江戸幕府の5代将軍・徳川綱吉について知っていますか?
「犬公方」として有名な将軍ですが、実は大奥に多くの女性がいたことでも知られています。
「徳川綱吉には側室が何人いたの?」
「どんな女性たちが将軍のそばにいたの?」
今回は、綱吉の側室たちについて詳しく解説していきます。
公式記録に残る女性から、歴史の中で語られるゴシップ的な側室まで、幅広く見ていきましょう。歴史の裏側に隠された意外な事実がたくさんありますよ!
徳川綱吉の側室は何人?実際の人数と歴史的背景

徳川綱吉の側室の数については、公式記録と当時のゴシップで違いがあります。公式記録では3人が確認されていますが、噂や江戸時代の書物ではさらに多くの女性の名前が登場します。
将軍の側室とは、基本的に世継ぎを産むことが大きな役割でした。しかし、綱吉は生涯に一人の息子(徳松)をもうけたものの、若くして亡くなってしまいました。この影響で、彼の側室たちの存在は歴史的に大きな意味を持つことになったのです。
徳川綱吉の側室は「公式記録では3人」
歴史の記録によると、綱吉の公式な側室は以下の3人です。
- 瑞春院(お伝の方)
- 寿光院
- 清心院
この3人は幕府の記録に残されているため、正式に側室だったことが確かです。特に有名なのは「お伝の方」と呼ばれる瑞春院で、綱吉の唯一の子供・徳松を産みました。
しかし、当時のゴシップや後世の文献を見ると、「安子」「阿久里」「染子」などの名前も出てきます。これらの女性が本当に側室だったのか、それともただの噂だったのか、これから詳しく見ていきましょう。
お伝の方(瑞春院):唯一綱吉の子を産んだ側室
お伝の方(瑞春院)は、もともと低い身分の出身でした。しかし、その美貌と人柄で綱吉の寵愛を受け、側室として迎えられました。
彼女が産んだ徳松は、綱吉にとって唯一の男子でした。綱吉は息子をとても可愛がっていましたが、徳松はわずか5歳で夭折してしまいます。この出来事は綱吉にとって大きなショックで、「生類憐れみの令」の発布にも影響を与えたとも言われています。
大奥では、公家出身の正室・鷹司信子との間に対立があったとも言われています。身分の差がありながらも、綱吉の寵愛を受けたお伝の方は、大奥内で大きな影響力を持っていたのです。
寿光院と清心院:公式記録に残る側室の実態
お伝の方ほど有名ではありませんが、寿光院と清心院も綱吉の側室でした。
この二人についての詳しい記録は少なく、名前が残っているだけで、どのような役割を果たしていたのかははっきりしていません。
一説には、将軍の側室として迎えられたものの、実際にはあまり寵愛を受けず、大奥の政治的な理由で名目上の側室だったとも言われています。
江戸時代の大奥では、側室の存在は単なる「将軍の愛人」ではなく、政治的な道具としても利用されていました。そのため、公式には側室とされていても、実際の役割は様々だったのです。
ゴシップに登場する側室候補:安子や阿久里の真相
江戸時代の記録の中には、綱吉の側室だった可能性のある女性として、「安子」と「阿久里」の名前が出てきます。
安子は、側用人・牧野成貞の娘で、当初は黒田直相の息子と結婚していました。しかし、綱吉が彼女を気に入り、夫は自害したという話が残っています。
また、阿久里は、安子の母であり、もともと綱吉の生母・桂昌院の侍女だったとされています。彼女も綱吉の寵愛を受けたという噂がありますが、これは当時のゴシップに過ぎないという説もあります。
実際の歴史では、安子や阿久里が正式な側室だったとは確認されていません。 しかし、江戸時代の大奥は噂話が絶えない場所だったため、こうした話が後世まで語り継がれたのでしょう。
柳沢吉保の側室・染子は綱吉の愛人だった?
「染子」という女性も、綱吉の側室だったのではないかと噂されています。
染子は、柳沢吉保の側室でしたが、一部の記録では「柳沢が染子を綱吉に献上した」とも言われています。また、染子が産んだ柳沢吉里は、実は綱吉の隠し子ではないかという説もあります。
しかし、実際の歴史資料には「染子が大奥に入った記録はない」ため、この話は後世の創作の可能性が高いです。
江戸時代のゴシップには、権力者のスキャンダルがよく登場します。柳沢吉保が出世したことへの嫉妬から、こうした話が生まれたのかもしれません。
徳川綱吉の側室たちの運命と江戸時代の大奥の実態

綱吉の側室たちは、将軍のそばに仕えながらも、それぞれ異なる運命をたどりました。一部は大奥で権力を持ち、一部は歴史に埋もれ、また一部は悲劇的な最期を迎えたとも言われています。
ここでは、彼女たちの人生を振り返るとともに、大奥における側室の役割についても解説していきます。
お伝の方(瑞春院)の晩年とその影響
お伝の方は、唯一の男子・徳松を産んだことで大奥での地位を確立しました。しかし、徳松が幼くして亡くなると、彼女の影響力は急速に低下していきます。
綱吉は息子を亡くした悲しみから、「生類憐れみの令」のような極端な政策を推し進めたとも言われています。その影響を受けたお伝の方も、次第に表舞台から遠ざかるようになりました。
綱吉の死後、彼女は落飾して「瑞春院」と名乗り、静かに余生を過ごしたとされています。将軍の寵愛を受けた側室も、世継ぎを失うことで立場が変わるという、厳しい大奥の現実がここにあります。
寿光院と清心院:記録に残るが謎の多い側室たち
寿光院と清心院については、公式な記録には名前が残っているものの、彼女たちの詳細なエピソードはほとんど伝わっていません。
江戸時代の大奥では、政治的な理由から側室が迎えられることもありました。特に公家出身の女性が側室になる場合、幕府と朝廷の関係を円滑にする目的があったとも考えられます。
ただし、寿光院と清心院が実際に綱吉の寵愛を受けたかどうかは不明です。公式な側室でありながら、ほとんど表舞台に出ることなく、そのまま歴史の中に埋もれていった可能性もあります。
安子と阿久里の悲劇:ゴシップか真実か?
安子と阿久里の物語は、江戸時代のスキャンダルとしてよく語られます。
- 安子は、夫を持つ身でありながら綱吉の寵愛を受けたとされ、その結果、夫の成時が自害したという悲劇的な話が残っています。
- 阿久里は、綱吉の生母・桂昌院の侍女をしており、その縁で綱吉に見初められたとされています。
しかし、これらの話の多くは当時のゴシップ集『三王外記』などに書かれたもので、実際の歴史的な記録にはほとんど登場しません。
江戸時代の大奥では、こうしたスキャンダルが絶えませんでした。そのため、安子や阿久里に関する話も、事実とは異なる部分があるかもしれません。
染子と柳沢吉保:綱吉の隠し子説の真相
染子は柳沢吉保の側室でしたが、彼女についても「実は綱吉の側室だったのでは?」という噂が存在します。
特に、「柳沢吉保が染子を綱吉に差し出した」「染子が産んだ吉里は、実は綱吉の子だった」などの話は有名です。しかし、これはあくまで後世の創作であり、染子が実際に綱吉の側室だった記録はありません。
このような話が生まれた背景には、柳沢吉保が急速に出世したことに対するやっかみがあったと考えられます。つまり、「吉保は綱吉に女性を献上して出世したのでは?」という噂が広まった可能性が高いのです。
大奥における側室の役割と影響力
江戸時代の大奥では、側室の存在は単なる「将軍の愛人」ではなく、幕府の政治にも影響を与える重要な役割を果たしていました。
- 側室の目的:基本的には将軍の世継ぎを産むことが最大の役割でした。
- 権力争い:世継ぎを産んだ側室は、大奥での地位が確立され、政治にも影響を持つことができました。
- 将軍の意向:側室が将軍に影響を与え、その意見が幕政に反映されることもありました。
しかし、綱吉の場合は男子の世継ぎを残せなかったため、側室たちの影響力は他の将軍の時代と比べると弱かったかもしれません。
総括:徳川綱吉の側室一覧!何人いた?まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 公式記録に残る側室は3人
- 瑞春院(お伝の方):唯一の男子・徳松を産むが、5歳で夭折。綱吉の「生類憐れみの令」に影響を与えたとも言われる。
- 寿光院・清心院:記録に名前はあるが、具体的なエピソードは不明。政治的理由で迎えられた可能性もある。
- ゴシップで語られる側室候補
- 安子:夫がいたが綱吉の寵愛を受け、夫は自害したとされる(実際の記録はなし)。
- 阿久里:綱吉の母・桂昌院の侍女で、綱吉に寵愛されたという噂があるが、公式記録には残っていない。
- 染子:柳沢吉保の側室だったが、一部で「綱吉の側室だった」「吉里は綱吉の隠し子」との噂あり(史実では大奥入りの記録なし)。
- 側室の役割と影響力
- 側室の目的は主に将軍の世継ぎを産むことだった。
- 世継ぎを産んだ側室は大奥での権力を持つことができた。
- 綱吉の時代は男子の世継ぎがいなかったため、側室の影響力は比較的弱かった。
- 歴史とゴシップが混在する徳川綱吉の側室たち
- 公式記録と江戸時代の噂話が入り混じっているため、事実と虚構の判別が難しい。
- 側室の実態は、政治的な駆け引きの一環でもあった。
