今回は「東條英機(とうじょうひでき)は悪くないの?」という疑問に、歴史の事実をもとにしっかり答えていきます。

教科書では「戦争を始めた悪い人」として紹介されることも多い東條英機ですが、実は「戦争を避けたかった」という面もあるんです。

この記事では、なぜ東條英機が「悪い」とされるようになったのか、そして本当にそうなのかを、分かりやすく丁寧に解説していきます。

↓実質無料で読めるおすすめ歴史の読み物↓

著:河合敦, 著:房野史典
¥1,617 (2025/07/04 03:22時点 | Amazon調べ)
著:ぴよぴーよ速報
¥1,529 (2025/07/04 03:24時点 | Amazon調べ)

東條英機は本当は悪くない?そう言われる理由まとめ

「東條英機=悪者」というイメージが定着していますが、本当にそうなのでしょうか?歴史的な事実をもとに、東條英機の実像を一緒に見ていきましょう。

戦争を望んでいなかった?和平交渉に取り組んだ事実

東條英機は「戦争をやるぞ!」と燃えていた人物だと思われがちですが、実は総理大臣に就任した当初は、アメリカとの戦争を避けるために必死で動いていたんです。

1941年、日米の関係が悪化し、「開戦か、和平か」というギリギリの状況にありました。東條は内心、「戦争になれば日本は勝てない」と思っていました。そのため、天皇陛下の強い意向を受けて、「どうにかして戦争を避けられないか」と、アメリカとの交渉に力を入れます。

実際、東條内閣は「ハル・ノート」と呼ばれるアメリカからの提案を受け、最後まで和平の道を模索しました。ですが、日本が望む条件とアメリカの要求があまりにもかけ離れていたため、交渉は失敗してしまいます。

「戦争をしたくなかったけど、避けられなかった」──それが東條英機の本音だったのです。

開戦の真相!日米交渉が決裂したのは誰の責任か

では、なぜ日米交渉はうまくいかなかったのでしょうか?その原因を東條英機ひとりの責任にするのは、少し違います。

アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、日本に対して強硬な態度を取り続けました。石油や鉄の輸出を止め、日本経済を追い込んだのです。これにより、日本は「このままでは戦わずして滅びる」と判断せざるを得なくなります。

また、日本国内でも「アメリカに屈するのは国の恥だ!」という声が強く、政治家も軍人も一枚岩ではありませんでした。東條英機はその板挟みになりながら、最後の最後まで和平の道を探っていましたが、交渉期限が迫る中で断念せざるを得なくなりました。

つまり、日米交渉の失敗は、アメリカの圧力、日本国内の強硬派の存在、そして当時の国際情勢の複雑さが原因だったのです。

軍部の暴走を止められなかった東條英機の限界と葛藤

当時の日本は、軍部が非常に強い影響力を持っていました。東條英機自身も陸軍出身の軍人でしたが、実は軍内部をまとめるのに苦労していたんです。

陸軍の中には「アメリカと戦って勝てる!」と信じる強硬派が多く、「今こそアジアを解放する戦争だ」と勢いづいていました。東條は彼らを説得しようとしましたが、簡単にはいきません。しかも、彼が妥協すると「弱腰だ!」と責められ、立場がますます苦しくなっていきます。

東條英機は、国民や天皇陛下を思う気持ちから、なんとか日本を守ろうと努力しました。しかし、軍部の空気に逆らえなかったことは、彼自身も悩み、苦しんでいたようです。

戦争を止める力がなかった──それが東條英機の「限界」だったとも言えるでしょう。

東條英機の「優しさ」エピソード

「戦争をした人=冷たい人」というイメージを持つ人も多いと思いますが、東條英機には「優しい人だった」というエピソードもいくつか残っています。

たとえば、家庭ではとても家族思いで、特に娘たちを大切にしていたそうです。戦時中でも、娘の手紙にきちんと返事を書き、「身体に気をつけて、勉強を頑張りなさい」と励ましていました。

また、部下にも思いやりがありました。戦争が激しくなる中でも、できるだけ前線の兵士の苦労を理解しようと努め、「現場を知らずに命令してはならない」と話していたそうです。

戦争指導者としての責任はもちろんありますが、私たちが知らない「人間・東條英機」の姿にも目を向けることが大切ですね。

「東條英機=悪」のイメージはどこから来たのか

戦後、日本はアメリカに占領され、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指導のもとで民主化が進められました。そのときに作られた「戦争責任者リスト」の中で、東條英機は「戦犯」とされ、絞首刑になります。

GHQは、日本国民に「戦争は軍部のせいだ」「東條英機が悪い」と印象づける教育やメディア操作を行いました。これは、日本が再び軍国主義に戻らないようにするための政策でした。

その結果、東條英機は「悪者」として語られるようになり、本当の姿が見えにくくなってしまったのです。

歴史を見るときは「誰がどう伝えたか」も大切なポイントです。東條英機を正しく理解するためには、戦後の教育や情報操作の影響も知っておく必要がありますね。

東條英機は悪くない?何をした人か簡単に解説

さて、ここからは東條英機の人柄や政策、そして戦後の評価について深掘りしていきます。「悪くない」と言われる理由を理解するには、彼の経歴や当時の状況をきちんと知ることが大切なんです。

経歴:陸軍軍人から総理大臣への歩み

東條英機は1884年(明治17年)、東京で生まれました。父親も陸軍軍人だったため、幼いころから「国のために尽くす」という考えが強かったようです。

陸軍士官学校、陸軍大学校を優秀な成績で卒業し、軍の中でも「真面目で実直な人物」として知られていきました。その後、陸軍省で人事や政策の仕事を経験し、少将・中将へと順調に出世していきます。

1930年代には満州(中国東北部)での軍政や、内閣の軍事顧問などを歴任。1941年に近衛文麿の後を継いで、内閣総理大臣になります。

つまり東條は、いきなり戦争指導者になったわけではなく、軍の中で地道にキャリアを積んだ人物だったんですね。

国家総動員法と東條内閣の政策

東條英機が総理になった時代、日本は「国家総動員法」という法律のもと、国全体が戦争のために動いていました。この法律によって、物資や人手の配分はすべて政府が決められるようになり、自由な経済活動は制限されました。

一見すると「恐ろしい政策」に思えるかもしれませんが、当時の日本にとっては「国を守るためのやむを得ない手段」とされていました。

東條内閣もこの方針を引き継ぎつつ、食糧や燃料の確保、工場の管理などに力を入れていました。ただ、これらの政策は国民にとっては大きな負担であり、不満もたまっていきました。

つまり、東條は「国を守るため」に厳しい政策を実行しましたが、それが結果として人々を苦しめることにもなってしまったのです。

処刑された理由

戦争が終わった後、連合国は「誰が戦争の責任を取るべきか」を決めるため、東京裁判(極東国際軍事裁判)を開きました。そこで、東條英機は「A級戦犯」として起訴され、死刑判決を受けます。

その主な理由は「侵略戦争を指導した中心人物」とされたからです。実際、彼は総理大臣として開戦を決断し、多くの戦争政策に関わっていました。

ただし、この裁判には「勝者が敗者を裁く」という側面がありました。アメリカや連合国が「日本に戦争責任をすべて押しつけた」と考える人もいます。東條は裁判で最後まで自分の責任を認め、「自分が死ぬことで国民の苦しみが少しでも癒えるなら本望だ」と語ったと言われています。

死後評価はなぜ分かれる?肯定・否定の声まとめ

東條英機の評価は、今でも真っ二つに分かれています。

否定的な意見では、「戦争を始めた張本人」「多くの命を奪った責任者」といった声があり、特に戦争体験者の世代では厳しい見方をする人が多いです。

一方で、肯定的な意見では「開戦は避けられなかった」「むしろ国民のために犠牲になった」と評価する声もあります。特に最近は、戦争の背景や国際政治の事情をふまえて、「一方的に責めるべきではない」とする歴史学者も増えてきました。

評価が分かれるのは、東條英機が「戦争を主導したリーダー」であると同時に、「平和を願った人間」でもあったからかもしれませんね。

東條英機に関するおすすめの本・資料

東條英機についてもっと深く知りたい人には、いくつかおすすめの本や資料があります。

まずは『東條英機とその時代』(秦郁彦 著)。これは学者の立場から東條の人生を丁寧に追った評伝で、バランスの取れた視点が特徴です。

¥1,338 (2025/04/05 06:49時点 | Amazon調べ)

また、『昭和史』(半藤一利 著)は、東條英機だけでなく戦前・戦中の日本を分かりやすくまとめた名著です。読みやすい文体なので、学生にもおすすめですよ。

著:半藤一利
¥1,069 (2025/04/05 06:48時点 | Amazon調べ)

映像では、NHKスペシャルの『太平洋戦争』シリーズも東條英機に触れており、当時の空気感がよく分かります。歴史を学ぶには、ひとつの視点だけではなく、いろいろな立場からの情報を見比べることが大切です。

総括:東條英機は悪くないのかまとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

🔹 東條英機は悪くないのか?その理由

  • 東條英機は当初、日米開戦を避けるために和平交渉を続けていた
  • 開戦は、アメリカの経済制裁や日本国内の強硬論が原因で、東條ひとりの責任ではない。
  • 軍部の暴走を止めきれなかった葛藤と限界があった。
  • 家庭では家族思いで優しい父親、部下にも配慮する人柄だった。
  • 「東條=悪者」というイメージは、GHQの占領政策や戦後教育によって作られた側面が強い。

🔹 東條英機の人物像と戦後の評価

  • 東條は真面目で実直な軍人出身で、努力を重ねて総理大臣になった。
  • 総理として国家総動員体制を進めたが、当時の日本にとっては必要とされた政策だった。
  • 戦後、A級戦犯として絞首刑になったが、「勝者による裁き」との批判もある。
  • 評価は今でも肯定と否定が分かれており、一方的な判断は難しい。
  • より深く知るには、複数の資料や視点を持つことが大切。