今日は江戸時代の将軍「徳川家宣(とくがわ いえのぶ)」についてお話しします。家宣は、6代将軍としてたった3年しか在位していませんが、その間に大きな政治改革を行いました。
「生類憐れみの令(しょうるいあわれみのれい)の廃止」や「幕府の財政改革」など、彼の功績は今でも高く評価されています。
でも、なぜわずか3年で亡くなってしまったのか?側室は何人いて、どんな人物だったのか?
この記事では、そんな疑問に塾長が分かりやすく解説していきます!
徳川家宣がしたこととは?正徳の治を簡単に解説

徳川家宣が行った政治改革は、「正徳の治(しょうとくのち)」と呼ばれています。これは、彼のブレーンである「新井白石(あらいはくせき)」と「間部詮房(まなべ あきふさ)」によって進められたものです。
前の将軍・徳川綱吉(とくがわ つなよし)の時代には、庶民の生活が厳しくなるような政策がたくさんありました。家宣は、それを正しく直し、人々が暮らしやすい世の中を作ろうとしました。
徳川家宣がしたこと一覧!在位3年で何を成し遂げた?
徳川家宣は、わずか3年という短い間に、いくつもの重要な改革を行いました。
彼の政策は、7代将軍・徳川家継(とくがわ いえつぐ)の時代にも受け継がれ、「正徳の治」として高く評価されています。
家宣が行った主な政策をまとめると、次のようになります。
- 生類憐れみの令の廃止
- 貨幣制度の改革(正徳金銀の発行)
- 朝鮮通信使の待遇変更
- 武家諸法度の改正
- 幕府の財政立て直し
家宣は、民衆の暮らしを第一に考え、無駄な支出を減らし、幕府の財政を健全化することに尽力しました。
生類憐れみの令の廃止!家宣が庶民を救った決断
生類憐れみの令は、5代将軍・徳川綱吉が出した法令で、動物の命を大切にすることを求めたものです。
しかし、その内容は極端で、犬を傷つけるだけで処刑されるほどでした。また、捨てられた犬を保護するための「犬小屋(犬屋敷)」が作られ、幕府の財政を圧迫していました。
家宣は、この法令が庶民の生活を苦しめていると考え、即座に廃止しました。
これは、民衆から大いに喜ばれ、「庶民の味方」として評価されるきっかけとなりました。
徳川家宣と新井白石の関係!幕府政治を支えたブレーン
家宣の政治を支えたのが、儒学者の新井白石です。
白石は、学問に基づいた政治を提案し、家宣はそれを積極的に採用しました。
白石の主な提案には次のようなものがあります。
- 武家諸法度(ぶけしょはっと)の改正(大名の統制強化)
- 貨幣の価値を安定させる「正徳金銀」の発行
- 朝鮮通信使の待遇変更(無駄な接待を削減)
家宣と白石のコンビは、政治改革を推し進め、後の幕府の安定に大きく貢献しました。
朝鮮通信使の待遇変更!日本の外交方針を転換
江戸時代、日本は朝鮮と友好関係を築いており、将軍が代わるたびに「朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)」が来日していました。しかし、その接待には莫大な費用がかかり、幕府の財政を圧迫していました。
家宣は、白石の提案を受け、朝鮮通信使の待遇を簡素化しました。さらに、それまで「日本国大君」と呼ばれていた将軍の称号を「日本国王」に改め、幕府の威厳を示しました。
この政策は、幕府の財政負担を減らし、日本の国際的地位を高めることにつながりました。
幕府財政改革と貨幣政策!正徳金銀の発行とは?
徳川綱吉の時代、貨幣の質が下がり、物価が上昇する「インフレ」が起こっていました。これは、人々の生活を苦しめる大きな原因の一つでした。
家宣は、新井白石とともに「正徳金銀(しょうとくきんぎん)」を発行し、貨幣の価値を安定させる政策を行いました。しかし、貨幣の流通量が減ったことで、一部の商人たちからは不満の声も上がりました。
それでも、家宣は財政を安定させるために、この政策を推し進めました。
徳川家宣のしたことの後に:死因と側室はどうだったか

家宣はわずか3年の在位でこの世を去りました。
なぜ彼は早く亡くなってしまったのか?また、家宣には正室や側室が何人いて、どのような子どもがいたのか?
ここでは、家宣の最期や家族について詳しく解説していきます。
徳川家宣の死因はインフルエンザ?最期の言葉とは
家宣が亡くなったのは1712年(正徳2年)10月14日、享年51でした。その死因は当時流行していた感冒(かんぼう)、つまりインフルエンザだったと考えられています。
病気が悪化する中でも、家宣は幕政のことを心配し続けました。
特に、次の将軍となる息子・家継(いえつぐ)がまだ3歳だったため、後継問題が大きな不安でした。
家宣の最期の言葉
家宣は、枕元に家臣たちを呼び、こう言いました。
「幼少の家継をよく助けてやってほしい。これは家継のためではなく、天下万民のためだ」
また、もし家継が早く亡くなってしまった場合には、尾張家の徳川吉通(とくがわ よしみち)を将軍に迎えるようにという遺言も残しました。
このように、家宣は最後まで将軍としての責任を果たし、幕府の安定を願いながら亡くなったのです。
徳川家宣の側室は4人!それぞれの女性と子ども
家宣には、正室1人と側室4人がいました。
それぞれの女性と子どもについて詳しく見ていきましょう。
正室:近衛熙子(このえ ひろこ/天英院)
- 公家・近衛家の出身で、家宣の正室
- しかし、夫婦仲はあまり良くなかったとされる
- 家宣の死後、大奥で権力を持ち続けた
側室1:お喜世の方(月光院)
- 7代将軍・徳川家継の母
- 家宣の死後、大奥で強い発言力を持つ
- 後に「月光院」と呼ばれる
側室2:お古牟の方(法心院)
- 次男・家千代を出産するも、幼くして亡くなる
- 家宣の側室の中ではあまり記録が残っていない
側室3:お須免の方(蓮浄院)
- 三男・大五郎、五男・虎吉を出産
- しかし、どちらも幼くして亡くなる
側室4:斎宮(本光院)
- 家宣の子を流産したとされる
- 家宣の死後、大奥を去った
こうして見ると、家宣は多くの子どもをもうけましたが、生き残ったのは家継だけでした。しかし、家継もわずか8歳で亡くなり、結局、家宣の血統は続かなかったのです。
徳川家宣の家族構成!子どもたちの運命とは?
家宣の子どもは全部で6人(男子5人、女子1人)いましたが、ほとんどが幼くして亡くなりました。ここでは、それぞれの子どもたちの運命を見ていきましょう。
長女:豊姫
- 生後まもなく亡くなる
長男:夢月院
- 1699年生まれだが、幼くして亡くなる
次男:家千代
- 側室・お古牟の方の子
- 1707年に生まれるが、幼くして亡くなる
三男:大五郎
- 側室・お須免の方の子
- 1708年に生まれ、1710年に亡くなる
四男:徳川家継
- 側室・お喜世の方の子
- 1709年生まれ、1712年に家宣が亡くなり、3歳で7代将軍となる
- しかし、1716年、8歳で病死
五男:虎吉
- 側室・お須免の方の子
- 1711年生まれるが、幼くして亡くなる
こうして見ると、家宣の子どもたちは非常に短命でした。このことが、幕府の後継問題を大きくする原因となったのです。
徳川家宣の性格と人柄!家臣からの評価は?
家宣は「庶民の味方」「慈悲深い将軍」として有名でした。特に、家臣や庶民に優しく接したエピソードが多く残っています。
家宣の人柄が分かるエピソード
- 賄賂(わいろ)を断る
- 江戸城西の丸に入ったとき、大名たちが贈り物を持ってきた
- しかし、家宣は「これは賄賂だ」として受け取らなかった
- これにより「清廉潔白な将軍」として評価された
- 学問を重んじた
- 新井白石の講義を熱心に受け、自ら勉学に励んだ
- 「学ぶ姿勢」が大名や家臣たちに影響を与えた
- 家臣を思いやる心
- 偽りの密告をした家臣が切腹を命じられた際、「一時でも自分に仕えてくれたのだから助けてほしい」と幕府に嘆願した
家宣は、ただの政治家ではなく、人間としても魅力的な将軍だったのです。
徳川家宣の墓所は増上寺!歴代将軍の眠る場所
家宣の墓は、東京都港区芝公園の増上寺(ぞうじょうじ)にあります。増上寺は、徳川将軍家の菩提寺(ぼだいじ)として有名で、多くの将軍がここに眠っています。
増上寺に眠る歴代将軍
- 2代将軍:徳川秀忠
- 6代将軍:徳川家宣
- 7代将軍:徳川家継
- 9代将軍:徳川家重
- 12代将軍:徳川家慶
家宣の墓は、豪華な造りになっており、現在でも多くの人が訪れています。江戸時代の歴史を学ぶなら、一度訪れてみるのも良いでしょう。
総括:徳川家宣がしたことを簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. 徳川家宣の基本情報
- 江戸幕府第6代将軍(在位:1709年〜1712年)
- わずか3年の在位期間だったが、多くの改革を実施
- 儒学者 新井白石 と側用人 間部詮房 を重用し、「正徳の治」を推進
2. 徳川家宣がしたこと(政治改革)
- 生類憐れみの令の廃止(極端な動物保護政策を撤廃)
- 貨幣制度の改革(正徳金銀の発行で経済安定を図る)
- 朝鮮通信使の待遇変更(接待の簡素化と外交方針の転換)
- 武家諸法度の改正(幕府の権威を強化)
- 幕府の財政立て直し(無駄な支出を削減し、庶民の生活を改善)
3. 徳川家宣の死因と最期
- 1712年(正徳2年)10月14日、51歳で死去
- 死因は当時流行していたインフルエンザ(感冒)
- 最期の言葉:「幼い家継を助け、天下万民のために尽くしてほしい」
4. 徳川家宣の側室と子ども
- 正室:近衛熙子(天英院)
- 側室4人(お喜世の方・お古牟の方・お須免の方・斎宮)
- 子ども6人(男子5人、女子1人) いたが、ほとんどが幼少期に死去
- 唯一生き残ったのは7代将軍・徳川家継(1709年生まれ)
- しかし、家継も8歳で病死し、家宣の血統は途絶えた
5. 徳川家宣の性格・人柄
- 慈悲深く、庶民に優しい将軍
- 学問を重んじ、新井白石の講義を熱心に受けた
- 賄賂を拒絶し、公正な政治を行った
- 家臣への恩義を忘れず、不正を厳しく取り締まった
6. 徳川家宣の墓所
- 東京都港区の増上寺に埋葬
- 増上寺には 2代秀忠、7代家継、9代家重、12代家慶 なども眠る
- 今でも多くの人が訪れる歴史的な場所
