868年、戊辰戦争が始まると、榎本武揚は幕府の海軍を率いて戦いました。しかし、新政府軍に押され、やむを得ず幕府の残党を引き連れて蝦夷(現在の北海道)へと逃れます。

彼らは函館の「五稜郭(ごりょうかく)」を拠点に、「蝦夷共和国」という新たな政府を作りました。榎本はこの国の「総裁(そうさい)」となり、西洋の政治制度を取り入れた新しい国づくりを目指しました。

しかし、新政府軍の攻撃を受け、最終的には降伏することになります。

投獄からの復帰!明治政府に才能を買われ政治家に

榎本は降伏後、新政府に捕らえられ、東京に送られます。彼は賊軍(敵軍)のリーダーとして扱われ、最初は厳しく監視されました。

しかし、彼の知識や能力を惜しむ声が多く上がります。特に、勝海舟や福沢諭吉などの著名人が「榎本は日本のために必要な人材だ」と助命を嘆願しました。

その結果、榎本は1872年に特赦(特別に許されること)を受け、明治政府の開拓使(北海道の開発を担当する役所)に迎えられます。彼はその後、政府の要職を歴任し、日本の発展に大きく貢献することになります。

外交官としても活躍!樺太・千島交換条約を締結

榎本は外交官としても活躍し、特に「樺太・千島交換条約」の締結に貢献しました。この条約では、日本が樺太(からふと)を放棄する代わりに、千島列島を日本領とすることが決められました。

この取り決めによって、日本とロシアの国境が明確になり、長年の問題が解決されました。

榎本は交渉において、ヨーロッパで学んだ国際法の知識を駆使し、日本に有利な条件を引き出しました。彼の活躍によって、日本の外交力が向上し、国際社会での地位が高まったのです。

逓信大臣や文部大臣などを歴任し、日本の発展に尽力

榎本はその後、逓信大臣(郵便や通信を担当する大臣)や文部大臣(教育を担当する大臣)などを務めました。彼が特に力を入れたのは、郵便制度の整備や教育の発展です。

また、東京農業大学の前身である「徳川育英会育英学農業科」の設立にも関わり、日本の農業技術向上にも貢献しました。

彼は常に「日本をよりよい国にするためにはどうすればよいか」を考え、新しい制度を作ることに尽力しました。

榎本武揚は何をした人か簡単に:土方歳三の関係

榎本武揚と土方歳三は、幕末の激動の時代に共に戦った戦友です。榎本は海軍の指揮官として、土方は陸軍の指揮官として、旧幕府軍のために戦いました。

二人が出会ったのは、戊辰戦争の終盤、旧幕府軍が函館の五稜郭に集結したときです。新政府軍に追い詰められた彼らは、最後の戦いを決意しますが、それぞれ異なる運命をたどることになります。

榎本武揚と土方歳三は函館戦争で共闘した

戊辰戦争で旧幕府軍が各地で敗れる中、榎本武揚は残った幕臣たちを率いて蝦夷地(北海道)へと逃れました。その際、新選組の土方歳三も榎本の軍に合流し、共に五稜郭で戦うことになります。

榎本は海軍を指揮し、土方は陸軍を指揮する形で役割を分担しました。土方は、函館の防衛の要となる戦略を立て、新政府軍の進軍を阻止しようとしました。

彼は、新政府軍が蝦夷地に上陸する際、激しい迎撃を行い、一時は勝利を収めることもありました。しかし、物資や兵士の数が圧倒的に少ない旧幕府軍にとって、長期戦は厳しく、新政府軍の大規模な攻撃に耐えきれなくなります。

土方歳三の最期と榎本武揚の決断

五稜郭の戦いの最中、土方歳三は最後の突撃を試み、函館の一本木関門付近で戦死しました。彼は、武士としての誇りを貫き、戦場で倒れることを選んだのです。

一方、榎本武揚はこの戦いの中で、状況を冷静に分析し、降伏することを決断しました。

榎本は、新政府軍に対し「日本の未来のために、戦いを終わらせるべきだ」と降伏を申し出ました。彼は無駄に命を落とすことを避け、幕臣たちの生きる道を確保しようと考えたのです。

この決断により、多くの旧幕府軍の兵士たちが助かることになりました。

新選組と旧幕府軍の関係性

新選組はもともと、幕府を守るために結成された警察組織でした。しかし、幕末の戦乱が激しくなるにつれ、彼らは単なる治安維持部隊ではなく、戦闘部隊としての役割を果たすようになります。

戊辰戦争が始まると、新選組の多くの隊士たちは戦場に向かい、多くが命を落としました。土方歳三はその中でも最後まで戦い抜いた人物の一人です。

榎本武揚と合流した後も、新選組の生き残りは旧幕府軍の一員として戦い続けました。彼らの多くは函館戦争で命を落とし、幕末の歴史に名を刻むことになったのです。

榎本武揚と新選組のその後の評価

土方歳三は、戦場での勇敢な戦いぶりから「新選組の最後の武士」として称えられることが多いです。一方、榎本武揚は降伏したことで「変節者(主義を変えた者)」と批判されることもありました。

しかし、榎本の決断がなければ、旧幕府軍の多くの兵士が無駄に命を落としていた可能性があります。

榎本はその後、明治政府に迎えられ、政治家や外交官として活躍しました。一方、新選組の生き残りの多くは、明治時代を生き抜くことができず、歴史の中に埋もれていきました。しかし、土方歳三の名は、今でも「武士の誇りを貫いた男」として語り継がれています。

榎本武揚の晩年と土方歳三の歴史的評価

榎本武揚は、その後も日本の発展のために尽力し、外交や教育、通信制度の発展に貢献しました。彼は1908年に72歳で亡くなりましたが、その功績は今も評価されています。

一方、土方歳三は函館戦争で戦死したため、明治時代を生きることはありませんでした。しかし、彼の武士としての生き様は、今でも多くの人々の心に刻まれています。

新選組の人気は、時代を超えて高く、彼の存在は「幕末の最後の侍」として語り継がれています。

総括:榎本武揚は何をした人か簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 幕末の海軍士官として活躍し、西洋の技術を学ぶためオランダに留学した。
  • 戊辰戦争では旧幕府軍を率い、函館の五稜郭で「蝦夷共和国」を建国したが、新政府軍に敗れ降伏。
  • 降伏後は投獄されるも、その才能を買われて明治政府に迎えられる。
  • 外交官として「樺太・千島交換条約」を締結し、日本の国境を確定。
  • 逓信大臣や文部大臣を務め、日本の通信制度や教育の発展に貢献。
  • 土方歳三とは函館戦争で共闘し、榎本は降伏を決断、土方は戦死。
  • 新政府に仕えたため「変節者」と批判されることもあったが、日本の発展に尽力した人物。
  • 1908年に72歳で亡くなり、その功績は現在も高く評価されている。