みなさんは「聖徳太子」と聞くと、どんなイメージを持ちますか?
「十七条憲法を作った人」「一度に10人の話を聞いた人」「1万円札の人」など、さまざまなイメージがあるかもしれません。
でも、聖徳太子がどうやって亡くなったのか知っていますか?歴史の教科書にはあまり詳しく書かれていませんが、実は「天然痘にかかった」「誰かに暗殺された」などいくつかの説があるのです。
今回は聖徳太子の死因や亡くなった日の様子・お墓の場所について、分かりやすく解説していきます!
歴史の謎に興味がある人も、学校の授業で勉強する人も、ぜひ最後まで読んでくださいね。
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聖徳太子の死因:定説から陰謀説まで詳しく解説
聖徳太子の死因については、歴史の記録にしっかり残されていません。そのため「本当に病気で亡くなったのか?」「もしかしたら誰かに殺されたのでは?」といった憶測が生まれました。
ここでは、聖徳太子の死因について考えられているいくつかの説を紹介します。
聖徳太子の死因は天然痘?最も有力な説
まず、一番有力とされているのが「天然痘(てんねんとう)」による病死です。
天然痘とは?
天然痘は、昔は「疱瘡(ほうそう)」とも呼ばれた、とても怖い病気でした。発疹(ぶつぶつ)が全身に広がり、高熱が出て、重症になると命を落とすこともありました。
当時の日本では、この病気にかかると多くの人が亡くなっていたため、貴族や皇族にとっても大きな脅威でした。日本書紀には、聖徳太子が亡くなる前日に、妃(奥さん)の膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)が亡くなったと記されています。同じ病気にかかっていたと考えると、天然痘による死の可能性は高いといえます。
また、聖徳太子の母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひと)が亡くなったのも、太子が亡くなる2ヶ月前でした。このことから、一家全体に感染が広がっていたのかもしれません。
暗殺説は本当か?蘇我氏との政治的関係
聖徳太子の死には「暗殺されたのでは?」という説もあります。では、誰が暗殺したのでしょうか?
その最有力候補とされるのが、当時の実力者・蘇我馬子(そがのうまこ)です。
聖徳太子と蘇我馬子は、最初は協力して政治を行っていました。しかし、聖徳太子が「天皇を中心とした国づくり」を目指したのに対し、蘇我馬子は「蘇我氏が権力を握る政治」を進めたかったのです。
もし、聖徳太子が天皇中心の政治を成功させてしまうと、蘇我氏の力が弱まってしまいます。そのため、蘇我馬子が太子の命を狙ったのではないか?という疑いがあるのです。
証拠はあるの?
はっきりとした証拠は残されていませんが、聖徳太子の死後、蘇我氏の権力がさらに強まりました。そして約20年後、蘇我馬子の孫である蘇我入鹿(そがのいるか)が、聖徳太子の子どもや孫たちを滅ぼしてしまったのです。
これを考えると、聖徳太子の死が「計画的なもの」だった可能性もありそうですね。
刀自古郎女の嫉妬説?愛憎が絡む死因の可能性
もう一つ、聖徳太子の死因として面白い説があります。それは、嫉妬した妻が毒を盛ったというものです。
聖徳太子には4人の妻がいました。その中でも一番身分が高かったのが、蘇我馬子の娘・刀自古郎女(とじこのいらつめ)です。しかし、聖徳太子は膳大郎女を最も愛していたと言われています。
このことに刀自古郎女が嫉妬し、太子と膳大郎女を毒殺したのでは?という説があります。ちょうど膳大郎女が亡くなった翌日に聖徳太子が亡くなっていることから、「何か事件があったのでは?」と考えたくなりますね。
しかし、この説にもはっきりとした証拠はなく、あくまで推測の域を出ません。ただし、歴史の中では「愛憎が原因で事件が起こること」は珍しくないため、可能性の一つとして考えることはできます。
死因の真相は?複数の説から導かれる結論
ここまで 「天然痘説」「暗殺説」「嫉妬説」 という3つの説を紹介しましたが、どれが本当なのでしょうか?
現時点では、「天然痘説」が最も有力ですが、当時の権力争いを考えると「暗殺説」や「嫉妬説」も完全には否定できません。聖徳太子はとても優れた政治家でしたが、それだけに「敵も多かった」のかもしれませんね。
なぜ聖徳太子の死因が議論され続けるのか
聖徳太子の死因がはっきりしない理由の一つは、「日本書紀」が編纂されたのが太子の死後100年以上経ってからだったことです。
また、日本書紀は天皇の正統性を強調するために書かれた歴史書なので、「都合の悪い事実は書かれていない」可能性もあります。
このため、本当の死因を知ることは難しいのです。しかし、それがまた歴史の面白さでもありますね。
聖徳太子の死因関連:死んだ日の様子や死んだ場所
聖徳太子は、ただの政治家ではありませんでした。仏教の普及に貢献し、当時の国づくりに深く関わった人物です。そんな彼が亡くなった日はどのようなものだったのでしょうか?
また、その死が日本の歴史にどんな影響を与えたのかを詳しく見ていきましょう。
聖徳太子が亡くなった日はいつ?
聖徳太子が亡くなったのは推古天皇30年(西暦622年)2月22日です。
しかし、実は「日本書紀」では推古天皇29年(西暦621年)と書かれているため、記録の違いがあることが分かります。
なぜ記録が違うの
当時は、まだ「正確な暦(こよみ)」が整っていなかったため、年号のずれが起こった可能性があります。また、後の時代の歴史家が「聖徳太子の死を特別なものにするため」に、記録を書き換えたのかもしれません。
どちらにしても、聖徳太子が冬の寒い時期に亡くなったことは間違いないでしょう。
死の直前、聖徳太子はどこで過ごしていたのか?
聖徳太子は、晩年を奈良県斑鳩(いかるが)にある斑鳩宮(いかるがのみや)で過ごしていました。この場所は、今の法隆寺の近くにあり、彼が建てた斑鳩寺(現在の法隆寺)のそばにありました。
なぜ斑鳩宮にいたのか
斑鳩宮は、聖徳太子が政治を行いながら、仏教の研究をするための大切な場所でした。当時、斑鳩の地は静かで落ち着いた環境だったため、病にかかってからもこの場所で療養していたと考えられます。
死の直前、太子は何をしていたか
日本書紀には詳しく書かれていませんが、家族や弟子たちと最後の時間を過ごしていたのではないかと考えられます。また、仏教を深く信仰していたため、亡くなる直前には仏教の教えを弟子たちに伝えていたかもしれませんね。
聖徳太子が埋葬された場所はどこ?
聖徳太子は大阪府太子町にある「叡福寺(えいふくじ)」に埋葬されました。
このお墓は「磯長陵(しながのみささぎ)」と呼ばれ、日本で最初の「三骨一廟(さんこついちびょう)」とされています。
三骨一廟とは
三骨一廟とは、1つのお墓に3人の遺体が一緒に埋葬されることです。聖徳太子のお墓には、彼の母・穴穂部間人皇女、そして最も愛した妃・膳大郎女が一緒に眠っています。
なぜこの場所に埋葬されたの?
磯長の地は蘇我氏ゆかりの場所だったため、蘇我氏と血縁関係が深い聖徳太子の墓として選ばれたと考えられます。また、斑鳩宮からは少し離れていますが、当時の高貴な人物のお墓は静かな場所に作られることが多かったため、この地が選ばれたのかもしれません。
聖徳太子の死後:日本の歴史はどう変わったのか
聖徳太子の死後、日本の政治は大きく変わっていきました。では、具体的にどのような影響を与えたのでしょうか?
① 蘇我氏の独裁が強まる
聖徳太子が亡くなった後、蘇我馬子とその子孫たちはますます権力を強めました。そして、643年には蘇我入鹿が聖徳太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)を滅ぼしてしまったのです。
② 仏教がさらに広がる
聖徳太子は仏教を広めた人物でした。彼が亡くなった後も、彼の影響で仏教は日本に深く根付き、後の奈良時代には「国の宗教」として大切にされるようになりました。
③ 律令制度の基礎が作られる
聖徳太子が目指した「天皇中心の政治」は、すぐには実現しませんでした。しかし、のちの 大化の改新(645年)によって、彼が考えていた理想の国家が形になっていきます。
このように、聖徳太子の死後も、日本の政治や文化には大きな影響を与え続けたのです。
聖徳太子は本当に実在したのか?
ここまで聖徳太子について詳しく解説してきましたが、「そもそも聖徳太子って本当に実在したの?」という疑問を持つ人もいるかもしれません。
実は、歴史学者の中には「聖徳太子は架空の人物だった可能性がある」という説を唱える人もいます。なぜそんな説があるの?でしょうか。
① 名前が後世に作られた可能性
「聖徳太子」という名前は、亡くなってから100年以上経った後につけられたものです。
② 伝説が多すぎる
・一度に10人の話を聞いた
・未来を予言した
・空を飛んだ(甲斐の黒駒伝説)
など、まるで神様のようなエピソードが多いため、本当に実在したのか疑問視されています。とはいえ、聖徳太子が関わったとされる法隆寺や十七条憲法などの記録はしっかり残っています。
そのため、まったくの架空の人物ではなく、 実際には別の名前で存在していたのでは?という説が有力です。
総括:聖徳太子の死因を解説のまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
聖徳太子の死因について
- 最も有力な説は天然痘
- 聖徳太子は 天然痘(疱瘡) により亡くなったと考えられている。
- 妃の 膳大郎女 が前日に亡くなり、母の 穴穂部間人皇女 も2ヶ月前に亡くなっていることから、一家全体に感染が広がった可能性が高い。
- 暗殺説(蘇我馬子による陰謀)
- 聖徳太子と蘇我馬子は最初は協力関係にあったが、政治方針の違いから対立。
- 太子が「天皇中心の政治」を目指したことで、蘇我氏の権力が脅かされ、暗殺された可能性がある。
- 太子の死後、蘇我氏の独裁が強まり、後に蘇我入鹿が聖徳太子の子孫を滅ぼした。
- 嫉妬による毒殺説(刀自古郎女)
- 聖徳太子の妻 刀自古郎女 が嫉妬し、毒を盛った可能性。
- 彼女は蘇我馬子の娘で、身分が高かったが、太子は 膳大郎女 を最も愛していた。
- ただし、確かな証拠はなく、あくまで推測の域を出ない。
- 結論
- 「天然痘説」が最も有力だが、「暗殺説」「嫉妬説」も完全には否定できない。
- 歴史書の記録が曖昧なため、真相は謎に包まれている。
聖徳太子が亡くなった日の様子と場所
- 亡くなった日
- 推古天皇30年(622年)2月22日 に死去(ただし、日本書紀には「621年」との記録も)。
- 記録の違いは、暦のずれや後世の歴史家による改変の可能性がある。
- 亡くなる直前にいた場所
- 奈良県 斑鳩宮(いかるがのみや) で療養。
- 斑鳩宮は、聖徳太子が政治を行いながら仏教を研究した場所で、現在の 法隆寺 の近くにあった。
- 埋葬場所
- 大阪府太子町の 磯長陵(しながのみささぎ)(叡福寺)。
- 「三骨一廟」 として、母(穴穂部間人皇女)と妃(膳大郎女)と共に埋葬された。
- 蘇我氏の本拠地であり、高貴な人物の墓としてふさわしい場所だった。
聖徳太子の死後、日本の歴史への影響
- 蘇我氏の権力が強まる
- 聖徳太子の死後、蘇我馬子の子孫が実権を握る。
- 643年、蘇我入鹿が聖徳太子の子・山背大兄王を滅ぼす。
- 仏教の発展
- 聖徳太子の影響で、仏教が日本に深く根付き、奈良時代には「国の宗教」として重視されるようになった。
- 律令制度の基礎が築かれる
- 太子が目指した「天皇中心の政治」はすぐには実現しなかったが、のちに 大化の改新(645年) で形になっていった。
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