歴史の授業で「鳥羽伏見の戦い」という言葉を聞いたことがありますか?
この戦いは、幕末に起こった「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」の最初の戦いで、日本の歴史を大きく変えた出来事です。でも、「なぜこの戦いが起こったの?」「どっちが勝ったの?」と疑問に思う人も多いでしょう。
今回は、歴史が苦手な人でもスラスラ読めるように、鳥羽伏見の戦いについてわかりやすく解説していきます!
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鳥羽伏見の戦いをわかりやすく解説!どんな戦い?
鳥羽伏見の戦いは、1868年(慶応4年)1月3日から6日にかけて、京都の南にある鳥羽・伏見という場所で起こりました。この戦いでは、「新政府軍」と「旧幕府軍」がぶつかり、日本の政治の行方を決める大きな戦いになりました。
では、具体的にどんな戦いだったのか、詳しく見ていきましょう。
鳥羽伏見の戦いとは?簡単に説明すると
鳥羽伏見の戦いは、江戸幕府(徳川家)が新しい政府に抵抗しようとして始まった戦いです。
1867年、大政奉還(たいせいほうかん)によって徳川幕府が政権を朝廷に返しましたが、これで全てが解決したわけではありませんでした。朝廷の中には、「徳川家をこのまま存続させてもいいのでは?」と考える人もいれば、「いや、完全に幕府をなくして、新しい政府を作るべきだ!」と考える人もいました。
そんな中、旧幕府軍と新政府軍の間で衝突が起こったのが「鳥羽伏見の戦い」です。この戦いをきっかけに、日本中で戦争(戊辰戦争)が始まり、最終的には新政府軍が日本を統一することになりました。
鳥羽伏見の戦いの原因は?なぜ戦いが起きたのか
この戦いの原因はいくつかありますが、大きなポイントは次の3つです。
① 徳川家の処遇をめぐる対立
大政奉還のあと、徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は「政治の実権はまだ自分にある」と考えていました。一方、新政府軍は「いや、徳川家の時代は終わりだ!」と考えていたのです。
② 江戸での事件
1867年12月、薩摩藩(さつまはん)の武士たちが江戸で騒ぎを起こし、幕府側の人々を挑発しました。これに怒った旧幕府軍は、薩摩藩邸を焼き討ちしました。これが、新政府軍と旧幕府軍の対立を決定的にしたのです。
③ 徳川軍の京都進軍
旧幕府軍は、幕府の力を示そうと、1万5千人もの兵を率いて京都へ向かいました。そして、新政府軍(約5千人)がそれを迎え撃つ形で、鳥羽伏見の戦いが始まりました。
どんな武器や戦術が使われた?戦いの特徴
この戦いでは、これまでの戦国時代の戦いとは違い、新しい戦術と武器が使われました。
- 鉄砲が主力武器
戦国時代の合戦では、刀や槍を持った武士が戦っていましたが、この時代になると鉄砲(銃)が主力になっていました。特に、新政府軍はフランス製の最新式の銃を持っていたため、旧幕府軍よりも有利でした。 - 大砲による攻撃
旧幕府軍は大砲を持っていましたが、新政府軍も負けていません。薩摩藩は、大砲を効果的に使い、旧幕府軍の拠点を攻撃しました。 - 「錦の御旗(にしきの みはた)」の効果
この戦いの大きなポイントは、「錦の御旗(天皇が認めた軍隊の証)」が新政府軍に与えられたことです。これによって、「新政府軍=正義の軍」「旧幕府軍=反乱軍」というイメージが広がり、旧幕府軍の士気が大きく下がりました。
鳥羽伏見の戦いの経過!どのように戦ったのか
鳥羽伏見の戦いの流れを、日ごとに見ていきましょう。
1月3日:戦いの始まり
- 旧幕府軍が京都へ進軍し、鳥羽・伏見で新政府軍と衝突。
- 最初は旧幕府軍の方が人数が多く、有利に見えた。
1月4日:戦況が変わる
- 新政府軍の大砲が活躍し、旧幕府軍を少しずつ押し返す。
- 旧幕府軍の指揮系統が乱れ、バラバラに戦い始める。
1月5日:「錦の御旗」が掲げられる
- 天皇の許可を得た証である「錦の御旗」が新政府軍に与えられる。
- これを見た旧幕府軍の兵士たちが、「もう勝てない」と思い始める。
1月6日:旧幕府軍が敗走
- 旧幕府軍の指揮官たちが「戦いはもうダメだ」と判断し、大阪へ撤退。
- 徳川慶喜は大坂城を放棄し、船で江戸へ逃げる。
鳥羽伏見の戦いはどっちが勝った?
結論から言うと、新政府軍の圧勝でした。
- 旧幕府軍は数では勝っていたのに、なぜ負けたのか?
① 武器の差:新政府軍は最新の銃を持っていた。
② 戦術の違い:旧幕府軍はまとまりがなく、指揮官もバラバラだった。
③ 「錦の御旗」の影響:旧幕府軍の士気が大きく下がった。
この戦いに負けたことで、旧幕府軍はさらに追い詰められ、日本の歴史は大きく変わっていくことになります。
鳥羽伏見の戦いを分かりやすく:影響とその後の歴史
鳥羽伏見の戦いは、単なる一つの戦いではありませんでした。この戦いに勝った新政府軍は、その後の日本の未来を大きく変えていきます。一方、負けた旧幕府軍もこのまま終わるわけではなく、日本各地で戦いを続けました。
ここからは、鳥羽伏見の戦いが日本にどのような影響を与えたのか、詳しく見ていきましょう。
鳥羽伏見の戦いがもたらした影響は?
この戦いの結果、日本の政治と社会は大きく変わりました。主な影響は次の3つです。
① 徳川幕府の完全な終焉(しゅうえん)
- 鳥羽伏見の戦いで敗れたことで、徳川幕府が再び日本を統治することはほぼ不可能になりました。
- 徳川慶喜は大阪城を放棄し、江戸に逃げましたが、新政府軍はこれを追撃し、江戸を包囲することになります(江戸開城へとつながる)。
② 「官軍」と「賊軍」の区別がはっきりした
- 「錦の御旗」が新政府軍に与えられたことで、新政府軍は「正義の軍」として認められました。
- 一方で旧幕府軍は「賊軍(朝廷に反抗する軍)」とみなされ、多くの藩が新政府側につくようになりました。
③ 戊辰戦争が全国に拡大
- 鳥羽伏見の戦いの後、戦いは全国に広がり、旧幕府軍は北へ逃れながら新政府軍と戦い続けました。
- この戦いの流れが「戊辰戦争」と呼ばれ、最終的には新政府が全国を支配することになりました。
戊辰戦争へ!旧幕府軍はどうなった?
鳥羽伏見の戦いで敗れた旧幕府軍は、この後どのように動いたのでしょうか?
- 江戸へ撤退(1868年1月)
- 徳川慶喜は江戸城に戻り、新政府軍が迫ってくるのを待ちました。
- しかし、江戸で戦いが起こる前に勝海舟(かつ かいしゅう)が新政府軍の西郷隆盛と交渉し、戦わずに江戸城を明け渡しました(江戸無血開城)。
- 東北や北海道へ逃れる
- 旧幕府軍の一部は東北地方へ逃れ、会津藩や庄内藩とともに「奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)」を結成し、新政府軍と戦いました。
- しかし、1868年10月には会津若松城が陥落し、旧幕府軍の抵抗は弱まっていきます。
- 最後の抵抗「箱館戦争(はこだてせんそう)」
- 旧幕府の榎本武揚(えのもと たけあき)は北海道に逃れ、「蝦夷共和国(えぞ きょうわこく)」を作り、最後の抵抗を試みました。
- しかし、1869年5月に箱館の五稜郭(ごりょうかく)が新政府軍に制圧され、旧幕府軍の抵抗は終わりました。
日本の政治はどう変わった?明治時代の始まり
鳥羽伏見の戦いをきっかけに、日本の政治は大きく変わりました。
① 「江戸幕府」から「明治政府」へ
- 江戸幕府が終わり、明治天皇を中心とした新政府が誕生しました。
- それまでの武士が支配する時代が終わり、新しい政治体制が作られることになります。
② 「版籍奉還(はんせきほうかん)」と「廃藩置県(はいはんちけん)」
- 1871年、全国の藩を廃止し、県にする「廃藩置県」が行われました。
- これによって、藩ごとに独立した政治が行われていた日本が、一つの中央政府によって統治されるようになりました。
③ 武士の時代の終わり
- 明治政府は、武士の特権を廃止し、「四民平等(しみんびょうどう)」の社会を目指しました。
- その結果、武士が中心だった時代が終わり、すべての人が「平民」として扱われるようになりました。
羽伏見の戦いを覚えるための語呂合わせ
歴史のテストでよく出る「鳥羽伏見の戦い」。覚えやすい語呂合わせを紹介します!
📌 「いや(1)む(6)や(8)に戦う鳥羽伏見」(1868年に起きた戦い)
📌 「鳥羽伏見、新(しん)せ(せい)いの戦い」(新政府軍VS旧幕府軍)
📌 「伏見で大砲、幕府は敗走」(伏見での大砲戦が勝敗を分けた)
これらの語呂を覚えておくと、テストでも役に立ちますよ!
総括:鳥羽伏見の戦いをわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 鳥羽伏見の戦いとは?
- 1868年(慶応4年)1月3日~6日に、京都南部の鳥羽・伏見で発生
- 新政府軍(薩摩・長州藩)と旧幕府軍(徳川家)が戦った
- 日本の政治の行方を決める大きな戦いとなった
- 戦いの原因
- 徳川家の処遇問題
- 大政奉還後も、徳川慶喜は政治の主導権を握ろうとした
- 江戸での事件
- 旧幕府軍が薩摩藩邸を焼き討ちし、対立が決定的に
- 徳川軍の京都進軍
- 旧幕府軍が1万5000人の軍勢を率いて京都へ進軍
- 徳川家の処遇問題
- 戦いの特徴
- 最新式の銃や大砲が主力武器に
- 「錦の御旗」の影響で旧幕府軍の士気が低下
- 旧幕府軍は数で勝るが、装備と戦術の差で不利に
- 戦いの経過
- 1月3日 旧幕府軍が新政府軍と衝突(最初は互角)
- 1月4日 新政府軍が大砲で優勢に
- 1月5日 錦の御旗が掲げられ、旧幕府軍の士気が低下
- 1月6日 旧幕府軍が敗走、徳川慶喜は大阪城を捨てて江戸へ逃亡
- どっちが勝った?
- 新政府軍の圧勝
- 旧幕府軍は数では優勢だったが、戦術・武器・士気の差で敗北
- 戦いの影響
- 徳川幕府の完全終焉
- 新政府軍=「官軍」、旧幕府軍=「賊軍」の区別が明確に
- 戊辰戦争が全国に拡大(東北・北海道へ)
- 旧幕府軍のその後
- 江戸無血開城 → 会津戦争 → 北海道での箱館戦争で最終的に敗北
- 明治時代への移行
- 江戸幕府の終焉 → 明治政府の誕生
- 藩制度の廃止(廃藩置県)
- 武士の時代が終わり、四民平等へ
- 語呂合わせで覚える
- 「いや(1)む(6)や(8)に戦う鳥羽伏見」(1868年)
- 「伏見で大砲、幕府は敗走」