第二次世界大戦の中でも「最も悲惨」と言われるスターリングラードの戦い。ドイツとソ連が一進一退の攻防を繰り広げたこの戦いは、史上最大規模の市街戦として歴史に名を残しています。
「なぜこんな戦いが起こったのか?」
「ドイツ軍はなぜ敗れたのか?」
といった疑問を持つ人も多いはずです。
この記事では、戦いの背景から展開、犠牲者数、そして敗因までを、塾長が小学生にもわかるようにやさしく解説します。
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スターリングラードの戦いをわかりやすく解説
スターリングラードの戦いは、第二次世界大戦を大きく動かした歴史的な戦闘です。ここでは「なぜ起きたのか?」「どう進んだのか?」を、流れに沿ってやさしく解説していきます。
スターリングラードの戦いとは?史上最大の市街戦
スターリングラードの戦いは、1942年6月から1943年2月まで続いたソ連とドイツの激しい戦いです。場所はソ連のスターリングラード(今のヴォルゴグラード)という工業都市で、市街戦の中でもとくに規模が大きく、世界中の歴史に影響を与えた戦いとされています。
この戦いにはドイツを中心とした枢軸軍と、ソ連軍が参戦し、合わせて200万人以上が命を落としました。なんとドイツ軍は街の90%を占領したのに、最終的にはソ連軍に包囲されて逆転負けをしてしまったのです。
瓦礫と化した街中での戦いは、まさに「ネズミ戦争」とも呼ばれ、建物一つを奪い合う過酷な戦闘が続きました。人類史上、最大かつ最も悲惨な市街戦といえるでしょう。
原因とは?背景にあった3つの要因
まず一つ目の原因は、「独ソ不可侵条約の破棄」です。もともとドイツとソ連は戦争をしないと約束していましたが、1941年にヒトラーはその約束を破ってソ連に攻め込みました。
二つ目は、「ヒトラーの野望」です。ヒトラーはドイツ人のための“生存圏”を広げようと考えていて、ソ連の土地や資源を手に入れることを目的としていました。
三つ目は「スターリングラードという都市の重要性」です。この都市は、交通の要所であり、軍事工場も多く、ソ連にとって絶対に守りたい都市でした。しかも都市の名前が“スターリン”にちなんでいるため、精神的にも「絶対に落としてはいけない場所」だったのです。
戦いの経過をわかりやすく時系列で整理
スターリングラードの戦いの始まりは、1942年6月にドイツ軍が南方から攻め込んだところからです。ドイツは最初こそ優勢で、8月にはスターリングラードの空爆を開始し、市街地の90%を占領しました。
ところが、9月から始まった市街戦は予想以上に激しく、ソ連軍は建物ごとに徹底抗戦。冬が近づくとソ連軍は“ウラヌス作戦”を発動し、ドイツ軍を逆に包囲します。
包囲されたドイツ軍は補給が絶たれ、飢えや寒さに苦しみながら戦い続けます。1943年2月2日、ついにドイツ軍の第6軍が降伏。スターリングラードの戦いは、ソ連の大逆転で幕を閉じたのです。
犠牲者数は?民間人も含めた被害の実態
この戦いの最大の特徴は、犠牲者の多さにあります。ドイツ軍の死傷者は約85万人、ソ連側は110万人以上ともいわれ、民間人の被害も大きく、スターリングラードにいた市民60万人のうち、20万人以上が命を落としました。
さらに、包囲されたドイツ軍のうち約30万人が捕虜となりましたが、厳しいシベリアの環境で生きて帰れたのは、わずか6000人程度でした。
このように、軍人も民間人も大きな犠牲を払ったことから、「人類史上、最も過酷な戦いの一つ」として今も語り継がれているのです。
第二次世界大戦の転換点だった理由
スターリングラードの戦いは、第二次世界大戦の“転換点”と言われます。その最大の理由は、これがドイツ軍にとって「初めての大敗北」だったことです。
この勝利により、ソ連軍の士気は大きく上がり、「ドイツ軍は無敵ではない」という認識が世界中に広まりました。実際、戦いの後に行われたイタリア戦線やノルマンディー上陸作戦でも、連合軍が優位に立つようになりました。
また、ソ連とアメリカという二大国が勝者となったことで、戦後は「冷戦」という新たな対立構造が生まれていきます。このように、スターリングラードの戦いは戦局だけでなく、世界の未来にも大きな影響を与えた戦いだったのです。
スターリングラードの戦いの敗因は何?分かりやすく
さて、ここからは「なぜドイツ軍は敗れたのか?」について見ていきましょう。一時は街の90%を占領するほど優勢だったのに、なぜ最終的に逆転されたのでしょうか?
実はそこには、いくつもの致命的なミスや要因が重なっていたのです。今回は、代表的な5つの敗因を、順番にわかりやすく解説していきますよ!
ヒトラーの戦略ミスと強硬姿勢
まず最も大きな敗因は、ヒトラーの無謀な戦略と命令です。ドイツ軍の司令官たちは「包囲される前に撤退すべきだ」と進言しましたが、ヒトラーはそれを拒否。「スターリングラードは死守せよ!」と命じ続けたのです。
この「撤退禁止命令」が出たことで、ドイツ第6軍は冬の中、補給もなく包囲され、逃げ道を失ってしまいました。また、ヒトラーは他の地域でも多正面作戦を続けており、兵力の集中ができなかったのも致命的でした。
一つの街にこだわりすぎて、全体の戦局を見失ったことが、大きな敗北へとつながったのです。
補給路の寸断と冬将軍の影響
二つ目の敗因は、「補給の失敗」と「厳しい冬の寒さ」です。ドイツ軍は長い補給線に頼っていましたが、ソ連軍に包囲されたことで物資が届かなくなりました。
さらに、スターリングラードの冬は気温マイナス30度にもなり、戦車は凍りつき、兵士たちは凍傷や飢えでどんどん弱っていきます。寒さで靴が破れ、凍えた足を切断する兵士もいたと言われています。
このように、補給が届かない中での極寒の戦いは、兵士たちの戦意を奪い、戦力を著しく低下させたのです。
ソ連軍の巧妙な包囲作戦
三つ目の敗因は、ソ連軍の作戦がとても上手だったことです。とくに「ウラヌス作戦」と呼ばれる包囲作戦は、戦争史に残る名作戦でした。
これは、スターリングラードの北と南にいた枢軸国(ルーマニア軍やイタリア軍)を狙って攻撃し、ドイツ軍の背後をぐるっと包囲するというものです。兵士も戦車もソ連側が圧倒的に多く、まさにドイツ軍を“袋のネズミ”状態にしてしまいました。
この作戦を指揮したのは、後に名将とされる「ジューコフ元帥」です。彼の冷静な判断と大規模な兵力運用が、ソ連軍を勝利に導いたのです。
枢軸国の連携不足と戦力分散
四つ目の敗因は、ドイツ以外の同盟国、つまりルーマニア軍やイタリア軍などの枢軸国の戦力が弱く、連携も取れていなかったことです。
ソ連軍が攻撃したのは、この枢軸国軍の守備する部分でした。彼らは装備も士気も低く、すぐに突破されてしまったため、ドイツ軍は背後を突かれて包囲されることになったのです。
また、ヒトラーが多くの戦線に同時に兵力を送っていたため、スターリングラードに全力を注ぐことができなかったのも敗因の一つでした。まさに「戦力の分散」が命取りとなったのです。
長期化による兵士の士気と疲弊
最後の敗因は、戦いが長期化したことで、兵士たちの士気がどんどん下がっていったことです。
当初は短期決戦で勝つつもりだったドイツ軍ですが、いつまでたっても勝てず、冬を迎えてしまいました。補給もない、寒さは厳しい、食料も少ない、仲間は次々と倒れていく……。そんな環境の中で、戦う気力を保つのはとても難しかったのです。
一方、ソ連側は「ここを守れば国が助かる!」という強い意志で戦っていたため、士気の差も大きくなっていました。戦争では「気持ち」も大事な要素です。この差が最後の勝敗を分けたとも言えるでしょう。
総括:スターリングラードの戦いをわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます、
✅ スターリングラードの戦いとは?
- 1942年6月~1943年2月にかけて、ドイツとソ連が戦った史上最大の市街戦
- 戦場はソ連の工業都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)
- 合計200万人以上の死傷者が出たとされる超大規模な戦闘
✅ 戦いの背景・原因
- 【原因①】独ソ不可侵条約をヒトラーが破棄
- 【原因②】ヒトラーの東方拡大政策(生存圏)
- 【原因③】スターリングラードは交通・軍需・象徴的に重要な都市だった
✅ 戦いの流れ(時系列)
- ドイツ軍が進撃し、市街地の90%を占領
- ソ連軍がウラヌス作戦でドイツ軍を包囲
- 冬の寒さと補給不足でドイツ軍は劣勢に
- 1943年2月、ドイツ第6軍が降伏しソ連の勝利
✅ 被害・犠牲者の規模
- ドイツ軍:約85万人の死傷者
- ソ連軍:約110万人以上の死傷者
- 市民:約20万人以上が死亡
- 捕虜となったドイツ兵30万人のうち、生還者は6000人前後
✅ スターリングラードの意義
- ドイツ軍にとっての初の大敗北
- ソ連と連合国の士気が上がる
- 戦後の冷戦構造のきっかけにもなった
✅ ドイツの敗因まとめ
- ヒトラーの無謀な作戦と撤退禁止命令
- 補給路断絶と極寒による被害(冬将軍)
- ソ連のウラヌス作戦による包囲成功
- 枢軸国との連携不足、兵力分散
- 戦いの長期化による士気低下と疲弊