今日は江戸幕府の第5代将軍、徳川綱吉(とくがわつなよし)の死因についてお話しします。綱吉といえば、「生類憐れみの令」を出した「犬公方(いぬくぼう)」として有名ですね。でも、彼がどのように亡くなったのか、みなさんは知っていますか?

実は、綱吉の死因には「公式記録」と「さまざまな噂」があり、今でも歴史の謎として語られています。

この記事では、綱吉の最期の様子や亡くなった年齢、当時の幕府の対応について、分かりやすく解説しますよ。

徳川綱吉の死因とは?公式記録と噂を徹底解説

徳川綱吉の死因には「公式の記録」と「いくつかの異説」 があります。江戸時代の医学や文化を知ると、当時の人々がどのように考えていたのかがよく分かります。それでは、綱吉の死因について詳しく見ていきましょう。

徳川綱吉の死因は麻疹(はしか):公式記録「徳川実紀」による記述

公式の記録によると、綱吉の死因は「麻疹(はしか)」でした。「徳川実紀(とくがわじっき)」という幕府の歴史書には、宝永6年(1709年)1月3日に発症し、1月10日の朝6時ごろに亡くなったと書かれています。

麻疹は今でこそワクチンがありますが、当時は非常に危険な病気でした。高熱が続き、体力のない人は命を落としてしまうこともありました。将軍であっても、病気には勝てなかったのですね。特に江戸時代は、医学がまだ発展していなかったため、重病になると助かる確率が低かったのです。

幕府の医師たちも全力で治療したようですが、綱吉の体は徐々に衰弱し、最後は意識を失って亡くなったと言われています。

餅を喉に詰まらせて窒息死?異説としての死亡理由

綱吉の死因については、「餅を喉に詰まらせた」という説もあります。この話は「翁草(おきなぐさ)」という後世の書物に記されています。

当時、正月には「お祝いの餅」を食べる習慣がありました。綱吉もお餅を食べたのですが、麻疹で弱っていたために、喉に詰まらせてしまったと言われています。今でも「お餅でのどを詰まらせる事故」がありますが、これは昔からあったのですね。

しかし、この説には疑問も残ります。将軍にはたくさんの家臣や医師が付き添っていた ため、窒息してもすぐに対処できたのではないか?という点です。そのため、餅窒息説は「面白い話」として広まった可能性が高いです。

徳川綱吉は殺害された?正室・信子による無理心中説

もう一つの驚くべき説が、綱吉の正室・鷹司信子(たかつかさ のぶこ)が綱吉を殺害し、自分も命を絶ったという話です。これは「翁草」にも記されています。

なぜこんな話が生まれたのでしょうか?実は、信子は綱吉の死後 たった1日後に亡くなっている のです。これが「怪しい」とされ、後世にさまざまな噂が広まりました。

また、「大奥には開かずの間がある」といわれており、綱吉がそこで殺害されたのでは?というミステリー的な話まであります。しかし、実際のところ、信子の死因も麻疹とされており、偶然の一致だった可能性が高いです。

徳川綱吉の死因は「衰弱死」だった?当時の医療状況と高齢による影響

綱吉は亡くなったとき、数え64歳(満63歳)でした。江戸時代の平均寿命は50歳未満だったので、当時としては長生きでした。

また、江戸時代の将軍は、薬を大量に飲む習慣がありました。将軍の健康管理のために、多くの漢方薬が処方されていましたが、過剰な薬の使用が逆に体に悪影響を与えた可能性もあります。

さらに、将軍の仕事は非常にストレスが多い ものでした。「生類憐れみの令」による批判や、大奥の問題など、悩みは尽きなかったでしょう。こうしたストレスも、病気を悪化させる原因になったかもしれませんね。

「生類憐れみの令」と綱吉の死因の関係

綱吉といえば、「生類憐れみの令」で有名ですが、実はこの法律と彼の死因には関係があるかもしれません。

なぜなら、綱吉は「生類憐れみの令」を出したことで動物を殺すことを禁止しました。そのため、幕府の医師たちも動物を使った薬(漢方薬や動物由来の治療薬)を処方しづらくなったと言われています。

もしこれが本当なら、綱吉自身が作った法律が、彼の治療を難しくした可能性もあります。これはとても皮肉な話ですね。

徳川綱吉の死因:最後の様子は?幕府内で何が起こった?

徳川綱吉の死は、幕府にとって大きな出来事でした。彼の病状が悪化していく中で、周囲の人々はどんな対応をしたのでしょうか?また、亡くなった後の幕府はどうなったのでしょうか?

ここでは、綱吉の最期の様子や幕府の混乱について詳しく見ていきます。

徳川綱吉が亡くなる直前の症状と病状の進行

綱吉は宝永6年(1709年)1月3日に麻疹(はしか)を発症しました。最初は軽い発熱でしたが、次第に高熱になり、皮膚に赤い発疹が現れました。

当時の医療では、麻疹の効果的な治療法がなく、主に「安静にする」「体を冷やさない」「食事をとる」などの対応しかできませんでした。現代のようなワクチンもなく、自然に回復するのを待つしかなかったのです。

しかし、1月7日ごろには意識がもうろうとし、食事も取れなくなったと言われています。体力が衰え、最期には意識を失い、1月10日の朝6時ごろに息を引き取ったのです。

綱吉の死は、家臣たちにとって大きな衝撃だったでしょう。特に彼を支えてきた側用人・柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)や、大奥の女性たちは悲しみに包まれたといいます。

将軍綱吉の死に伴う幕府の対応:将軍職継承問題と混乱

綱吉が亡くなったことで、幕府には大きな問題が生じました。それは「次の将軍を誰にするのか?」という問題です。

実は、綱吉には正式な後継ぎがいませんでした。唯一の息子・徳松(とくまつ)はすでに幼くして亡くなっていたのです。そのため、幕府の重臣たちは急いで次の将軍を決めなければなりませんでした。

最終的に、6代将軍には、徳川家宣(いえのぶ)が選ばれました。家宣は、綱吉の兄・綱重(つなしげ)の息子で、もともと甲府藩主(こうふはんしゅ)でした。つまり、血筋的には将軍になれる立場だったのです。

しかし、幕府内では「柳沢吉保が将軍にしようとしていた」などの噂もあり、将軍継承をめぐって混乱があったことは間違いありません。

正室・鷹司信子の死と大奥の異変—幕府内で囁かれた陰謀説

綱吉が亡くなった翌日(1月11日)に、正室の鷹司信子(たかつかさ のぶこ) も亡くなりました。この出来事が、さまざまな陰謀説を生んだのです。

・信子は綱吉を殺して自害したのではないか?
・大奥の「開かずの間」で何かがあったのでは?
・幕府の政治闘争が関係していたのではないか?

など、さまざまな噂が広まりました。

実際には、信子も麻疹に感染していたため、病死した可能性が高いです。しかし、当時の人々は、この偶然を「何か裏がある」と考え、さまざまな推測をしたのでしょう。

また、大奥では将軍の死後、急速に力関係が変化しました。特に、綱吉の母・桂昌院(けいしょういん)の影響力が薄れ、大奥の勢力図が大きく変わることになりました。

徳川綱吉の葬儀—寛永寺での大規模な儀式

綱吉の葬儀は、1月22日に上野・寛永寺(かんえいじ)で行われました。将軍の葬儀は、とても格式が高く、多くの人々が参列しました。

葬儀では、

  • 霊柩(れいきゅう)が江戸城から寛永寺へ運ばれる
  • 僧侶による読経(どきょう)
  • 近親者や幕府の重臣たちによる焼香(しょうこう)

などの儀式が行われました。

また、綱吉の死後、「生類憐れみの令」についても皮肉が言われました。「動物には優しい将軍だったのに、自分の体は守れなかった」という意見もあったようです。

徳川綱吉の死がもたらした影響—幕府の政策はどう変わったのか?

綱吉の死後、幕府の方針は大きく変わりました

  1. 「生類憐れみの令」の廃止
    • 綱吉の死後、「生類憐れみの令」はほぼ廃止されました。
    • 6代将軍・家宣は「この法律は民衆に負担をかけすぎた」と判断し、元の状態に戻したのです。
  2. 幕府の政治スタイルの変化
    • 綱吉の政治は「儒学(じゅがく)を重視し、道徳を大切にする」というスタイルでしたが、家宣は「現実的な政策」を取るようになりました。
  3. 経済の立て直し
    • 綱吉の時代には、貨幣の改鋳(かいちゅう)などで経済が混乱しましたが、家宣は経済を安定させる政策を進めました。
  4. 幕府内の権力構造の変化
    • 綱吉の側近だった柳沢吉保は、綱吉の死後に幕府の中心から外されました。
    • 代わりに、新しい勢力が幕政(ばくせい)を握るようになりました。

このように、綱吉の死は幕府の運営にも大きな影響を与えたのです。

総括:徳川綱吉の死因まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 徳川綱吉の死因
    • 公式記録(『徳川実紀』)では「麻疹(はしか)」による死亡(宝永6年1月10日)。
    • 異説として、「餅を喉に詰まらせて窒息死」説や、正室・鷹司信子による「無理心中」説がある。
    • 将軍職のストレスや、当時の未発達な医療環境が病状を悪化させた可能性も。
  • 綱吉の最期の様子
    • 麻疹に感染し、高熱と発疹が出て衰弱。
    • 1月3日発症、7日には意識もうろう、10日の朝6時に死亡。
    • 付き添っていた家臣や医師も救えず。
  • 幕府内の混乱
    • 綱吉には後継ぎがいなかったため、「次の将軍問題」 が発生。
    • 6代将軍には、兄・綱重の息子 徳川家宣(いえのぶ) が選ばれた。
    • 綱吉の側近・柳沢吉保が次期将軍を画策していたとの噂も。
  • 鷹司信子の死と陰謀説
    • 綱吉の死後 翌日に信子が死亡 → 「殺害説」「無理心中説」が生まれる。
    • 「大奥の開かずの間で暗殺?」などのミステリーも広まったが、実際は麻疹による病死の可能性が高い。
  • 葬儀とその後の影響
    • 1月22日に寛永寺で大規模な葬儀 を実施。
    • 綱吉の死後、「生類憐れみの令」はほぼ廃止
    • 幕府の経済政策が見直され、綱吉時代の混乱を収拾する動きが加速。
    • 柳沢吉保の権力が衰え、幕府の権力バランスが変化。
  • 歴史的評価
    • 綱吉は「理想主義的な専制君主」と評価される一方で、「偏執的」「マザコン将軍」などの批判も多い。
    • その死後も、多くの噂や陰謀説が語り継がれている。