今回は「東郷平八郎(とうごう へいはちろう)」という偉大な海軍の人物について、とくに「どうやって亡くなったのか?」に注目してお話しします。

東郷さんは「日露戦争(にちろせんそう)」で日本を勝利に導いた英雄として知られていますが、その最期はどうだったのでしょうか?

どんな病気で亡くなったのか、何歳まで生きたのか、最後の言葉はあったのか……など、気になることをくわしく、わかりやすく解説していきます。

それでは一緒に、東郷平八郎の最期の物語をたどってみましょう!

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東郷平八郎の死因と最期を徹底解説

東郷平八郎は、ただの軍人ではありません。世界からも尊敬された日本の「海の守り神」のような存在でした。そんな東郷さんの最期には、どんなドラマがあったのでしょうか?

ここでは、死因・年齢・最後の言葉・晩年の暮らし・死の直前の様子まで、やさしく説明していきます。

東郷平八郎の死因は咽頭がんと膀胱結石の悪化だった

東郷平八郎の死因は「咽頭がん(いんとうがん)」、つまり喉のがんでした。この病気は、のどが痛くなったり、しゃべりにくくなったりするつらい病気です。そしてもう一つ、「膀胱結石(ぼうこうけっせき)」という、おしっこのたまる場所に石ができる病気もわずらっていました。

晩年の東郷さんは、食事をするのも苦しみながら過ごしていたといいます。医師が「この病気はとても痛いものです」と話すと、東郷さんはにっこり笑って、「それなら仕方ない」と言ったそうです。痛みを訴えず、立派な態度で病と向き合ったのです。

そんな姿は、昔の武士(ぶし)のように、どこまでも強く、冷静でした。軍人としてだけでなく、人としても尊敬される理由がここにあるのです。

何歳で亡くなった?享年は86歳(満87歳)

東郷平八郎が亡くなったのは、昭和9年(1934年)5月30日。なんと86歳(数え年では87歳)まで生きました!当時としてはとても長生きで、たくさんの人たちから「すごいね」と言われていたそうです。

長寿の理由として、東郷さんが質素(しっそ)な生活をしていたことがあげられます。お酒もあまり飲まず、食べ物も派手ではなく、健康に気をつけていたそうです。また、心を落ち着かせる趣味もたくさん持っていたので、ストレスも少なかったのかもしれません。

まわりの人たちは「東郷さんは、まるで神さまのように健康だった」と話していたほどです。それでも最後は病気に勝てず、静かにその生涯を終えたのです。

最後の言葉はあった?武士道を貫いた最期

「東郷平八郎の最後の言葉はなんだったの?」という質問は、よく聞かれるものの一つです。ですが、実ははっきりとした「最後の言葉」は残されていないのです。

ただし、病床でのエピソードがひとつ有名です。東郷さんは咽頭がんでとても苦しかったはずなのに、痛みを一切口にしなかったそうです。お医者さんに「その病気はすごく痛いですよ」と言われても、「そうか」と笑って受け入れました。

これは、痛みに耐えることが武士としての礼儀であり、軍人としての覚悟だと考えていたからです。まさに「武士道(ぶしどう)」の心を最後まで持っていたのです。

このように、東郷さんは「言葉」よりも「行動」で最後の教えを私たちに残したのだと思います。

晩年はどうだった?質素で静かな生活を送っていた

東郷さんは晩年、派手な生活をせず、とても質素に暮らしていました。趣味は盆栽(ぼんさい)や囲碁(いご)など、心を落ち着かせるものばかりです。毎朝きまった時間に起きて、静かに一日を過ごす姿が印象的だったといいます。

また、東宮御学問所(とうぐうごがくもんじょ)の総裁という、天皇の教育にかかわる大事な仕事もしていました。若い人に正しい考え方や礼儀作法を教えることにも力を入れていたのです。

若いころは戦いの中に生きていた東郷さんも、年を重ねるにつれ、平和のためにできることを選ぶようになりました。まるで、戦士から先生へと変わっていったような晩年でした。

死の直前の様子と家族・関係者の見守りの中での最期

東郷平八郎が亡くなったとき、自宅のある東京の麹町(こうじまち)で静かに息を引き取りました。そのとき、家族やお世話になった医師たちがそばにいて、最後を見守っていたそうです。

死の前日には、侯爵(こうしゃく)という最高位の称号が与えられ、「軍人としての最高の名誉」を受け取ったばかりでした。これを聞いて、東郷さんはうれしそうに微笑んだといいます。

亡くなった後、遺体は丁寧に清められ、国葬の準備がはじまりました。家の外では、たくさんの人々が手を合わせ、涙を流して別れを告げていたそうです。その最期は、とても静かで穏やかで、まるで深い眠りにつくようなものでした。偉大な人物にふさわしい、立派な最後だったのです。

東郷平八郎の死因がわかったら:死後と後世への影響

東郷平八郎が亡くなった後、日本だけでなく世界中で彼の死を悼む声があがりました。その偉業と人柄は、今でも語り継がれています。

ここでは、彼の国葬の様子やお墓、神社が建てられた背景、世界からの反応、そして現代に残る教えについて紹介します。

国葬の様子は?100万人が見送った伝説の儀式

東郷平八郎の国葬(こくそう)は、昭和9年(1934年)6月5日に日比谷公園で行われました。この時の参列者はなんと100万人以上!沿道には人があふれ、あまりの混雑でけが人が出たほどでした。

葬列は自宅から始まり、長さは300メートルにもなりました。空には21機の海軍機が飛び、港には外国の艦船も姿を見せました。アメリカ、イギリス、フランスなど、世界各国の海軍が礼砲を打って哀悼の意を示したのです。

こんなにも盛大な国葬は、日本でもめったにありません。「世界のトーゴー」にふさわしい壮大なお別れでした。

墓所はどこ?多磨霊園と多賀山の二つの墓

東郷平八郎のお墓は、実は二か所にあります。一つは東京の「多磨霊園(たまれいえん)」。ここが本当の埋葬地で、名誉霊場という特別な場所にあります。立派なお墓で、今でも多くの人が訪れます。

もう一つは、故郷の鹿児島にある「多賀山(たがやま)」の墓です。こちらには東郷さんの「遺髪(いはつ)=切った髪の毛」が埋められています。鹿児島の人たちは、彼の活躍をとても誇りに思い、この場所を大切に守り続けてきました。

つまり、東郷さんは「東京と鹿児島の両方に眠っている」と言えるのです。どちらも彼にゆかりの深い土地で、多くの人が手を合わせに訪れています。

東郷神社が建てられた理由と背景

東郷さんの死後、彼を神さまとしてまつる「東郷神社(とうごうじんじゃ)」がつくられました。最初に建てられたのは、東京都渋谷区にある神社です。これは、日露戦争の大勝利と、東郷さんの人格をたたえて、全国の人たちの願いから生まれたものです。

実は、本人は生前に「神さまになるなんて、そんなのはよくない」と反対していたそうです。しかし、海軍の人たちや国民は、どうしても東郷さんを神格化したかったのです。

この背景には、同じく神社になった陸軍の乃木希典(のぎ まれすけ)という人への対抗意識もありました。乃木神社があるなら、海軍の英雄・東郷の神社も必要だ、という考えが広がったのです。

現在では、渋谷だけでなく鹿児島や名古屋にも東郷神社があります。

東郷平八郎の死は世界にどう報じられたか

東郷さんが亡くなったとき、世界中の新聞が彼の死を大きく取り上げました。イギリスでは「東洋のネルソンが亡くなった」と見出しをつけ、国をあげて哀悼の意を示しました。

アメリカでも「アドミラル・トーゴー」の死は話題となり、特に海軍のトップであったニミッツ提督は「東郷は私の英雄だ」とまで語ったそうです。

さらに、アメリカの有名な雑誌『タイム』では、東郷さんの写真が表紙を飾ったこともありました。これは日本人として初めてのことで、その存在がどれほど大きかったかがわかります。

死後も世界中の人たちから尊敬される東郷さんは、まさに「世界の軍神」だったのです。

今も語り継がれる東郷平八郎の最期から学べること

東郷平八郎の生き方、そして最期には、今の私たちが学べることがたくさんあります。たとえば、「勝って兜の緒を締めよ(=勝った時こそ油断するな)」という名言は、努力を続ける大切さを教えてくれます。

また、苦しい病気にも耐えて痛みを見せなかった姿からは、どんなときでも冷静で強くあることの大切さを学ぶことができます。

東郷さんは、言葉ではなく「行動」で人に影響を与えた人です。その精神は、いまでも自衛隊や教育現場、そして私たちの心の中に生き続けています。

ただの軍人ではなく、「生き方の手本」として、これからも東郷さんのことを忘れずにいたいですね。

総括:東郷平八郎の死因まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 死因は咽頭がんと膀胱結石で、痛みを訴えることなく静かに闘病した。
  • 享年は86歳(満87歳)で、当時としては非常に長寿だった。
  • 最後の言葉は明確に残っていないが、痛みを笑顔で受け入れた逸話が残る。
  • 晩年は質素で静かな生活を送り、盆栽や囲碁を楽しんだ。
  • 亡くなる直前には侯爵を授与され、家族に見守られながら静かに息を引き取った。
  • 国葬には100万人以上が参列し、海外からも哀悼の意が寄せられた。
  • 墓所は東京の多磨霊園と鹿児島の多賀山にある。
  • 死後、東郷神社が建てられ、全国に広がった。
  • 海外メディアでも「東洋のネルソン」として報道され、世界的に尊敬された。
  • 「勝って兜の緒を締めよ」などの教えは、今も語り継がれている。