「防人(さきもり)」と聞いて、皆さんはどんなイメージを持ちますか?

「昔の兵士?」「なんだか大変そう…」という印象があるかもしれませんね。実は防人は、古代の日本で国を守るために派遣された兵士のことですが、その生活は驚くほど過酷でした。

無給で働き、食べ物も自分で用意しなければならず、家族と二度と会えないことも…。

今回は、そんな防人について分かりやすく解説します。

防人とは何か簡単に解説!つらいと言われる理由

防人は、飛鳥時代から平安時代にかけて日本を守るために作られた軍事制度です。特に、白村江(はくすきのえ)の戦いで敗れた後、日本は唐や新羅の攻撃に備える必要がありました。

防人とは:簡単に説明すると古代日本の徴兵制度

防人(さきもり)とは、7世紀から10世紀にかけて九州北部を守るために設置された兵士のことです。

当時の日本は、白村江の戦い(663年)で唐と新羅の連合軍に敗北しました。この敗戦によって、日本は唐が攻めてくるかもしれないと考え、九州沿岸の防衛を強化することになりました。

その一環として、東国(現在の関東地方や信濃地方など)から農民を徴兵し、防人として派遣する制度が始まりました。

しかし、防人は戦争のための訓練を受けた兵士ではなく、もともとは農民でした。そのため、突然徴兵された人々は戸惑いながらも国のために戦うことを余儀なくされたのです。

防人の役割:なぜ東国から徴兵されたのか

防人の役割は、九州北部や対馬・壱岐といった場所で、異国からの侵攻を警戒し、防衛することでした。しかし、なぜ遠く離れた東国の農民が選ばれたのでしょうか?

その理由の一つは、「東国の農民は体が大きく、屈強だった」と言われているからです。実際に、東国は寒冷な気候で、農作業も厳しいため、鍛えられた肉体を持つ人が多かったのです。

もう一つの理由は、「朝廷が東国の力を弱めるため」とも考えられています。当時の東国は、中央政府(朝廷)にとって、独立した力を持つ地域でした。そこで、強い若者を九州に送り、東国の力を削ぐ目的もあったのではないかと考えられています。

防人がつらいと言われる理由:ブラック労働の実態

防人の生活は、今でいう「ブラック労働」そのものでした。

まず、給料は一切もらえませんでした。それどころか、装備や食糧も自費で用意しなければならず、九州に向かうための移動費まで自分で負担する必要がありました。さらに、防人の任期は3年とされていましたが、実際には延長されることも多く、いつ帰れるか分からない状況でした。

それだけではありません。

防人として徴兵された農民は、自分が九州に行っている間も、地元での税を払い続けなければなりませんでした。つまり、「国のために戦っているのに、家族はその間も重い税を払わなければならない」という、とても理不尽な制度だったのです。

さらに、3年の任期を終えても、帰るための食糧やお金は支給されず、自力で帰らなければならなかったため、帰途で力尽きてしまう人も多かったのです。

防人の生活とは?どんな過酷な日々を送っていたのか

防人として九州に派遣された人々は、現地でどんな生活をしていたのでしょうか?彼らの生活はとても過酷でした。

まず、住む場所は簡素な兵舎のようなもので、夏は暑く冬は寒い環境でした。食事も粗末で、基本的には自分たちで狩りや漁をして食料を調達しなければなりませんでした。武器や防具は自費で用意する必要があり、まともな武器を持てない人も多かったようです。

また、家族との連絡手段がなかったため、3年間(もしくはそれ以上)一度も家族と会えないこともありました。そのため、防人の間では、家族への想いを和歌にして詠む文化が広まったのです。

防人の消滅!なぜ制度はなくなったのか

では、こんなに過酷だった防人の制度は、なぜ廃止されたのでしょうか?

一つの大きな理由は、平安時代になると武士が台頭し、国防の主力が変わったからです。防人はあくまで徴兵された農民でしたが、武士は戦うことを生業とする職業軍人でした。そのため、戦闘能力の高い武士が各地で活躍するようになり、防人の必要性が低くなっていったのです。

さらに、1019年に起こった「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」では、九州の武士団が外国の侵略者を撃退しました。これによって、国防の中心が武士に移り、防人の制度は廃止されました。

防人とは何か簡単に歌に込められた悲しみを紐解く

防人たちは、国の命令によって故郷を離れ、厳しい環境での生活を強いられました。しかし、彼らはただ耐えていたわけではありません。防人たちの気持ちは「防人の歌」として、多くの和歌に残されています。

防人の歌とは?なぜ和歌に思いを託したのか

防人の歌とは、防人として徴兵された人々やその家族が詠んだ和歌のことです。これらの和歌は『万葉集』に100首以上収録されています。防人たちは、長い旅や戦いの不安、家族への想いを詠み、和歌という形で自分たちの気持ちを残しました。

なぜ防人たちは和歌を詠んだのでしょうか?

それは、当時の人々にとって和歌が「言葉で思いを伝える手段」だったからです。文字が普及していなかった時代、和歌は人の気持ちを表現し、記憶に残すための大切な方法でした。

特に防人たちは、家族に対する愛情や、未来への不安を和歌に託し、それを伝えようとしたのです。

防人の歌の代表作!最も有名な和歌を紹介

防人の歌には、いくつか特に有名なものがあります。その中でも、次の和歌は多くの人の心に残るものです。

わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて よに忘らえず
(私の妻は、私をとても恋しく思っているのだろう。水を飲むと、その水面にさえ彼女の姿が映って見えるので、決して忘れられない。)

この歌は、遠く離れた妻を思う気持ちを詠んだものです。長い防人の生活の中で、妻のことを想い続ける切なさが伝わってきますね。

また、家族との別れの悲しみを詠んだこんな歌もあります。

韓衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして
(母のいない子どもたちが、私の着物の裾にしがみついて泣いている。それを残して、私は防人として旅立たなければならない。)

この歌からは、幼い子どもを残して戦地へ向かう父親の辛い気持ちが伝わってきます。防人たちは、ただ命令に従って戦っていたわけではなく、家族を愛する一人の人間として、深い悲しみを抱えていたことが分かります。

語呂合わせで覚える!防人に関する歴史のポイント

防人の歴史を簡単に覚えるために、語呂合わせをいくつか紹介します!

「ムム、怖い!防人設置」(664年:防人が設置された年)
→ 「ムム(66)怖い(4)」で「664年」と覚えましょう。白村江の戦い(663年)の翌年、日本は防衛を強化するために防人制度を設置しました。

「なごむな、兵士はつらいぞ」(757年:東国からの徴兵が廃止)
→ 「なごむ(757)」で「757年」と覚えましょう。この年、東国の人々の徴兵が廃止され、九州の人々が防人として選ばれるようになりました。

語呂合わせを活用すると、歴史の年号や出来事が簡単に覚えられます。ぜひ試してみてくださいね!

現代の「防人」とは?どんな職業が該当するのか

「防人(さきもり)」という言葉は、現代でも使われることがあります。現在では、自衛隊や警察官、消防士など、国や地域を守る仕事をしている人を「現代の防人」と呼ぶことが多いです。

特に、自衛隊は日本の安全を守るために活動しており、九州や沖縄などの国防に関わる仕事をする人たちは、まさに古代の防人に近い存在です。また、警察官や消防士も地域の治安や安全を守る役割を担っているため、広い意味での「防人」と言えるでしょう。

さらに、最近では、医療従事者や災害救助に関わる人々も「防人」と称されることがあります。日本の安全と平和を守るために働く人々に対して、防人の精神が受け継がれているのかもしれませんね。

防人の歴史から学ぶ!今に生かせる教訓とは?

防人の歴史から、私たちは何を学ぶことができるのでしょうか?防人制度は、当時の政府による徴兵制度でしたが、その厳しさから多くの人々が苦しみました。しかし、防人たちが詠んだ和歌は、千年以上経った今でも私たちの心に響きます。

この歴史から学べることは、「命の大切さ」と「家族の絆」です。戦争や国防のために多くの人が犠牲になることの重みを知り、平和な社会を築くことの大切さを考えさせられます。また、防人の和歌に込められた家族への想いは、どの時代にも共通するものです。

私たちは歴史から学び、過去の過ちを繰り返さないようにすることが重要です。そして、防人たちが残した言葉から、人と人とのつながりを大切にする心を持つことが大切なのではないでしょうか。

総括:防人とは何か簡単に解説のまとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

防人とは?

  • 7世紀から10世紀にかけて九州北部を守るために派遣された兵士のこと。
  • 日本が白村江の戦い(663年)で敗れた後、唐や新羅の攻撃に備えるために設置。
  • 主に東国(関東地方・信濃地方など)の農民が徴兵された。

防人の役割

  • 九州北部・対馬・壱岐などで異国の侵攻を警戒し、防衛する。
  • 東国の農民が体が屈強であったことや、朝廷が東国の力を弱める目的で徴兵。

防人がつらいと言われる理由(ブラック労働)

  • 無給:給料がなく、装備や食料も自費負担。
  • 重い負担:徴兵中も地元の税金を払い続ける必要があった。
  • 帰れない:任期は3年だったが、延長されることもあり、帰る費用や食料も支給されなかった。
  • 帰途で餓死者も発生:自力で帰還するしかなく、途中で命を落とす者も多かった。

防人の生活

  • 粗末な兵舎で生活し、食糧は自分で調達。
  • 家族と連絡が取れず、会えないまま亡くなる人もいた。
  • 生活の厳しさから、家族への思いを「和歌」に残す文化が生まれた。

防人の制度がなくなった理由

  • 武士の台頭:平安時代に入り、戦闘を専門とする武士が国防の中心となる。
  • 1019年の刀伊の入寇(といのにゅうこう):九州の武士団が外国の侵攻を撃退し、防人の必要性が低下。

防人の歌(和歌)とは?

  • 防人やその家族が詠んだ和歌が『万葉集』に100首以上収録。
  • 代表的な歌:「わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて よに忘らえず」→ 遠く離れた妻を想い、悲しみを詠んだもの。