江戸幕府の将軍といえば誰を思い浮かべますか?徳川家康や徳川吉宗はよく知られていますが、「徳川家慶(とくがわいえよし)」のことを詳しく知っている人は少ないかもしれませんね。

家慶は江戸幕府の第12代将軍で、日本が大きく変わる幕末の入り口に立っていた人物です。彼の時代には、国内では「天保の改革」、海外では「アヘン戦争」や「黒船来航」など、大きな出来事がたくさんありました。

今回は、「徳川家慶がしたこと」をわかりやすく解説しながら、彼の人物像や歴史の流れを学んでいきましょう!

徳川家慶がしたこととは?12代将軍の軌跡

江戸幕府12代将軍・徳川家慶は、政治的に厳しい時代を生き抜いた人物です。彼の時代には、天候不順による飢饉(ききん)や幕府の財政難、外国からの圧力が増すなど、たくさんの問題がありました。

ここでは、家慶がどんなことをしたのか、時系列に沿って詳しく見ていきましょう。

徳川家慶とは?生い立ちから将軍就任までの歩み

徳川家慶は1793年(寛政5年)に生まれました。父は第11代将軍・徳川家斉(いえなり)です。本来なら将軍になる予定ではありませんでしたが、兄の竹千代が早くに亡くなったため、世継ぎとなりました。

1837年(天保8年)、44歳という高齢で将軍になりましたが、すぐに政治の主導権を握ることはできませんでした。というのも、父の家斉が「大御所政治(おおごしょせいじ)」と呼ばれる形で実権を握り続けたからです。

そのため、最初の4年間は家慶が自分の考えで政治を行うことができませんでした。しかし、1841年(天保12年)に家斉が亡くなると、ようやく本格的に政治を動かせるようになりました。

天保の改革を主導!幕府財政の立て直しに挑んだ施策とは?

家慶が将軍になった頃、江戸幕府の財政は大ピンチでした。前の将軍・家斉の時代には、大量の借金をして贅沢な暮らしをしていたため、幕府のお金が足りなくなっていたのです。

そこで、家慶は老中(水野忠邦)に命じて「天保の改革(てんぽうのかいかく)」を始めました。

この改革のポイントは以下の通りです。

  • 倹約令(けんやくれい): 贅沢な生活をやめるように命じる
  • 物価の安定: 物価が急に上がらないように調整する
  • 人返し令: 江戸や大阪に流れ込んだ貧しい人々を地元へ帰す
  • 株仲間の解散: 一部の商人が市場を独占しないようにする

しかし、これらの改革はすべてがうまくいったわけではありません。特に「株仲間の解散」は商人たちの反発を招き、改革は失敗に終わってしまいました。

幕府権威を回復!徳川家慶が行った日光社参の意義とは?

1843年(天保14年)、家慶は67年ぶりに「日光社参(にっこうしゃさん)」を行いました。これは、徳川家康のお墓がある日光東照宮に参拝する儀式です。

家慶はこれによって「徳川幕府の権威(けんい)を示そう!」と考えました。彼は日光山内から鉢石宿までの道のりを自ら歩いたとも言われており、庶民からは「庶民的な将軍」として親しまれました。

しかし、この日光社参によって幕府の求心力が劇的に回復したわけではなく、日本国内の不満は依然として大きかったのです。

対外政策の転換点!黒船来航直前の幕府の対応とは?

家慶の時代、日本は海外からの圧力を受け始めました。特に1840年のアヘン戦争で清国がイギリスに敗れたことで、幕府も「日本も狙われるのでは?」と警戒し始めました。

そこで、家慶は幕府の政策を変更しました。

  • それまでの「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)」をやめる
  • かわりに「薪水給与令(しんすいきゅうよれい)」を発布
    (外国船に燃料や水を提供する)
  • 江戸湾の防備を強化し、西洋砲術を採用

これにより、日本は完全な鎖国を続けるのが難しくなり、少しずつ開国の準備が始まっていきました。

徳川家慶の性格や人柄、名言・逸話を紹介!

家慶は「平凡な将軍」とも言われますが、実際には温厚で慎重な人物でした。また、決断が遅いことから「そうせい様」と揶揄(やゆ)されることもありました。

彼には以下のようなエピソードがあります。

  • 鳩を飼うのが好きだった:江戸城内で鳩を放していた
  • 日光社参で庶民と交流した:商店に立ち寄り、土産を購入
  • 政治の決断が遅かった:「そうせい様」と言われたが、実際は慎重だった

家慶は将軍として大きな変革を起こしたわけではありませんが、幕末の激動に耐え、幕府を支え続けた人物でした。

徳川家慶がしたこと:歴史に与えた影響

徳川家慶が生きた時代は、日本が大きく変わる直前の時期でした。彼の政策や出来事は、その後の日本にどのような影響を与えたのでしょうか?

ここからは、家慶が行ったことがどのように歴史を動かしたのかを詳しく見ていきます。

天保の改革の失敗が幕末の混乱を加速させた?

天保の改革は、幕府の財政を立て直し、社会の秩序を回復することを目的としたものでした。しかし、その多くが失敗し、結果として幕府の力を弱めることになりました。

  • 倹約令の反発:庶民だけでなく、大名や旗本からも「生活が苦しくなる」と不満が続出
  • 株仲間の解散:商人の経済活動が混乱し、結果的に経済が停滞
  • 人返し令の失敗:江戸を追い出された人々は生活に困窮し、社会不安が増大

こうした施策の失敗が、幕末の混乱を加速させる原因になったと考えられています。

対外政策の転換が日本の開国を早めた?

家慶の時代には、日本近海に外国船が頻繁に現れるようになりました。特に、清国がイギリスに敗北した「アヘン戦争(1840~42年)」の影響は大きく、日本でも「このまま鎖国を続けていて大丈夫なのか?」という危機感が生まれました。

そこで家慶は、それまでの「異国船打払令」を改め、「薪水給与令(しんすいきゅうよれい)」を発布しました。これは、遭難した外国船に対して最低限の燃料や食料を提供するというもので、日本の外交政策に大きな変化をもたらしました。

この方針転換によって、日本は完全に鎖国を続けることが難しくなり、開国への道を進み始めたのです。

黒船来航直後に家慶が死去!幕府の対応が遅れる原因に?

1853年(嘉永6年)、アメリカのペリー提督率いる「黒船」が浦賀に来航しました。これは、日本に開国を求めるアメリカ政府の圧力によるもので、日本はこれまでにない危機に直面しました。

しかし、この黒船来航からわずか19日後、徳川家慶は病に倒れ、そのまま亡くなってしまいました。

家慶が死去したことで、幕府の対応は遅れ、日本の混乱はさらに深まることになったのです。

  • すぐに13代将軍・徳川家定が就任するが、病弱で決断力に欠けていた
  • そのため、黒船への対応が遅れ、幕府内部の意見が割れることに
  • 結果的に1854年の日米和親条約の締結につながる

もし家慶が生きていたら、幕府の対応は違ったものになっていたかもしれませんね。

家慶が抜擢した阿部正弘が幕末のキーパーソンに!

家慶は天保の改革を進める中で、水野忠邦を失脚させ、新たに阿部正弘(あべまさひろ)を老中に任命しました。

阿部正弘は、家慶が亡くなった後も幕府の中心人物として活躍し、日本の開国に大きく関わることになります。

阿部正弘の主な功績:

  • 開国に向けた準備を進めた(オランダ・ロシアとの交渉)
  • 海防強化を進めた(江戸湾防備の強化)
  • 幕府の政治体制を変更(大名や朝廷の意見を取り入れる)

家慶が阿部正弘を重用していなかったら、幕府の開国政策はもっと遅れていたかもしれません。

徳川家慶の評価は?凡庸な将軍か、それとも慎重な政治家か?

徳川家慶は「平凡な将軍」「何も成し遂げなかった」と言われることが多いですが、本当にそうでしょうか?

確かに、家慶の時代に幕府は大きく衰退しました。しかし、彼がしたことを振り返ると、慎重に幕府を支えようとしたことがわかります。

  • 天保の改革を実行 → 失敗に終わったが、財政立て直しの努力は評価できる
  • 対外政策の見直し → 黒船来航前に政策を変更し、開国の準備を進めた
  • 阿部正弘を抜擢 → 幕末のキーパーソンを登用し、開国に向けた基盤を作った

これらを考えると、「決断が遅かった」「何もしなかった」とは言えないのではないでしょうか?

総括:徳川家慶がしたことを簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

徳川家慶の基本情報

  • 江戸幕府第12代将軍(在位:1837年~1853年)
  • 1793年生まれ、父は第11代将軍・徳川家斉
  • 兄の竹千代が早逝したため、世継ぎとなる
  • 44歳で将軍に就任(高齢での就任)

家慶が行った主な施策・出来事

天保の改革(幕府の財政立て直し)

  • 老中・水野忠邦に命じて改革を推進
  • 倹約令(贅沢を禁止)
  • 物価の安定政策
  • 人返し令(都市から貧困層を地方へ戻す)
  • 株仲間の解散(商業独占の制限)
  • しかし、庶民や商人の反発が強く、改革は失敗

日光社参(幕府の権威回復を目指す)

  • 1843年(天保14年)、67年ぶりに日光東照宮に参拝
  • 幕府の権威を示す目的だったが、大きな効果はなし
  • 道中で庶民と交流し、「庶民的な将軍」とも評された

対外政策の転換(鎖国から開国の準備へ)

  • アヘン戦争(1840年~42年)で清国がイギリスに敗北
  • 日本も外国の脅威を意識し、異国船打払令を廃止
  • 代わりに薪水給与令を発布(遭難した外国船に燃料・水を提供)
  • 西洋式の砲術を導入し、江戸湾防備を強化

黒船来航と家慶の死

  • 1853年(嘉永6年)、ペリーの黒船が来航
  • しかし、黒船来航から19日後に家慶が死去
  • 直後に13代将軍・家定が就任(病弱で決断力不足)
  • 幕府の対応が遅れ、翌1854年の日米和親条約につながる

阿部正弘の登用(幕末の開国政策の基盤作り)

  • 天保の改革失敗後、水野忠邦を罷免し阿部正弘を老中に抜擢
  • 阿部正弘は幕府の政治体制を変更し、開国の準備を進めた
  • 西洋列強との交渉を開始し、日本の近代化の基礎を作る

徳川家慶の評価

  • 「凡庸な将軍」と言われることが多いが、実際は慎重で温厚な性格
  • 「そうせい様」と呼ばれるほど決断が遅かったが、開国準備を進めた
  • 幕末の混乱を完全には防げなかったが、外交政策の転換や幕政改革に貢献