今日は、日本の歴史の中でもとても大切な「飛鳥時代」についてお話しします。飛鳥時代は、仏教が広まり、天皇を中心とした政治が始まった時代です。

聖徳太子、大化の改新、白村江の戦い、大宝律令など、テストによく出る出来事がたくさんあります。

でも、「年号が多すぎて覚えられない!」という声をよく聞きます。

そこで今回は、飛鳥時代の年表を分かりやすくまとめ、語呂合わせも交えながら解説します!最後まで読めば、歴史がスッキリ分かるようになりますよ。

飛鳥時代の年表一覧と重要な出来事

飛鳥時代は、日本の歴史の中で大きな変化が起こった時代です。今までの豪族中心の政治から、天皇が国をまとめる「中央集権国家」が作られ始めました。

ここでは、飛鳥時代の年表を表形式でまとめ、その後に時代ごとの重要な出来事を詳しく解説します。

飛鳥時代の年表(592年~710年)

まずは、飛鳥時代の年表を見てみましょう。

西暦できごと
592年崇峻天皇が暗殺され、推古天皇が即位(日本初の女帝)
593年聖徳太子が推古天皇の摂政になる
603年冠位十二階を制定(能力に応じた役職を決める制度)
604年十七条の憲法を制定(役人の心構えを示す)
607年小野妹子を遣隋使として派遣
645年乙巳の変(蘇我氏を倒す)→大化の改新
663年白村江の戦い(日本が唐・新羅連合軍に大敗)
672年壬申の乱(天智天皇の死後の後継者争い)
701年大宝律令の制定(日本最初の本格的な法律)
710年平城京に遷都→奈良時代へ

この年表をしっかり覚えておくことが、飛鳥時代を理解する第一歩です。

聖徳太子と推古天皇の時代(592年~622年)

飛鳥時代といえば、まず思い浮かぶのが聖徳太子です。彼は推古天皇を助けて、さまざまな改革を行いました。

聖徳太子と推古天皇の時代(592年~622年)年表

西暦出来事内容
592年推古天皇が即位日本初の女性天皇として即位し、飛鳥時代が本格的に始まる
593年聖徳太子が摂政となる推古天皇を補佐し、政治の中心人物となる
603年冠位十二階の制定家柄ではなく能力に応じて出世できる仕組みを作る(12段階の位を設置)
604年十七条の憲法の制定「和をもって貴しとなす」で有名な、政治の心得を示す憲法
607年遣隋使の派遣小野妹子を隋に派遣し、「日出ずる処の天子」の国書を送る
608年隋の使者、裴世清(はいせいせい)が来日日本と隋の外交関係が築かれる
620年『天皇記』『国記』の編纂日本最初の歴史書の制作が始まる(現存せず)
622年聖徳太子が没する聖徳太子(厩戸皇子)が49歳で亡くなる

この時代は、仏教の受容や政治改革が進み、日本の礎が築かれた重要な時期です。

①冠位十二階の制定(603年)

この制度は、「家柄ではなく、能力に応じて出世できる仕組み」を作るものでした。12段階の位があり、色付きの冠をかぶってランクが分かるようになっていました。

②十七条の憲法の制定(604年)

「和をもって貴しとなす」で有名な憲法です。今でいう法律というよりも、「政治をする上での心得」をまとめたものでした。

③遣隋使の派遣(607年)

当時の中国(隋)と日本の関係を深めるため、小野妹子を派遣しました。隋の皇帝に送った手紙には、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と書かれており、中国に対等な立場であることを示しました。

大化の改新と乙巳の変(645年)

聖徳太子の死後、再び蘇我氏が権力を持つようになりました。特に蘇我入鹿は天皇の権力を無視して政治を動かしていました。

大化の改新と乙巳の変(645年)年表

西暦出来事内容
645年乙巳の変(いっしのへん)中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)が、宮中で蘇我入鹿を討ち取る。蘇我氏の独裁が終焉を迎える
646年大化の改新が始まる豪族の力を弱め、天皇中心の政治を確立する改革が行われる
646年改新の詔(かいしんのみことのり)が発布政治改革の基本方針が示される
646年公地公民制の導入土地と人民を天皇のものとし、豪族の私有を禁止する
646年班田収授法の制定戸籍を作成し、6歳以上の男女に土地(口分田)を割り当てる
646年租庸調制の導入収穫物や布、特産品などを税として納める制度を作る
646年地方制度の整備全国を「国・郡・里」に分け、それぞれに役人を配置する

大化の改新によって、日本は豪族による支配から脱し、天皇を中心とする中央集権国家へと進み始めました。これが後の律令制度につながる重要な一歩となりました。

①乙巳の変(いっしのへん)

645年、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)が、宮中で蘇我入鹿を討ち取りました。これによって、約50年続いた蘇我氏の支配が終わりました。

②大化の改新(646年)

乙巳の変の後、孝徳天皇のもとで「大化の改新」が始まりました。この改革では、天皇が中心となる政治体制を作るために、次のような制度が定められました。

白村江の戦いと国防強化(663年)

飛鳥時代の後半、日本は朝鮮半島での戦いに巻き込まれました。

白村江の戦いと国防強化(663年)年表

西暦出来事内容
660年百済滅亡新羅と唐の連合軍が百済を攻撃し、滅亡させる
661年日本、百済の復興を支援日本は百済再興を目指し、百済の王子・豊璋(ほうしょう)を百済へ派遣
662年日本、百済に軍を派遣阿倍比羅夫(あべのひらふ)らが日本軍を率い、百済へ渡る
663年白村江の戦い日本と百済の連合軍が唐・新羅軍と白村江(はくそんこう)で戦い、大敗する
664年防人(さきもり)の配置対馬・壱岐・筑紫に防人を配置し、国境警備を強化
664年水城(みずき)の築造太宰府周辺に防御用の堤防(水城)を築く
665年九州に防衛拠点を設置大宰府を九州の軍事・政治の拠点とし、防衛を強化
667年都を近江大津宮(滋賀県)に遷都外敵に備え、難波宮(大阪)から近江大津宮へ都を移す
668年天智天皇が即位中大兄皇子が天智天皇として即位し、国防政策を推進

白村江の戦いの敗北は、日本にとって大きな衝撃でした。この戦いをきっかけに、都の移転や防人の配置など、国を守るための取り組みが始まりました。

これが、後の律令国家の軍事制度につながっていきます。

①白村江の戦い(663年)

朝鮮半島の百済が新羅と唐の連合軍に攻められ、日本は百済を助けるために出兵しました。しかし、日本と百済の連合軍は唐・新羅の軍に大敗し、日本は朝鮮半島から撤退しました。

②国防強化

白村江の戦いでの敗北後、日本は大急ぎで防衛を固めました。

壬申の乱と天武天皇の改革(672年)

天智天皇の死後、皇位継承をめぐって内乱が起こりました。

壬申の乱と天武天皇の改革(672年)年表

西暦出来事内容
671年天智天皇が崩御天智天皇が亡くなり、息子の大友皇子が皇位を継ぐ
672年壬申の乱が勃発大海人皇子(天武天皇)が吉野から挙兵し、大友皇子と対立
672年大海人皇子軍が勝利大友皇子は敗れ、近江で自害(壬申の乱が終結)
673年天武天皇が即位飛鳥浄御原宮で即位し、天皇の権力を強化する改革を開始
675年飛鳥浄御原令の編纂開始律令制度のもととなる法律を整備し、国家の仕組みを作る
684年八色の姓(やくさのかばね)の制定豪族の身分制度を再編し、天皇に忠誠を誓う仕組みを強化
686年天武天皇が崩御妻の持統天皇が政治を引き継ぐ
694年藤原京の建設開始持統天皇が藤原京を本格的な都として整備

壬申の乱は、日本で初めての本格的な皇位継承争いでした。この戦いに勝利した天武天皇は、天皇の権力を強化し、律令制度の基礎を築く改革を進めました。これにより、日本は中央集権国家として発展していきました。

①壬申の乱(672年)

天智天皇の息子・大友皇子と、天智天皇の弟・大海人皇子(のちの天武天皇)が対立しました。結果として、大海人皇子が勝ち、天武天皇として即位しました。

②天武天皇の改革

天武天皇は、中央集権国家をさらに強化するために次のような政策を進めました。

飛鳥時代の年表一覧の後に:文化と社会の変化

飛鳥時代は、政治だけでなく文化の面でも大きな発展がありました。仏教の広まりや、寺院建築、法律の整備など、後の時代に影響を与える変化がたくさん起こりました。ここでは、飛鳥文化の特徴や、大宝律令、平城京への遷都などについて解説します。

飛鳥文化とは?仏教とともに発展した文化

飛鳥時代の文化を「飛鳥文化」と呼びます。この時代の文化の特徴は、仏教の影響を大きく受けていることです。聖徳太子の時代から、仏教が政治や人々の暮らしに深く関わるようになりました。

①仏教と寺院の発展

飛鳥時代には、仏教を広めるために多くの寺が建てられました。代表的な寺院は次のとおりです。

  • 飛鳥寺(596年建立):日本で最初に建てられた本格的な仏教寺院。
  • 四天王寺(593年建立):聖徳太子が建立した寺院のひとつ。
  • 法隆寺(607年完成):現存する世界最古の木造建築で、聖徳太子が建立。

これらの寺には、仏像や壁画があり、当時の仏教美術の特徴を知ることができます。

②仏教伝来による影響

仏教が広まったことで、死後の世界や道徳の考え方が変わりました。また、お経を写す写経が流行し、書道や紙の文化が発展しました。特に、仏教の教えをもとにした十七条の憲法(604年制定)は、仏教が政治に影響を与えた代表的な例です。

大宝律令の制定(701年)

飛鳥時代の終わり頃、日本は本格的な法律を作る必要に迫られていました。そこで、701年に「大宝律令(たいほうりつりょう)」が制定され、日本初の本格的な律令国家が誕生しました。

①大宝律令とは?

「律」は犯罪に対する罰則のルール、「令」は政治や行政の仕組みを決める法律のことです。大宝律令のポイントは以下のとおりです。

  • 天皇を中心とした国家体制を確立
  • 二官八省制(政府の組織)が導入される
  • 地方行政の整備(国・郡・里に分ける)
  • 税制度の確立(租庸調制)

②大宝律令による変化

この法律ができたことで、日本の政治は大きく変わりました。地方にも役人が置かれ、税金を集める仕組みが整いました。これによって、日本全体がひとつの国としてまとまり始めたのです。

平城京への遷都(710年)と飛鳥時代の終わり

710年、元明天皇は飛鳥から奈良の平城京に都を移しました。これにより、飛鳥時代は終わり、新しく奈良時代が始まります。

①なぜ都を移したのか?

飛鳥時代の都は宮ごとに移動する「遷都(せんと)」が繰り返されていました。しかし、政治を安定させるためには、ひとつの場所に都を固定する必要がありました。そこで、唐の都・長安にならい、碁盤の目のように整った平城京が作られたのです。

②平城京の特徴

  • 碁盤の目のような都市計画
  • 大仏建立の準備が始まる
  • 人口が増え、商業が発展

平城京への遷都によって、日本はさらに発展し、新たな文化が生まれる時代へと進んでいきました。

飛鳥時代を覚える語呂合わせ

飛鳥時代はテストによく出る時代ですが、年号がたくさんあるため、覚えるのが大変です。そこで、語呂合わせを使って効率よく覚えましょう!

  • 593年(推古天皇即位):「ごくみ(593)、推古が女帝に」
  • 604年(十七条の憲法):「群れよ(604)、官僚よく聞け十七条」
  • 607年(遣隋使):「群れな(607)す遣隋使、小野妹子」
  • 645年(大化の改新):「蒸し(645)米食べて大化の改新」
  • 663年(白村江の戦い):「むむっ(663)惨敗、白村江」
  • 701年(大宝律令):「なれ(701)一流の律令国家」

語呂合わせを使うと、楽しく歴史を覚えられますね!

総括:飛鳥時代の年表一覧まとめ

最後に、もう一度だけ飛鳥時代の年表を残しておきます。

西暦できごと
592年崇峻天皇が暗殺され、推古天皇が即位(日本初の女帝)
593年聖徳太子が推古天皇の摂政になる
603年冠位十二階を制定(能力に応じた役職を決める制度)
604年十七条の憲法を制定(役人の心構えを示す)
607年小野妹子を遣隋使として派遣
645年乙巳の変(蘇我氏を倒す)→大化の改新
663年白村江の戦い(日本が唐・新羅連合軍に大敗)
672年壬申の乱(天智天皇の死後の後継者争い)
701年大宝律令の制定(日本最初の本格的な法律)
710年平城京に遷都→奈良時代へ