今回は「加藤高明(かとうたかあき)」という政治家について、分かりやすく解説します。学校のテストや調べ学習にも役立つ内容ですので、ぜひ最後まで読んでくださいね。
「加藤高明ってどんなことをした人?」という疑問に答えるために、彼の代表的な功績である「普通選挙法」と「治安維持法」の2つを中心に見ていきましょう。
また、どんな生き方をしたのか、どんな最期だったのかもやさしく紹介していきます!
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加藤高明は何した人か簡単に!普通選挙法と治安維持法
加藤高明は、日本の民主主義の発展と社会秩序を守るために重要な政策を推進した政治家です。特に「普通選挙法」と「治安維持法」の制定により、政治と社会に大きな影響を与えました。ここでは、加藤高明の政治家としての功績とその背景について、わかりやすく解説します。
普通選挙法を成立させた総理大臣
加藤高明のいちばん大きな功績は、「普通選挙法(ふつうせんきょほう)」を作ったことです。これは、1925年(大正14年)に成立した法律で、それまで選挙で投票できるのは「たくさん税金を納めている男性」だけでしたが、この法律によって「25歳以上のすべての男性」が投票できるようになりました。
つまり、今でいう「大人の男性なら誰でも投票OK!」という時代になったわけです。このことで、選挙に参加できる人の数が大きくふえ、それまでの約300万人から約1240万人へと約4倍になったのです。
この普通選挙法は、日本にとって「民主主義(みんしゅしゅぎ)」が進んだ証(あかし)でした。ただし、まだ女性は投票できなかったので、完全な平等とは言えません。でも、この法改正が、日本の政治をもっとみんなの手に近づけた大きな第一歩だったことは間違いありません。
治安維持法を制定:思想弾圧の道を開く
加藤高明は、普通選挙法と同じ1925年に「治安維持法(ちあんいじほう)」という法律も作りました。これは、政府に反対する思想や運動を取りしまるための法律です。
当時、日本では社会主義(しゃかいしゅぎ)や共産主義(きょうさんしゅぎ)という考え方が広まりつつありました。これらは「すべての人が平等であるべき」という考えに基づいていて、政府や天皇の力を弱めてしまうかもしれないと心配されていたのです。
そのため加藤高明の内閣は、「国の安全を守るためには、そうした思想を取りしまらなければいけない」と考え、治安維持法を作りました。
でもこの法律は、あとになって「言いたいことも言えない」「自由に考えることもできない」という社会を生む原因となってしまいました。多くの人がこの法律で捕まり、中には拷問(ごうもん)や死亡する人もいたのです。
このように、治安維持法は「必要なものだった」と評価する人もいれば、「自由をうばう法律だった」と批判する人もいて、今でも意見がわかれるポイントです。
護憲三派内閣を率いた調整型の政治家
加藤高明が総理大臣になったのは、1924年(大正13年)のことです。そのとき、日本では「護憲三派(ごけんさんぱ)内閣」という新しい形の政権ができました。
護憲三派というのは、次の3つの政党が協力したグループです。
- 憲政会(けんせいかい)…加藤高明がリーダー
- 立憲政友会(りっけんせいゆうかい)…高橋是清(たかはしこれきよ)
- 革新倶楽部(かくしんくらぶ)…犬養毅(いぬかいつよし)
この3つの党が手を取り合ってできたのが「護憲三派内閣」です。名前にある「護憲(ごけん)」とは、「憲法を守る」という意味で、つまり「国民の声を大切にする政治をしよう!」というスローガンでした。
加藤高明は、この3党をまとめる調整役(ちょうせいやく)として活躍しました。性格はおだやかで話し合いを大切にするタイプだったため、バラバラな意見の政党をうまくまとめて、大きな政治改革を実現したのです。
外交官・三菱顧問としても活躍:政財界をつないだ人物
政治家になる前の加藤高明は、外交官(がいこうかん)としても活躍していました。若いころは外務省で働き、イギリスの公使(こうし)としても海外で日本を代表する仕事をしていたのです。
また、彼は「三菱財閥(みつびしざいばつ)」とも深い関係がありました。三菱財閥は、日本の大企業の1つで、船や鉄道、銀行などさまざまな事業をしていました。加藤はその三菱の「顧問(こもん)」として経済にも関わっていたのです。
外交でも経済でも力を発揮した加藤高明は、「政界(せいかい)と財界(ざいかい)をつなぐ橋渡し役」として信頼されました。とくに第一次世界大戦後には、パリ講和会議に参加し、日本の発言力を世界に広めることに成功しました。
このように、政治だけでなく、国際的な場や経済の分野でも貢献した、バランスのとれた人物だったのです。
死因は急性肺炎:任期中に死亡
加藤高明は、総理大臣として大きな改革を成しとげましたが、その任期中に病気になってしまいます。
1926年1月、病名は「急性肺炎(きゅうせいはいえん)」でした。
病気の進行は早く、入院からわずか数日後に亡くなってしまいました。66歳でした。総理大臣として任務の途中で亡くなったため、後任には若槻礼次郎(わかつきれいじろう)が就任することになりました。
加藤が生きていれば、今後どんな改革をしてくれたのか――そんなことを思う人も多かったそうです。治安維持法と普通選挙法という大きな法律を残しながら、その後の行方を見届けることなくこの世を去ったのです。
加藤高明の死は、日本の政治にとっても大きな節目となりました。
加藤高明は何した人か簡単に:エピソードや退陣理由
ここまでは、加藤高明がどんな法律を作ったのか、どんな生涯だったのかを見てきましたね。ここからは、彼が残した具体的な功績、ちょっとおもしろいエピソード、そしてどうして退陣したのかをくわしく見ていきましょう。
日本の民主化に大きく貢献
加藤高明のいちばん大きな功績は、なんといっても「普通選挙法」を作ったことです。この法律によって、25歳以上のすべての男性に選挙権が与えられ、日本の民主主義がグッと前に進みました。
それまで選挙に参加できる人は、お金持ちの男性だけでした。つまり、「税金をたくさん払っている人」だけに投票の権利があったのです。
でも加藤高明の時代になると、国民のあいだで「もっとみんなが政治に参加できるようにしてほしい!」という声が高まります。こうして誕生したのが普通選挙法です。
女性にはまだ選挙権がなかったので、「完全な民主化」とは言えませんが、この法律は、日本の政治を大きく変えた第一歩でした。そして、戦後には女性にも選挙権が与えられ、今のような選挙制度へとつながっていったのです。
国家体制を守ろうとした
もうひとつ、加藤高明がしたこととして忘れてはいけないのが、「治安維持法」の制定です。これは、共産主義や社会主義などの急進的な運動から国を守るために作られた法律でした。
このころ、ロシア革命の影響もあって、日本でも「みんな平等な社会を作ろう!」という運動が広がっていました。でも政府は、それが天皇中心の国の仕組みを壊してしまうかもしれないと心配したのです。
そこで加藤高明は、国の安定と秩序を保つために治安維持法を作りました。
この法律には、「国家の安全を守るためには必要だった」という意見もありますが、反対に「自由や言論を抑えるために使われた」という批判も多くあります。
このように、治安維持法は今でも賛否が分かれる法律であり、戦前の日本を考えるうえで重要なポイントとなっています。
三菱の支援を受けて政界に進出
加藤高明は、政治だけでなく経済の世界でも活躍していました。実は彼、あの「三菱財閥(みつびしざいばつ)」から大きな支援を受けていたんです。そのきっかけは、三菱の創始者・岩崎弥太郎(いわさきやたろう)の弟の娘と結婚したこと。つまり、三菱の一族と「親戚関係」になったんですね。
この縁もあって、加藤高明は三菱の顧問として経済のアドバイスをしたり、三菱から支援を受けて政界に進出したりしました。
当時の日本では、「財界」と「政界」が深く結びついていたので、こうしたつながりはとても重要でした。その反面、「財閥にばかり頼っていていいのか?」という批判もあったようです。
パリ講和会議に参加し外交面でも功績を残す
政治家としてだけでなく、加藤高明は外交官(がいこうかん)としてもすばらしい活躍をしていました。とくに有名なのが「パリ講和会議」への参加です。この会議は、第一次世界大戦が終わったあとに行われた世界的な会議で、各国が集まって「これからどう世界を平和にするか」を話し合いました。
加藤高明は日本代表としてこの会議に出席し、日本の立場をしっかりと主張しました。日本は、列強の一員としての地位を確立したいと考えていたので、この会議はとても重要な場だったのです。
加藤はこの会議での交渉をうまくまとめ、日本が「国際連盟(こくさいれんめい)」という新しい平和の組織に入る流れを作りました。このように、加藤高明は国内だけでなく、海外との関係でも日本に貢献した人だったのです。
退陣理由は病死によるもの
最後に、加藤高明がどうして総理大臣をやめたのか、その理由をお話しします。
加藤高明の退陣理由は「病気による死亡」です。政争(せいそう)や失敗で辞めたわけではありません。1926年1月に肺炎(はいえん)をわずらい、そのまま亡くなってしまったのです。
病状が悪化する中でも、政治家としての責任を最後まで果たそうとする姿は、多くの人の心に残りました。退陣後の後任には、若槻礼次郎(わかつきれいじろう)が選ばれ、加藤の政策を引き継ぎました。
もし加藤高明がもう少し長く生きていたら、さらにどんな改革をしてくれたのか――そんな思いを残して、彼は歴史の舞台から去ったのです。
総括:加藤高明は何した人か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 加藤高明(かとうたかあき)は日本の総理大臣で、「普通選挙法」と「治安維持法」を制定した人物です。
- 普通選挙法により、25歳以上のすべての男性に選挙権が与えられ、民主化が大きく進みました。
- 治安維持法は共産主義などの思想を取りしまる法律で、言論の自由を制限する結果となり、今でも評価が分かれています。
- 加藤は憲政会・政友会・革新倶楽部の連立「護憲三派内閣」の調整役として、政党政治を進めました。
- 三菱財閥とつながりがあり、外交官や顧問としても活躍し、政財界の橋渡し役を務めました。
- 第一次世界大戦後のパリ講和会議に出席し、日本の国際的立場の強化にも貢献しました。
- 1926年に急性肺炎で病死し、任期途中で亡くなりました。退陣理由は病気によるものです。
- 彼の功績は、日本の民主主義の発展と、国家秩序の維持に大きな影響を与えました。
