「租庸調(そようちょう)」って何だろう?
歴史の授業で聞いたことがあるけれど、漢字が多くて難しそう…。そんな風に思っていませんか?でも、大丈夫!今回は、塾長の私が「租庸調」をとことん分かりやすく解説します。
奈良時代の人々がどんな税を納めていたのか、なぜそんな仕組みができたのかを知ると、歴史がもっと面白くなりますよ!さらに、テストで役立つ語呂合わせやポイントも紹介するので、ぜひ最後まで読んでくださいね。
租庸調をわかりやすく解説!誰が決めた?どこに納める?

租庸調は、奈良時代に導入された税制度で、農民たちにとってはとても大きな負担でした。でも、これがなければ国を運営することはできなかったのです。
では、具体的にどんな仕組みだったのでしょうか?一緒に見ていきましょう。
租庸調とは?簡単にわかりやすく解説!
租庸調とは、701年に制定された「大宝律令(たいほうりつりょう)」という法律で定められた税制度のことです。この制度は、3つの税からできています。
- 租(そ)…お米(稲)の3%を納める
- 庸(よう)…布または労働を納める
- 調(ちょう)…特産品(絹や鉄など)を納める
これらの税を納めることで、国は公務員の給料を払ったり、都を整備したりするお金を確保していました。今の時代に置き換えると、「租」は固定資産税、「庸」は労働の代わりに払うお金、「調」は住んでいる地域の特産品で払う税金のようなものです。
租庸調を決めたのは誰?なぜ始まったのか?
租庸調は、日本の天皇と政府が決めた税制度です。特に「大宝律令」という法律を作った天武天皇(てんむてんのう)や持統天皇(じとうてんのう)、藤原不比等(ふじわらのふひと)などの政治家たちが中心となって導入しました。
では、なぜこのような税が必要だったのでしょうか?それは、当時の日本が「中央集権国家(ちゅうおうしゅうけんこっか)」を目指していたからです。つまり、天皇を中心とした強い国を作るためには、全国から税を集めて政府がしっかり運営する必要があったのです。
また、日本はこの頃、中国の「唐(とう)」という国からいろいろな制度を学んでいました。租庸調も、もともとは唐の「租庸調制」を参考にして作られたのです。
租庸調の仕組み|誰がどこに納めた?
租庸調は、全国の農民(特に成人男性)に課せられました。
では、それぞれどこに納めるのでしょうか?
- 租(そ)は、各地の役所である「国衙(こくが)」に納めました。
- 庸(よう)と調(ちょう)は、都にある政府(中央政府)に納めました。
これらを都へ運ぶのは「運脚(うんきゃく)」と呼ばれる人たちの仕事でした。しかし、当時は車や電車がなく、都まで歩いて何百キロも荷物を運ぶ必要があったのです。
この運搬はとても大変で、食料が足りなくて亡くなる人もいました。
租(そ)の内容と負担|収穫の3%が税金に
租は、農民が耕して収穫したお米の約3%を税として納める制度でした。税率としては低いように見えますが、農業は天候に左右されるため、凶作の年でも税を納める必要があるのはとても大変でした。
また、このお米はすぐに使われるわけではなく、各地の倉庫(正倉:しょうそう)に貯蔵されていました。これは、もしものときの備蓄用として使われたのです。
さらに、政府はこのお米を「出挙(すいこ)」という仕組みで農民に貸し付け、利息をつけて返させました。これにより、政府はさらに財源を確保していたのです。
庸(よう)と調(ちょう)の内容|なぜ布や特産品を納める?
庸(よう)は、本来は都に行って働く「労役(ろうえき)」のことでした。しかし、遠くに住んでいる人にとって都まで行くのは大変なので、「庸布(ようふ)」と呼ばれる布を納めることで労働の代わりとしました。
庸布は、役人の衣服や公務員の給料として使われました。
調(ちょう)は、地域ごとの特産品を納める税です。たとえば、以下のようなものがありました。
- 美濃国(みののくに)…絹織物
- 上総国(かずさのくに)…麻布
- 越後国(えちごのくに)…塩や魚
- 飛騨国(ひだのくに)…木材や漆
このように、それぞれの地域で取れるものを税として納めることで、都で必要な物資を確保していました。
租庸調をわかりやすく!なぜ廃止された?影響とは?

租庸調は奈良時代の重要な税制度でしたが、後の時代には廃止されてしまいました。なぜこの制度がうまくいかなくなったのでしょうか?また、当時の農民たちはどんな影響を受けたのでしょうか?
一緒に詳しく見ていきましょう。
租庸調は農民にとってどれくらい大変だった?
租庸調は、農民にとってとても大きな負担でした。特に次の3つの理由が挙げられます。
- 収穫が少なくても租を納めなければならない
- 例えば、日照りや洪水などの天災があっても、お米(租)を納める必要がありました。これにより、農民たちは食べるお米まで減ってしまい、生活が苦しくなったのです。
- 例えば、日照りや洪水などの天災があっても、お米(租)を納める必要がありました。これにより、農民たちは食べるお米まで減ってしまい、生活が苦しくなったのです。
- 庸や調を都まで運ぶのが大変
- 布や特産品を都まで運ぶ「運脚(うんきゃく)」の役割がありました。しかし、当時は徒歩で何百キロも運ばなければならず、食料が足りずに餓死する人もいました。
- 布や特産品を都まで運ぶ「運脚(うんきゃく)」の役割がありました。しかし、当時は徒歩で何百キロも運ばなければならず、食料が足りずに餓死する人もいました。
- 労役(雑徭)が重すぎる
- 農民は、農作業のほかに土木工事や都での労働などにも駆り出されました。年間60日間も働かされることがあり、田畑を耕す時間が減ってしまうという問題もありました。
租庸調の影響で農民はどうなった?逃げ出す人も?
農民にとって税負担があまりにも重すぎたため、次のような社会問題が発生しました。
- 「逃散(ちょうさん)」が増加
租庸調の負担に耐えきれず、農民が村を捨てて逃げ出す「逃散(ちょうさん)」が増えました。逃散者が増えると、田んぼを耕す人がいなくなり、国の税収も減少してしまいます。 - 「浮浪(ふろう)」する人が続出
租庸調を避けるために戸籍を偽る「浮浪(ふろう)」も増えました。自分の本籍地から離れ、他の土地で生活することで税を逃れようとする人が増えたのです。 - 国の財政が悪化
逃亡者や浮浪者が増えたことで、国が集められる税金がどんどん減っていきました。これにより、国家の財政が悪化し、最終的に租庸調制度は崩壊していきました。
租庸調はなぜ廃止されたのか?
租庸調は、平安時代の初め(9世紀ごろ)にはうまく機能しなくなり、次第に廃止されました。理由としては、次の3つが挙げられます。
- 農民の逃亡が止まらなかった
- 逃げる農民が増え、租庸調で集められる税が減ったため、政府は維持できなくなりました。
- 逃げる農民が増え、租庸調で集められる税が減ったため、政府は維持できなくなりました。
- 新しい税制度(両税制)が導入された
- 780年、唐の制度を参考にした「両税制(りょうぜいせい)」という新しい税制度が導入されました。この制度では、春と秋の2回に分けて税を徴収することで、税収の安定を図りました。
- 780年、唐の制度を参考にした「両税制(りょうぜいせい)」という新しい税制度が導入されました。この制度では、春と秋の2回に分けて税を徴収することで、税収の安定を図りました。
- 荘園(しょうえん)制度の発展
- 平安時代になると、有力貴族や寺社が農地を所有する「荘園制度」が発展しました。これにより、政府が直接税を徴収するのではなく、地方の領主が管理する形になり、租庸調は必要なくなっていきました。
租庸調と現代の税制度の違い
租庸調は、現代の税制度と似ている部分もありますが、大きく違う点もあります。
項目 | 租庸調(奈良時代) | 現代の税制度 |
---|---|---|
税の種類 | 租(米)、庸(布や労働)、調(特産品) | 所得税、住民税、消費税など |
税の納め方 | 直接物を納める | お金で納める |
徴収方法 | 各地の役所で回収 | 給与から天引き、銀行振込など |
税の使い道 | 天皇・役人の生活費、都の整備 | 国の運営、公共サービス |
当時の農民は、お金ではなく「物」や「労働」で税を納めなければならなかったので、負担がとても重かったのですね。
租庸調の覚え方!テスト対策に使える語呂合わせ
租庸調を覚えるための語呂合わせを紹介します!
- 「ソーメン、庸布、チョコ」(ソ=租、庸=庸布、チョ=調)
→ 租=米、庸=布、調=特産品 を納めると覚えよう! - 「そ(租)は米、よう(庸)は布、ちょう(調)は特産!」
→ シンプルに語呂合わせを使って暗記! - 「チョウ(調)は特産、ヨウ(庸)は布、ソ(租)は米!」
→ 逆から読んでも意味が通るので、テスト前に唱えよう!
テストでは、「租庸調の違いを説明しなさい」という問題がよく出るので、語呂合わせを使ってしっかり覚えておきましょう。
総括:租庸調をわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 租庸調とは?
→ 701年の「大宝律令」で定められた奈良時代の税制度。農民(主に成人男性)が負担。 - 租庸調の内訳
- 租(そ):収穫した稲の約3%を国に納める
- 庸(よう):都での労働(または布で代替)
- 調(ちょう):各地の特産品(絹・鉄・塩など)を納める
- 租庸調を決めたのは誰?
→ 天武天皇・持統天皇・藤原不比等らが主導し、「唐」の税制を参考に導入。 - 租庸調の納め方
- 租:地方の役所「国衙(こくが)」に納める
- 庸・調:中央政府(都)へ運ぶ(運脚という人が担当)
- 農民の負担と問題点
- 収穫が少なくても租を納める必要があり、凶作時の負担が大きい
- 庸・調を都まで運ぶ負担が大きく、餓死者も出た
- 労役(雑徭)による労働負担が過酷で、農民が逃亡する「逃散」が増えた
- 租庸調の廃止理由
- 逃亡者が増えて税収が減少
- 780年に新税制「両税制(りょうぜいせい)」が導入された
- 平安時代に「荘園制度」が発展し、租庸調が不要になった
- 現代の税制度との違い
- 奈良時代:税は「米・布・特産品」で納めた
- 現代:税は「お金」で納め、消費税・所得税・住民税などがある