今日は江戸時代の10代将軍・徳川家治(とくがわ いえはる)の側室について、わかりやすく解説します。家治は将軍の中でも「側室が少なかった」と言われている人物です。では、彼の側室は誰だったのでしょうか?何人いたのでしょうか?

特に「蓮光院(れんこういん)」や「養蓮院(ようれんいん)」と呼ばれる女性たちは、どんな人生を歩んだのか気になりますよね。この記事では、家治の正室との関係や、側室を持つことになった理由、大奥での生活など、興味深いエピソードをたっぷり紹介します!

歴史の授業ではあまり詳しく習わない「江戸時代の大奥の事情」についてもわかるので、ぜひ最後まで読んでくださいね!

徳川家治の側室は誰?何人いたのか徹底解説

徳川家治には、歴代の将軍の中でも側室が少なかったことが知られています。それでは、彼の側室は誰で、何人いたのでしょうか?

家治の側室を詳しく解説し、その背景を振り返ります。

徳川家治の側室は2人!蓮光院(知保の方)と養蓮院(品)

徳川家治には側室が2人いたことがわかっています。それが「蓮光院(知保の方)」と「養蓮院(品)」です。

蓮光院(知保の方)は旗本・津田信成の娘で、もともとは大奥の女官(じょかん)として仕えていました。後に家治の側室となり、将軍の跡継ぎ候補である「徳川家基(いえもと)」を産みました。

養蓮院(品)は公家の藤井兼矩(ふじい かねのり)の娘で、もとは家治の正室である五十宮倫子(いそのみや ともこ)に仕えていた女性でした。彼女も家治の子供を産みましたが、生まれてすぐに亡くなってしまいました。

他の将軍と比べると、家治の側室はとても少ないですね。例えば、11代将軍の徳川家斉(いえなり)は40人以上の側室を持っていたと言われています。それと比べると、家治の側室の少なさがよくわかりますね。

側室を持つことに消極的だった家治の理由

徳川家治は、もともと側室を持つことに乗り気ではありませんでした。その理由のひとつは、彼がとても「愛妻家(あいさいか)」だったからです。

家治の正室は、東山天皇の子である五十宮倫子(いそのみや ともこ)でした。

家治と倫子の仲はとても良く、2人の間には千代姫(ちよひめ)や万寿姫(まんじゅひめ)という娘も生まれました。しかし、世継ぎとなる男子が生まれなかったため、大奥の人々や老中(ろうじゅう)たちは「側室を持つべきだ」と家治に進言しました。

しかし、家治はなかなかそれを受け入れませんでした。これは、歴代の将軍には珍しいことでした。たとえば、家治の祖父である徳川吉宗(よしむね)や、次の将軍になる家斉(いえなり)は、多くの側室を持ち、多くの子供をもうけました。家治がこれに消極的だったことが、後の「跡継ぎ問題」につながるのです。

田沼意次が推薦した側室・知保の方(蓮光院)の役割

家治が側室を持つきっかけになったのは、老中・田沼意次(たぬま おきつぐ)の助言でした。田沼は、「将軍家の跡継ぎを確保するために、側室を迎えるべきだ」と強く勧めたのです。

そこで選ばれたのが、知保の方(のちの蓮光院)でした。彼女はもともと大奥の女官で、家治の世話をしていた女性でした。そして、1762年に家治との間に長男の「徳川家基(いえもと)」を産みます。

家基は、将来の11代将軍になると期待されました。しかし、1779年にわずか17歳で急死してしまいます。この出来事が家治の人生を大きく変えました。家基を失ったことで、家治はますます政治に対する意欲をなくし、田沼意次にすべてを任せるようになってしまったのです。

もう一人の側室・品(養蓮院)の生涯と役割

家治にはもう一人側室がいました。それが「品(しな)」、のちの養蓮院です。

品は、もともと五十宮倫子の侍女(じじょ)として仕えていました。その後、家治の側室となり、「貞次郎(さだじろう)」という男子を産みました。しかし、貞次郎は生まれてすぐに亡くなってしまいました。

このため、家治の跡継ぎとして期待されたのは、家基だけでした。しかし、その家基も早く亡くなってしまったため、家治は跡継ぎを養子として迎えなければならなくなったのです。

家基の死後、徳川家の跡継ぎ問題はどうなったのか?

1779年、家基が急死したことで、徳川幕府の跡継ぎ問題が深刻になりました。家治には他に男子がいなかったため、急遽、一橋家(ひとつばしけ)から養子を迎えることになりました。

選ばれたのは、一橋徳川家の徳川家斉(いえなり)でした。家斉は家治の遠い親戚であり、まだ15歳の少年でした。1787年に家治が亡くなった後、家斉は11代将軍に就任しました。

このように、家治が側室を少なくしたことが、跡継ぎ問題につながりました。もし家治がもっと多くの側室を持っていたら、家基が亡くなった後も、別の息子が跡を継いでいたかもしれませんね。

徳川家斉の側室:蓮光院と養蓮院はどんな人だった?

家治の側室の中でも特に重要な役割を果たした「蓮光院(知保の方)」と「養蓮院(品)」ですが、彼女たちの生涯はどうだったのでしょうか?

大奥での生活やその後の人生に迫ります。

蓮光院(知保の方)の波乱の生涯と家基との関係

蓮光院(知保の方)は、家治の側室として長男・徳川家基を産みました。彼女の人生は、息子・家基の運命とともに大きく揺れ動きます。

彼女はもともと大奥の女官として仕えていましたが、老中・田沼意次の推薦で側室となりました。そして1762年、待望の男子・家基を出産しました。家基は将軍の跡継ぎとして、大きな期待を背負って育てられます。

しかし、家基は1779年にわずか17歳で亡くなってしまいました。突然の死には「毒殺説」や「病死説」など、さまざまな噂がありました。これにより、蓮光院の立場は急変しました。それまで「将軍の世継ぎの母」として大奥で権力を持っていましたが、家基がいなくなったことで、その影響力を失ってしまったのです。

その後、蓮光院は出家し、静かに余生を過ごしました。彼女の墓は東京・上野の寛永寺にあり、家基と同じ場所に眠っています。

養蓮院(品)はどんな女性だったのか?

養蓮院(品)は、もともと家治の正室・五十宮倫子の侍女でした。家治が側室を迎えることになった際に、彼女もその一人として選ばれました。

品は家治との間に男子・貞次郎を産みました。しかし、貞次郎は生後わずか3か月で亡くなってしまいました。将軍の子供が早世するのは珍しいことではありませんが、このことで養蓮院の立場はあまり強くならなかったようです。

家基が将軍候補として育てられる一方で、養蓮院は大奥の中で静かに暮らしていました。家治の死後、彼女も出家し、養蓮院と名乗るようになります。

養蓮院の墓所は、蓮光院とは別の場所にありますが、江戸幕府の関係者が眠る寺院の一つに葬られています。

大奥での側室の役割と格式

江戸時代の大奥では、側室はとても重要な存在でした。特に、将軍の世継ぎを産んだ側室は「御部屋様(おへやさま)」と呼ばれ、大奥での地位が上がりました。

しかし、家治の時代は少し違いました。家治が側室を少なくしたこともあり、大奥での派閥争いは比較的穏やかだったと言われています。

ただし、家基が亡くなった後、蓮光院の立場が急に弱くなったように、「将軍の子を産んだかどうか」で側室の運命は大きく変わるのが大奥の特徴でした。

また、側室には「正室に仕えていた女性」が選ばれることが多く、蓮光院も養蓮院も元々は大奥の女官でした。こうした女性たちは、将軍の寵愛を受けることで、家柄に関係なく出世することができました。

家治の死後:蓮光院と養蓮院はどうなったのか

1786年、徳川家治が50歳で亡くなると、蓮光院と養蓮院の立場も大きく変わりました。

蓮光院はすでに家基を失っていたため、大奥での影響力をほとんど失っていました。そのため、彼女は出家し、ひっそりと暮らすことを選びました。

一方、養蓮院も家治の死後に大奥を去り、同じく出家しました。彼女はもともと大奥の中で目立つ存在ではなかったため、大きな権力を持つことなく、一生を終えました。

二人とも、家治が愛した正室・五十宮倫子のように華やかな人生ではありませんでしたが、幕府の歴史に名を刻む存在であったことは間違いありません。

徳川家治の側室の少なさが幕府に与えた影響

徳川家治が側室を少なくしたことは、幕府の将軍継承に大きな影響を与えました。

家治が亡くなった時、跡継ぎとして考えられる息子はすでにおらず、養子を迎えるしかない状況になってしまいました。その結果、御三卿の一つである一橋家(ひとつばしけ)から「徳川家斉(いえなり)」を養子として迎え、11代将軍にすることになりました。

もし家治が側室を増やしていれば、他にも跡継ぎの候補がいたかもしれません。しかし、家治は側室を2人しか持たなかったため、家基が亡くなると幕府の将軍候補がいなくなってしまったのです。

結果として、家治の死後、幕府の政治は大きく変わりました。家斉の時代には40人以上の側室がいたため、彼の子供は50人以上にのぼったと言われています。これは家治の時代と大きな違いですね。

総括:徳川家治の側室まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 徳川家治の側室は2人
    • 蓮光院(知保の方):旗本・津田信成の娘。家基(いえもと)を出産。
    • 養蓮院(品):公家・藤井兼矩の娘。貞次郎を出産するも夭折。
  • 家治は側室を持つことに消極的だった理由
    • 正室・五十宮倫子を深く愛する「愛妻家」だった。
    • 世継ぎの男子がいなかったため、老中・田沼意次らの強い勧めで渋々側室を迎えた。
  • 蓮光院(知保の方)の役割と人生
    • 家基を産んだことで、大奥での地位が上がる。
    • 家基の早世(17歳で死去)により、立場が急落。
    • その後は出家し、寛永寺に眠る。
  • 養蓮院(品)の役割と人生
    • もともとは五十宮倫子の侍女だった。
    • 貞次郎を産むも、生後3か月で亡くなる。
    • 目立った権力を持たず、大奥を静かに去り出家。
  • 家基の死による幕府の跡継ぎ問題
    • 家治の実子がいなくなり、幕府は養子を迎えるしかなくなった。
    • 一橋家の徳川家斉を養子にし、11代将軍とした。
  • 家治の側室の少なさが幕府に与えた影響
    • 家基の死後、幕府の将軍継承が不安定に。
    • 家治の後を継いだ家斉は40人以上の側室を持ち、子供を50人以上もうける。
    • 家斉時代は「大奥の権力争い」が激化し、幕府財政の悪化にもつながった。