今回は「ベルサイユ条約がなぜひどいと言われるのか?」について、子どもにも分かりやすく解説します。
この条約は、第一次世界大戦が終わったあとに作られたものですが、内容がとてもきびしく、ドイツの人たちをとても苦しめました。その結果、ドイツでは人々の怒りがたまり、ヒトラーのような指導者が出てくるきっかけにもなったのです。
では、なぜそんなにひどい条約だったのでしょうか?どんなことが書かれていたのでしょうか?順番に見ていきましょう!
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ベルサイユ条約がひどい理由!ドイツを苦しめた厳しすぎる条項
第一次世界大戦の終結後、ベルサイユ条約はドイツにとって極めて厳しいものでした。この条約は、ドイツを戦争の責任者として一方的に扱い、多くの過酷な条件を課しました。
どのようにこの条約がドイツに深刻な影響を与え、後にナチスの台頭を助けることになったのでしょうか?その理由を詳しく見ていきましょう。
ヴェルサイユ条約の内容とそのひどさ
ベルサイユ条約とは、第一次世界大戦に負けたドイツと勝った国(イギリスやフランス、アメリカなど)とのあいだで結ばれた、平和のための約束です。でも、その内容はドイツにとってとても一方的で、まるで罰を与えるかのようなものでした。
条約では、ドイツが戦争の責任をすべて負うとされ、たくさんの土地を取り上げられ、軍隊を小さくされ、多額の賠償金(ばいしょうきん)を支払うことになったのです。これにより、ドイツの人々は「こんな条約は不公平すぎる!」と感じました。
とくに戦争責任条項(じょうこう)という部分では、ドイツだけが戦争を起こしたと決めつけられ、それを理由に重い罰が課されました。このように、ベルサイユ条約は「平和のため」よりも「罰を与えるため」と感じさせる内容だったのです。
ドイツ領土の喪失とその影響
ベルサイユ条約によって、ドイツはたくさんの大切な土地を失いました。その中でも特に有名なのが「アルザス・ロレーヌ地方」「ザール地方」、そして「ポーランド回廊(かいろう)」です。
アルザス・ロレーヌはフランスに返され、ザール地方は国際連盟の管理下に置かれました。ポーランド回廊は、ドイツの本土を東西に分断する形になり、ドイツ人にとってはとても大きなショックでした。
このような領土の損失により、ドイツは資源や工業地帯を失い、経済的にも大打撃を受けました。さらに、故郷を失った人々の怒りや悲しみも積み重なり、国民の不満がどんどん高まっていったのです。
ドイツの軍備制限がひどかった理由
ベルサイユ条約では、ドイツの軍隊をとても小さくするよう命じられました。陸軍はたった10万人まで、海軍も小さくされ、空軍や潜水艦は一切持つことができなくなったのです。
さらに、徴兵制(ちょうへいせい)も禁止され、ラインラントという重要な地域は「非武装地帯」とされました。つまり、敵が攻めてきてもドイツはそこに兵士を置けない決まりになったのです。
これによって、ドイツは「自分たちの国を守れない」と感じ、多くの人が不安を抱きました。軍人だった人たちも職を失い、社会全体が混乱しました。安全を守る力を奪われたことで、ドイツの国民感情はさらに悪化していったのです。
ベルサイユ条約の賠償金がドイツ経済を破壊した理由
ベルサイユ条約では、ドイツが戦争の賠償金として、1320億金マルク(現在の約200兆円!)を支払うよう求められました。これは当時のドイツにとって、到底払えるような金額ではありませんでした。
支払いのためにドイツ政府はお金を大量に刷り、結果として「ハイパーインフレ」が起きました。パン1個買うのに何億マルクも必要になるなど、国民の生活はめちゃくちゃになったのです。
仕事を失う人が増え、物価は毎日上がり続け、人々の暮らしは地獄のような状態になりました。こうして経済の混乱が広がり、「この苦しみはベルサイユ条約のせいだ!」という声が強まっていきました。
ヴェルサイユ条約がドイツ国民に与えた心理的影響
ドイツ国民が特に傷ついたのは、条約によって「自分たちがすべて悪かった」と決めつけられたことです。戦争はドイツだけの責任ではなかったのに、条約ではドイツにすべての罪をかぶせたのです。
さらに、条約の内容はドイツ側には話し合う余地がなく、一方的に「これを受け入れなさい」と押しつけられました。このため、ドイツ人のあいだでは「これは平和条約ではなく、命令された文書だ(ディクタート)」という怒りの声が広まりました。
この怒りや屈辱の感情は、のちにナチス党やヒトラーが「ドイツを取り戻そう!」という主張で支持を集める土台となっていったのです。
ベルサイユ条約はひどい!第二次世界大戦の原因となった理由
ベルサイユ条約はただドイツを苦しめただけではありません。その後の世界を大きく変えてしまったのです。特に注目すべきは、この条約が第二次世界大戦の「火種(ひだね)」になってしまったことです。
なぜベルサイユ条約が、もう一度大きな戦争を引き起こすきっかけになったのでしょうか?詳しく見ていきましょう!
不公平さがヒトラーの台頭を助けた理由
ベルサイユ条約のあまりにも不公平な内容は、ドイツ国民に強い怒りと失望を生みました。そんなとき、「この不公平な条約を見直そう!」と訴えたのが、ナチス党を率いるアドルフ・ヒトラーです。
ヒトラーは、「ドイツは悪くない」「ドイツを取り戻そう」と叫び、多くの国民の心をつかみました。特に経済的に苦しんでいた人たちは、彼の強い言葉に希望を見いだし、ナチス党を支持するようになったのです。
つまり、ベルサイユ条約があまりにひどかったために、それを利用して支持を集めることができたヒトラーが、政権を取る土台を築けたのです。
戦争責任条項とその不正義がドイツを激怒させた理由
ベルサイユ条約の中には、「戦争はすべてドイツの責任」とする戦争責任条項(第231条)がありました。これはドイツにとって最大の屈辱であり、国内では「なぜ自分たちだけが悪者なのか」と怒りが広がりました。
実際には、第一次世界大戦の原因は複雑で、ドイツだけに責任があるわけではありませんでした。しかし、この条項があったことで、賠償金や領土の割譲、軍備の制限といったすべての厳しい条件を押しつける根拠となってしまったのです。
この「不正義」がドイツ人の心に火をつけ、「いつか見返してやる」という感情が国全体に広がり、ヒトラーのような強硬なリーダーが支持されるようになったのです。
ナチス政権の再軍備とヴェルサイユ条約破棄の経緯
ヒトラーが政権を握ったあとは、すぐにベルサイユ条約の内容を破る動きが始まりました。まず行われたのが「再軍備(さいぐんび)」です。つまり、もう一度強い軍隊を持とうとしたのです。
そして1936年には、フランスとの国境にあるラインラントにドイツ軍を進め、非武装地帯のルールを破りました。この行動に対し、イギリスやフランスは強く反対することができず、ヒトラーは「自分たちはやっていける」と自信を深めていきました。
ベルサイユ条約を破っても何のおとがめもなかったことで、ドイツはどんどん強気になり、最終的には周りの国々を攻めるまでになってしまったのです。
ドイツだけでなくヨーロッパ全体に与えた影響
ベルサイユ条約はドイツだけでなく、ヨーロッパの他の国々にも大きな影響を与えました。たとえば、戦勝国であるフランスやイギリスは、「これでドイツを弱らせられる」と考えましたが、逆に新しい不安を作ってしまいました。
また、イタリアも戦勝国でしたが、ベルサイユ条約であまり得をせず、「勝ったのに報われない」という不満を持ちました。これが後にイタリアでもファシズムが台頭する原因の一つになりました。
つまり、ベルサイユ条約は平和をつくるためのものでしたが、実際には国と国との対立を深め、ヨーロッパ中に不安を広げてしまったのです。
第二次世界大戦の引き金となったヴェルサイユ条約の誤り
結局のところ、ベルサイユ条約は「平和のための約束」であるはずなのに、次の大戦への道を作ってしまいました。その最大の理由は、ドイツに対して厳しすぎる内容だったことです。
条約で失ったものがあまりにも大きく、人々の心に復讐の気持ちを残しました。そして、それを利用したヒトラーが「強いドイツ」を掲げて台頭し、世界は再び戦争の道へ進んでしまったのです。
このように、ベルサイユ条約は「ひどすぎた条約」として歴史に残っています。大切なのは、この歴史から学び、「本当の平和とは何か」を考えることです。
総括:ベルサイユ条約がひどい理由まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- ドイツは一方的に戦争の責任を負わされ、重い処罰を受けた。
- ドイツは広大な領土(アルザス・ロレーヌ、ザール地方など)を失った。
- 軍備が大幅に制限され、防衛すら困難な状況になった。
- 1320億金マルクもの巨額な賠償金により、経済が崩壊した。
- 国民の多くが屈辱と怒りを感じ、「不公平な条約」と考えた。
- その不満がヒトラーとナチスの台頭を助ける結果となった。
- ヒトラーは再軍備と条約破棄を進め、国際社会も止められなかった。
- 条約はフランス・イギリス・イタリアなど他国にも不満を残した。
- 結果として、ベルサイユ条約は第二次世界大戦の引き金となった。
- この失敗から、「本当の平和」とは何かを学ぶことが大切である。