江戸時代には「三大改革」と呼ばれる大きな政治改革があったのを知っていますか? その中でも「天保の改革」は、幕府がなんとか立て直そうと必死になった改革でした。
しかし、結果的に失敗してしまい、江戸幕府の衰退をさらに加速させることになったのです。
「天保の改革って何?」「どうして失敗したの?」と疑問に思う人も多いでしょう。今回は、天保の改革の目的や背景、実際に行われた政策、そして失敗した理由を、塾長がわかりやすく解説します!
テストにもよく出る重要なポイントや語呂合わせも紹介するので、しっかり覚えておきましょう!
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天保の改革をわかりやすく解説!目的や内容
江戸幕府は約260年間続きましたが、その間に何度も政治や経済の立て直しを行いました。その一つが「天保の改革」です。
この改革が行われたのは、1841年から1843年の約2年間。老中・水野忠邦が中心となり、幕府の財政を立て直し、社会の秩序を取り戻そうとしました。しかし、その政策はうまくいかず、結果的に大失敗となったのです。
まずは、この改革が行われた理由や背景を見ていきましょう。
天保の改革とは?江戸幕府の三大改革の一つを簡単に解説
天保の改革は、江戸幕府の三大改革(享保の改革・寛政の改革・天保の改革)の一つで、1841年から1843年にかけて行われました。改革を主導したのは、老中・水野忠邦(みずのただくに)です。
この時代、幕府の財政はひどく悪化していました。さらに、天保の大飢饉(1833~1839年)の影響で農民は困窮し、都市には職を求める人々があふれ、治安も悪化していました。幕府はこの危機的状況を改善するために、さまざまな政策を打ち出したのです。
天保の改革は、幕府を立て直そうとした最後の大きな改革でした。しかし、結果的に失敗し、幕府の力が弱まるきっかけになってしまいました。では、具体的にどんなことをしようとしたのかを見ていきましょう!
天保の改革の目的は何だったのか?幕府が抱えていた課題を解説
天保の改革の目的は、大きく3つありました。
- 財政の立て直し
幕府の財政は火の車でした。幕府の収入の中心は農民からの年貢(税金)でしたが、商業が発展するにつれて、農業の収入だけでは足りなくなっていました。そこで、商人たちに協力させたり、物価を下げたりして、経済の安定を目指しました。 - 社会の秩序を回復
天保の大飢饉の影響で、多くの農民が職を求めて都市へ流れ込みました。すると、仕事のない人が増え、治安が悪化しました。幕府は、農民を村に帰す「人返し令」などを出して、都市の混乱をおさえようとしました。 - 幕府の権威を取り戻す
幕府の力は次第に弱まり、各藩(大名の支配する地域)が独自の政策を進めるようになっていました。幕府は、江戸や大阪の周辺を直轄地にしようとする「上知令」などを出し、支配を強化しようとしました。
しかし、これらの政策は多くの反発を招き、うまく機能しませんでした。次に、具体的に行われた政策を見ていきましょう。
天保の改革で実施された主な政策一覧とその内容を簡単に解説
天保の改革では、さまざまな政策が行われました。その中でも特に重要なのが以下の4つです。
- 人返し令(ひとがえしれい):都市に流入した農民を強制的に村に帰らせる
- 株仲間解散令(かぶなかまかいさんれい):物価を下げるために商人の組合を解散させる
- 上知令(あげちれい):江戸や大阪周辺の土地を幕府の直轄地にする
- 倹約令(けんやくれい):無駄遣いを禁止し、ぜいたくを取り締まる
これらの政策の狙いは「財政を改善し、社会の秩序を回復すること」でした。しかし、思い通りにはいかなかったのです。では、それぞれの政策について詳しく見ていきましょう。
人返し令とは?農民を強制的に村へ戻した政策の影響とは
人返し令は、「都市に流れ込んだ農民を強制的に村へ帰らせる」という政策でした。江戸や大阪などの大都市では、仕事を求めてやってきた農民が増えすぎ、失業者があふれ、治安が悪化していました。そこで、幕府は彼らを村に戻そうとしたのです。
しかし、問題がありました。農村にはすでに仕事がなく、帰っても生きていくことができない人が多かったのです。そのため、多くの農民は幕府の命令に従わず、都市にとどまる方法を探しました。
また、農民が減ることで、都市の労働力が不足し、商業にも悪影響を与えました。人返し令は、幕府が思っていたようには機能せず、むしろ社会を混乱させる結果となったのです。
天保の改革をわかりやすく:なぜ失敗したのか?その理由と影響
天保の改革は、幕府を立て直すための大きな試みでした。しかし、結果的にこの改革は失敗し、幕府の権威はさらに低下してしまいました。
では、なぜこの改革は失敗したのでしょうか? ここでは、その理由と、天保の改革がもたらした影響について詳しく見ていきましょう。
天保の改革が失敗した理由は?3つの大きな要因を解説
天保の改革が失敗した理由は、大きく分けて3つあります。
幕府の力が弱まっていた
天保の改革が行われた時代、幕府の権力はすでに弱まっていました。江戸時代の初期であれば、幕府の命令には絶対的な力がありましたが、改革が始まる頃には、各藩の力が強くなり、幕府の方針に従わない大名も増えていました。そのため、幕府の政策は思うように実行できなかったのです。
反対勢力が強かった
幕府の政策に対して、商人や大名など多くの人々が反発しました。例えば、「株仲間解散令」によって商人たちは経済の自由を奪われ、反対運動を起こしました。「上知令」に対しては、大名や旗本たちが強く抵抗しました。彼らの反発を抑えるだけの力が幕府にはなく、改革は次第に行き詰まっていきました。
政策が現実に合っていなかった
天保の改革で行われた政策の多くは、現実的にうまく機能しませんでした。例えば、人返し令によって農民を村に帰そうとしましたが、農村にはすでに仕事がなく、彼らが戻っても生活する手段がありませんでした。そのため、多くの農民は命令に従わず、都市にとどまり続けました。政策が人々の生活に合っていなかったため、改革はうまくいかなかったのです。
上知令の失敗が決定打に!幕府が大名の反発を受けた理由とは
天保の改革の中で、最も大きな失敗となったのが「上知令(あげちれい)」です。これは、江戸や大阪の周辺の土地を幕府の直轄地にしようとする政策でした。幕府は、これによって重要な地域の支配を強め、財政を安定させようと考えていました。
しかし、この政策は大名や旗本たちの猛反発を受けました。もともと、江戸や大阪の周辺の土地は、譜代大名(昔から徳川家に仕えていた大名)たちの領地でした。彼らにとって、この土地を奪われることは大きな損失だったのです。大名たちは幕府に強く反対し、この政策を阻止しようとしました。
最終的に、幕府は上知令を実行することができず、水野忠邦は責任を取って失脚しました。これが、天保の改革が終わるきっかけとなり、幕府の権威がさらに低下することになったのです。
天保の改革がもたらした影響とは?幕府の権威低下とその後の展開
天保の改革の失敗によって、幕府の権威は大きく揺らぎました。特に、大名や商人たちは「幕府の命令には従わなくてもよい」と考えるようになり、幕府の支配力がさらに弱まることになりました。
この影響で、各藩は独自に改革を進めるようになりました。特に、薩摩藩や長州藩は、財政を立て直し、軍事力を強化することで、後の明治維新につながる動きを見せるようになりました。
また、幕府が弱体化したことで、外国との関係にも影響が出ました。天保の改革が終わってから約10年後、ペリーが黒船を率いて日本にやってきます。このとき、幕府はうまく対応できず、開国へと進んでいくことになります。
つまり、天保の改革の失敗は、江戸幕府の終わりを早める大きな要因の一つだったのです。
享保・寛政・天保の三大改革を比較!違いや共通点を整理しよう
江戸時代の三大改革は、「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」の3つです。それぞれの特徴を簡単に整理してみましょう。
改革名 | 実施時期 | 主導者 | 主な政策 | 成功 or 失敗 |
---|---|---|---|---|
享保の改革 | 1716~1745年 | 徳川吉宗 | 目安箱、上げ米の制、公事方御定書 | 一定の成功 |
寛政の改革 | 1787~1793年 | 松平定信 | 倹約令、囲い米、出版統制 | 途中で失速 |
天保の改革 | 1841~1843年 | 水野忠邦 | 人返し令、株仲間解散令、上知令 | 失敗 |
享保の改革は、幕府の財政を安定させることに成功しましたが、寛政の改革と天保の改革は失敗に終わりました。特に天保の改革は、幕府の権威をさらに低下させる結果となり、江戸幕府の終わりにつながっていきました。
天保の改革をテストで出題されるポイントは?重要語句と語呂合わせで覚えよう
天保の改革は、歴史のテストにもよく出る重要なテーマです。ここで、特に覚えておくべきポイントと、語呂合わせを紹介します。
重要語句一覧
- 人返し令(ひとがえしれい) → 都市に流入した農民を村に帰らせる政策
- 株仲間解散令(かぶなかまかいさんれい) → 物価を下げるために商人の組合を解散させる政策
- 上知令(あげちれい) → 江戸・大阪周辺の土地を幕府の直轄地にしようとした政策
語呂合わせで覚えよう!
「人は(人返し令)カブ(株仲間解散令)に乗り上げ(上知令)、天保の改革失敗!」
このように語呂合わせを作ると、テストでも思い出しやすくなります。
総括:天保の改革の内容をわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. 天保の改革とは?
- 江戸幕府の三大改革(享保・寛政・天保)の一つ。
- 1841年~1843年に実施。
- 老中・水野忠邦が主導。
2. 改革の目的
- 幕府の財政を立て直す(商人の力を抑え、税収を増やす)。
- 社会の秩序を回復する(都市の混乱を防ぐ)。
- 幕府の権威を取り戻す(大名の独立性を抑え、幕府の支配を強化)。
3. 実施された主な政策
- 人返し令(農民を都市から村へ強制送還)。
- 株仲間解散令(商業独占を廃止し、物価を安定させる)。
- 上知令(江戸・大阪周辺の土地を幕府の直轄地にする)。
- 倹約令(贅沢を禁止し、生活を引き締める)。
4. 失敗した理由
- 幕府の力が弱まっていた → 各藩が独自の改革を進め、幕府の命令が通らなかった。
- 反対勢力が強かった → 大名や商人の激しい抵抗に遭った。
- 政策が現実に合っていなかった → 農民に戻る土地がなく、都市にとどまる人が多かった。
5. 上知令の失敗と水野忠邦の失脚
- 上知令は大名の反対で実施できず、幕府の威信が低下。
- 責任を取って水野忠邦が失脚し、改革は終了。
6. 天保の改革の影響
- 幕府の権威がさらに低下し、各藩が独立的な動きを強める。
- 薩摩藩・長州藩などが財政改革を成功させ、後の明治維新につながる。
- 10年後にペリー来航(1853年)→ 幕府が弱体化し、開国へ進む。