お墓には、その人の名前や亡くなった日が刻まれていますが、実は昔の日本では「身分」によってお墓の形が違っていたのです。

特に江戸時代は、武士や商人、農民などの身分制度がはっきりしていて、それが墓石の形にも反映されていました。

では、どのような違いがあったのでしょうか?また、当時のお墓はどんな埋葬方法だったのでしょう?今日は、塾長が分かりやすく解説しますよ!

江戸時代の墓石は身分で違う?身分ごとのお墓の特徴

江戸時代は、武士や町人、農民といった身分ごとに生活の仕方が異なっていました。そのため、お墓の形や大きさ、使われる石の種類なども身分によって大きく変わったのです。

ここでは、江戸時代のお墓の特徴を身分ごとに見ていきましょう。

江戸時代の墓石は身分によって大きく異なる理由とは?

江戸時代は、将軍を頂点とした「身分制度」がありました。武士、町人、農民という大きな階級の違いがあり、それがお墓の形にも反映されていたのです。

例えば、武士のお墓は格式が高く、立派な石が使われました。一方、町人や農民のお墓は小さくてシンプルな形が多かったです。お金持ちの商人は、立派なお墓を建てることもありましたが、基本的には武士の方が格上とされていました。

また、江戸時代は「檀家制度」といって、みんながどこかの寺院の檀家(お寺に所属する家)にならなければならない決まりがありました。そのため、お墓もお寺の敷地内に建てられることが一般的でした。この檀家制度によって、お墓の形が広く定まっていったのです。

武士の墓石は格式が高く、戒名や家紋が刻まれていた

武士のお墓は、一般的に「五輪塔」や「笠塔婆」と呼ばれる形をしていました。五輪塔とは、五つの石を積み重ねた塔のような形をしたお墓で、特に位の高い武士が使っていました。笠塔婆は、細長い石の上に「笠(かさ)」のような部分がある墓石です。

また、武士のお墓には「戒名(かいみょう)」が刻まれていました。戒名とは、亡くなった人に付けられる仏教の名前です。例えば、「○○院殿□□大居士」といった立派な戒名が刻まれていることが多く、これはその武士の地位が高かったことを示していました。

さらに、お墓には家紋(かもん)も刻まれ、どの家の武士なのかが分かるようになっていました。

庶民の墓石は簡素で、板碑や舟形墓標が主流だった

庶民のお墓は、武士のものに比べてとてもシンプルでした。特に「板碑(いたび)」や「舟形墓標(ふながたぼひょう)」といった形が多かったです。

板碑は、平たい石をまっすぐ立てたような形で、あまり装飾がありません。舟形墓標は、石の上部が丸くなっていて、舟の形に似ていることからこの名前が付けられました。

庶民のお墓には、名前と没年月日が刻まれる程度で、家紋や立派な戒名はあまり見られませんでした。また、武士のように大きな敷地を使うことはできず、共同墓地に小さなお墓を建てることが一般的でした。

町人や商人の墓は独自のデザインが多かった?

町人や商人のお墓は、庶民のものより少し豪華な場合もありました。特に成功した商人は、お金をかけて立派なお墓を作ることができました。

例えば、大きな石を使って頑丈に作られた墓石や、特注のデザインを取り入れたものもありました。しかし、基本的には武士よりも格式の低いものとされていました。

また、町人や商人は、商売繁盛を願って「吉祥文字(きっしょうもじ)」を墓石に刻むこともありました。例えば、「福」や「寿」などの縁起の良い漢字を入れることで、死後も家業が繁栄するよう願っていたのです。

農民や村落共同墓の特徴と埋葬方法

農民のお墓は、さらにシンプルなものでした。村には「共同墓地」があり、そこに村人たちのお墓が並んでいました。庶民のお墓と同じく、舟形墓標や板碑が主流でしたが、経済的に余裕のある農家は、個人墓を建てることもありました。

また、埋葬方法も簡素で、村全体でまとめて埋葬されることもあったのです。当時の農民は大きなお墓を建てる余裕がなかったため、墓石の代わりに木の板を立てることもありました。

これを「卒塔婆(そとうば)」といい、死者の供養のために使われました。

江戸時代のお墓の形や埋葬方法の変遷:身分との関係

江戸時代のお墓は、単に身分によって形が違うだけではありませんでした。時代の流れとともに、お墓の形や埋葬方法も変化していったのです。ここからは、江戸時代のお墓の特徴や、どのように埋葬されていたのかを詳しく解説します。

戸時代の葬送文化と墓制の確立

江戸時代になると、日本の葬送文化が大きく変わりました。そのきっかけの一つが「檀家制度(だんかせいど)」です。これは、すべての人が特定の寺院の檀家となり、その寺院で葬儀や供養を行うという制度でした。

この制度によって、ほとんどの人が自分の家の墓を持つようになったのです。

また、江戸時代は仏教が広く信仰され、戒名が一般的になりました。墓石にも戒名を刻むようになり、家族単位でのお墓が増えていきました。都市部では、限られたスペースに多くの墓を建てるため、墓石が縦に長くなる傾向がありました。

墓石の形は時代と共に変化した?

江戸時代の初期までは、墓石の形はあまり統一されておらず、供養塔が一般的でした。

しかし、江戸中期になると、お墓が個人の埋葬場所としての意味を持つようになり、「五輪塔」や「板碑」、「角柱形墓標」などが登場しました。

江戸後期になると、身分に関わらず「角柱形」の墓石が主流になり、現代のお墓に近い形が一般的になりました。特に、家の格式を示すために大きな墓石を建てる家もあり、庶民の間でもお墓の形が多様化していったのです。

江戸時代の埋葬方法は土葬が主流だった?

江戸時代の埋葬方法は、ほとんどが「土葬」でした。現在のように火葬が主流になったのは明治時代以降のことで、江戸時代の人々は亡くなると棺(ひつぎ)に入れられ、そのまま地面に埋められました。

武士や上級武士は「座棺(ざかん)」と呼ばれる、座った姿勢で埋葬される方法がとられることもありました。これは、武士としての威厳を示すためのものでした。

庶民は寝かせた状態で埋葬されることが多く、また、家族墓ではなく、共同墓地にまとめて埋葬されることもありました。

墓石に刻まれた文字や戒名の意味

江戸時代のお墓には、さまざまな文字が刻まれていました。

特に「戒名」は重要な役割を持ち、その人の生前の行いを反映するものでした。例えば、「居士(こじ)」や「大姉(だいし)」といった文字がついていると、ある程度の身分の人であることが分かります。

また、武士のお墓には「院号(いんごう)」がつくことがあり、これは格式の高い人に与えられるものでした。一方、庶民の墓にはシンプルに「信士(しんじ)」や「信女(しんにょ)」といった戒名が刻まれていることが多かったのです。

江戸時代の墓が今も残る「血天井」や文化財とは?

江戸時代のお墓は、今でも日本各地に残っています。特に有名なのが、京都や江戸(現在の東京)の古い寺院にある墓地です。例えば、江戸時代の大名や武士のお墓が今も大切に保存されている場所もあります。

また、戦乱の歴史を伝える「血天井(ちてんじょう)」と呼ばれる文化財もあります。これは、戦で亡くなった武士たちの血で染まった天井のことで、供養のために寺院に移されたものです。

戦国時代から江戸時代にかけての武士たちの生き様が、こうした文化財からもうかがえるのです。

総括:江戸時代の墓石は身分によって違うのかまとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

1. 江戸時代の墓石は身分制度によって異なっていた

  • 江戸時代は「武士・町人・農民」といった身分制度があり、お墓の形や大きさ、素材も身分によって違っていた。
  • 武士は格式の高い墓石を使用し、庶民の墓はシンプルで小さかった。

2. 武士の墓石の特徴

  • 「五輪塔」や「笠塔婆」といった格式の高い墓石が使われた。
  • 戒名(例:「○○院殿□□大居士」)や家紋が刻まれ、家柄を示した。
  • 上級武士は「座棺」という座った姿勢で埋葬されることもあった。

3. 町人や商人の墓石の特徴

  • 基本的に庶民と同じくシンプルな墓石だったが、裕福な商人は大きな墓石を建てることもあった。
  • 「吉祥文字(福・寿など)」を刻み、商売繁盛を願うケースもあった。

4. 農民や庶民の墓石の特徴

  • 「板碑」や「舟形墓標」などの簡素な墓石が多かった。
  • 共同墓地に埋葬されることが一般的で、墓石がない場合もあった。
  • 経済的に余裕がない場合は、木の卒塔婆を立てるだけのこともあった。

5. 江戸時代の埋葬方法

  • 土葬が主流で、火葬が普及するのは明治以降。
  • 共同墓地にまとめて埋葬される庶民が多かった。

6. 墓石に刻まれた文字や戒名の意味

  • 武士:格式の高い「院号」「居士・大姉」などの戒名が刻まれた。
  • 町人・商人:「吉祥文字」や簡単な戒名(信士・信女)が刻まれることが多かった。
  • 農民・庶民:最低限の戒名や名前のみが刻まれるシンプルな墓石が主流だった。

7. 江戸時代の墓が現代に残る例

  • 大名や武士の墓は文化財として保存されているものが多い。
  • 「血天井」など、戦の歴史を伝える文化財が今も残っている。