みなさん、こんにちは!今日は江戸時代の三大改革のひとつ「寛政の改革」について分かりやすく解説します。

寛政の改革は、幕府の財政を立て直すために行われましたが、厳しすぎる政策が庶民や武士の不満を招き、最終的には失敗に終わってしまいました。

なぜ寛政の改革は失敗したのでしょうか? どんな政策が実施されたのでしょうか?

この記事では、「寛政の改革の目的・内容・影響」を分かりやすくまとめ、テスト対策にも役立つ情報をお届けします!

寛政の改革をわかりやすく解説!内容や目的

寛政の改革とは、江戸幕府が財政難を乗り越えるために行った政治改革です。
改革の中心人物は老中・松平定信。彼は「質素倹約」を重視し、幕府の無駄遣いを減らすことで財政を立て直そうとしました。

しかし、あまりに厳しすぎる改革は、武士や庶民から大きな反発を受け、最終的には6年で終わることになります。

それでは、寛政の改革の目的や内容について詳しく見ていきましょう!

寛政の改革とは?簡単にわかりやすく解説

寛政の改革は、1787年から1793年にかけて江戸幕府が実施した政治改革です。
当時の江戸幕府は財政難に陥っていました。その原因のひとつが、田沼意次(たぬまおきつぐ)の政治です。

田沼意次は、商業を活発にすることでお金を増やそうとしましたが、賄賂が横行し、農民たちが苦しむ結果になりました。さらに、天明の大飢饉(てんめいのだいききん)によって農民が次々に亡くなり、幕府の財政はさらに悪化。

そこで、老中となった松平定信(まつだいらさだのぶ)が、幕府の財政を立て直すために行ったのが「寛政の改革」です。定信は「倹約を徹底すること」「農村を復興させること」を柱とし、さまざまな政策を打ち出しました。

なぜ寛政の改革が必要だったのか?背景と目的

寛政の改革が行われた理由は、大きく3つあります。

① 幕府の財政がピンチだった

田沼意次の政治の影響で、幕府のお金の使い方が荒くなっていました。そこに天明の大飢饉が追い打ちをかけ、幕府の収入は減少。借金が増え、財政は大赤字に!

② 農村が荒れてしまった

大飢饉で食糧不足になり、多くの農民が江戸や大阪に流れ込みました。農村の人口が減ると年貢を納める人が減るため、幕府の財政はさらに悪化します。

③ 武士もお金に困っていた

武士たちは給料をお米でもらっていましたが、その米の価値が下がり、生活が苦しくなりました。借金をする武士が増え、幕府に「助けてほしい!」という声が集まりました。

こうした問題を解決するために、松平定信は「寛政の改革」を実施したのです。

寛政の改革の主な政策を一覧で解説!

松平定信が行った寛政の改革の政策を、一気に見ていきましょう

政策名内容
倹約令(けんやくれい)幕府・武士・庶民に無駄遣いをさせないようにした政策
囲米(かこいまい)の制飢饉に備えてお米を蓄えておく政策
旧里帰農令(きゅうりきのうれい)江戸に流れ込んだ農民を故郷に戻す政策
棄捐令(きえんれい)武士の借金を帳消しにする政策
昌平坂学問所の整備朱子学を学ばせる学問所を作った

このように、幕府の財政を改善し、社会を安定させるための政策がたくさん行われました。

寛政の改革で重要な政策を深掘り

それでは、寛政の改革の中でも特に重要な政策を詳しく見ていきましょう!

① 倹約令(けんやくれい)

幕府は「無駄遣い禁止!」と厳しく取り締まりました。華やかな服やぜいたく品の購入は禁止され、武士も庶民もつつましい生活を強いられました。

② 囲米の制(かこいまい)

大飢饉が再び起こったときに備えて、各地にお米を貯める制度です。これは一部の地域ではうまくいきましたが、すべての場所で成功したわけではありません。

③ 旧里帰農令(きゅうりきのうれい)

仕事を求めて江戸に流れ込んだ農民を「田舎に帰りなさい」と促す政策です。しかし、農村に帰っても仕事がなく、失敗に終わりました。

④ 棄捐令(きえんれい)

武士たちの借金を帳消しにする政策です。武士たちは助かりましたが、お金を貸していた商人たちは大損害を受けました。その結果、商人は武士にお金を貸さなくなり、武士の生活はさらに苦しくなりました。

⑤ 昌平坂学問所の整備

幕府が正式に認める学問所を整備し、「朱子学」以外の学問を禁止しました。これは幕府にとって都合が良かったのですが、思想の自由がなくなり、多くの学者が反発しました。

寛政の改革をわかりやすく結果が失敗に終わった理由

寛政の改革は、幕府の財政を立て直すための改革でしたが、なぜわずか6年で終わってしまったのでしょうか?ここからは、改革の失敗の原因や、その後の影響について詳しく解説していきます!

寛政の改革が失敗した理由をわかりやすく解説

寛政の改革がうまくいかなかったのは、以下の3つの理由が大きく関係しています。

① 厳しすぎる倹約政策で庶民や武士の不満が爆発

倹約令によってぜいたくは禁止され、庶民の楽しみが奪われました。華やかな文化が衰退し、人々の生活は質素になりすぎてしまいました。さらに、武士にも倹約を求めたため、「生活が苦しい」と不満が高まりました。

② 経済が停滞してしまった

倹約が厳しすぎたせいで、商人たちも儲けることができなくなりました。お金が回らなくなり、経済はどんどん縮小。商人たちは「こんな政治では商売にならない!」と幕府に反発するようになります。

③ 旧里帰農令や棄捐令が逆効果だった

江戸に流れ込んだ農民を田舎に戻そうとしましたが、戻っても仕事がなく、失敗に終わりました。また、武士の借金を帳消しにする棄捐令も、商人たちの怒りを買い、武士への貸し出しをやめる原因になりました。

この結果、武士たちはさらにお金に困るようになってしまったのです。

こうした理由から、寛政の改革はうまくいかず、人々の不満が高まりました。

寛政の改革がもたらした影響

寛政の改革の影響を簡単にまとめると、次のようになります。

幕府の財政は一時的に回復したが、根本的な解決にはならなかった
経済の発展が妨げられ、商業が停滞してしまった
庶民の生活が厳しくなり、不満が爆発した
武士へのお金の貸し出しが減り、武士の生活がさらに苦しくなった
厳しすぎる統制により、文化や学問の自由が制限された

こうして、寛政の改革は一部の政策を除いて失敗に終わり、最終的に松平定信は老中の座を追われることになりました。

寛政の改革に対する庶民や武士の反応

寛政の改革に対する庶民や武士の反応は、あまり良いものではありませんでした。
そのことをよく表しているのが、当時の狂歌(風刺の短歌)です。

『白河の 清きに魚も棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき』

この歌は、「松平定信の政治は清廉すぎて、みんなが生きにくくなった。昔の田沼意次の時代のほうがまだマシだった」という意味です。人々は厳しい倹約政策にうんざりし、以前の田沼時代の自由な雰囲気を懐かしんでいたのです。

また、武士たちも「棄捐令のおかげで借金はなくなったけど、もう誰もお金を貸してくれない」と不満を抱くようになりました。このように、寛政の改革は武士にも庶民にも評判が悪く、結局うまくいかなくなってしまったのです。

寛政の改革の後、江戸幕府はどうなったのか?

寛政の改革の失敗後、幕府の政治はどうなったのでしょうか?

✅ 徳川家斉が実権を握る時代へ

寛政の改革の後、幕府の実権は11代将軍・徳川家斉が握ることになります。
家斉は「贅沢もほどほどに良い」と考え、寛政の改革の厳しい政策を緩めました。

✅ 江戸の町は活気を取り戻した

厳しい倹約令が緩和されると、江戸の町は再び活気を取り戻しました。商人たちも自由に商売ができるようになり、経済も回復しました。

✅ しかし、幕府の財政は再び悪化

家斉は贅沢を好み、大奥にもたくさんのお金を使いました。そのため、幕府の財政は再び悪化していきます。こうして、江戸幕府の財政難は続き、後の「天保の改革(てんぽうのかいかく)」へとつながっていくのです。

テスト対策!寛政の改革で覚えておきたい重要ポイント

寛政の改革は、テストによく出るテーマです! ここでは、特に覚えておきたいポイントをまとめます。

寛政の改革は、松平定信が行った江戸幕府の改革
目的は、幕府の財政を立て直し、社会を安定させること
倹約令、囲米の制、棄捐令、旧里帰農令などの政策を実施
厳しすぎる政策が庶民や武士の不満を招き、失敗に終わった
「白河の 清きに魚も棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」という狂歌が有名

このあたりを押さえておけば、テストでもバッチリ答えられますね!

総括:寛政の改革をわかりやすく解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

寛政の改革とは?
江戸幕府が財政を立て直すために実施(1787年~1793年)
老中・松平定信が中心となって改革を主導
倹約と農村復興を柱としたが、厳しすぎて失敗に終わる

寛政の改革の目的と背景
・田沼意次の政治による財政悪化
・天明の大飢饉で農村が荒廃し、幕府の収入が減少
・武士の借金問題が深刻化

主な政策一覧

  • 倹約令(けんやくれい):幕府・武士・庶民に無駄遣いをさせない
  • 囲米の制(かこいまい):飢饉に備えてお米を蓄える
  • 旧里帰農令(きゅうりきのうれい):江戸に流れた農民を田舎に戻す
  • 棄捐令(きえんれい):武士の借金を帳消しにする
  • 昌平坂学問所の整備:朱子学を幕府公認の学問に

寛政の改革が失敗した理由
・倹約政策が厳しすぎて庶民や武士が不満を抱く
・経済が停滞し、商人が儲からなくなった
・旧里帰農令や棄捐令が逆効果となり、社会不安が増大

寛政の改革の影響
・一時的に幕府財政は改善したが、根本的な解決には至らず
・商業や経済が停滞し、文化の衰退を招いた
・武士と庶民の生活がより厳しくなった

庶民や武士の反応
・「白河の 清きに魚も棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」という狂歌が有名
→「清廉すぎて住みにくい。田沼時代の方がよかった」という皮肉

寛政の改革のその後
・松平定信は6年で老中を辞任
・改革が緩和され、経済は回復したが、幕府の財政難は続く
・のちの天保の改革(1841年~1843年)につながる

テストで覚えておきたいポイント

  • 「寛政の改革」は 松平定信 が主導した江戸幕府の改革
  • 倹約令・囲米の制・棄捐令・旧里帰農令 などの政策が実施された
  • 厳しすぎる統制が不満を招き、改革は失敗に終わる
  • 狂歌「白河の~」が改革の評判を表している