こんにちは、塾長です!

今回は「サラエボ事件」の犯人として有名なガヴリロ・プリンツィプについて、わかりやすく解説していきます。

彼は第一次世界大戦の引き金を引いたことで有名ですが、どんな人だったのか、なぜそんな行動に出たのか、あまり知られていませんよね。

この記事では、ガヴリロ・プリンツィプの生い立ちから最期、そして現代における評価まで、彼の人物像に深く迫っていきます。では、いってみましょう!

※AmazonのKindle Unlimitedは月額980円ですが、3ヶ月無料期間があります。その間、読み放題対象の電子書籍は全部無料。途中で解約ももちろん自由。そのため、電子書籍が実質0円で読めます。以下に、歴史の語呂合わせに関連する無料書籍を載せておきます。

↓実質無料で読めるおすすめ歴史の読み物↓

著:河合敦, 著:房野史典
¥1,617 (2025/07/04 03:22時点 | Amazon調べ)
著:ぴよぴーよ速報
¥1,529 (2025/07/04 03:24時点 | Amazon調べ)

サラエボ事件の犯人ガヴリロ・プリンツィプとはどんな人か

ガヴリロ・プリンツィプは、サラエボ事件の犯人として歴史に名を刻んだ青年です。彼が犯した暗殺は、第一次世界大戦を引き起こし、世界の運命を大きく変えるきっかけとなりました。

ガヴリロ・プリンツィプはどんな人?生い立ちと若き日の姿を解説

ガヴリロ・プリンツィプは1894年、ボスニアの小さな村に生まれました。家はとても貧しく、父親は郵便配達人でしたが、家族は多くの子どもを抱えながら生活していました。

勉強が好きだったプリンツィプは、幼いころから「もっと学びたい!」という思いを持ち、成績も良かったそうです。青年になると、ボスニアを支配していたオーストリア=ハンガリー帝国に対する不満を強く持つようになりました。

同じスラブ系のセルビアに強いあこがれを持っており、「自分たちの国を取り戻したい!」という強い気持ちを抱くようになっていったのです。

思想と信念|プリンツィプはなぜ過激な行動を選んだのか

プリンツィプは若いころから「自由」と「正義」に強い関心を持っていました。彼は「占領されたままの自分たちの土地を、そのままにしておくわけにはいかない」と考えていたのです。

彼が影響を受けたのは、セルビア人たちの間で広まっていた「ユーゴスラビア」という新しい国をつくろうという思想でした。そのためには、オーストリアに対して何らかの「行動」が必要だと考えるようになったのです。

「自分の命をかけても、民族の未来のために立ち上がるべきだ」――そう信じていたプリンツィプは、次第に過激な考えに傾いていき、ついには暗殺という手段に踏み切ることになります。

関わっていた組織「ヤング・ボスニア」と「ブラックハンド」とは

プリンツィプが参加していたのは「ヤング・ボスニア」という秘密結社でした。これは、オーストリアの支配から脱しようとする若者たちが集まったグループです。

この組織は、「言葉だけでは変わらない、行動しよう」という考えを持ち、時には武力行動も選ぶほどの過激さがありました。

また、ヤング・ボスニアのメンバーたちは、セルビアにある「ブラックハンド」という別の秘密組織ともつながっていました。ブラックハンドは軍の関係者も含まれるテロ組織で、プリンツィプたちに銃や爆弾、訓練を与えていたのです。

つまり、彼の行動の背後には、個人の思いだけでなく、組織的なサポートがあったということです。

プリンツィプの性格や人間像は?証言やエピソードから見える素顔

プリンツィプは、静かで真面目な青年だったといわれています。目立つことは苦手でしたが、自分の考えをしっかり持ち、情熱的な一面がありました。

仲間からは「とてもまじめで誠実」「冗談を言うタイプではないが、信頼できる」と評価されていました。

また、彼は弱い立場の人に優しく接する一方で、「自分の国を守るためには、犠牲もやむを得ない」という強い考えを持っていたのです。そんな彼が、最終的に「歴史を動かす行動」に出たというのは、性格的にもとても複雑な背景があったことがうかがえます。

セルビア人としてのアイデンティティとナショナリズムへの思い

プリンツィプにとって、「自分がセルビア人である」ということはとても大切な意味を持っていました。ボスニア出身でありながら、自分の民族を「セルビア人」と強く意識していたのです。

当時、ボスニアの多くのスラブ人たちは、自分たちの文化や言葉を大切にし、「いつか独立したい」という思いを抱いていました。プリンツィプは、そんな人々の代表のような存在で、「自由な国をつくるために、自分がやらなければならない」と強く思っていたのです。

このようなナショナリズム(民族主義)の高まりが、彼の行動の大きな原動力となっていたのです。

サラエボ事件の犯人ガヴリロ・プリンツィプの最期と評価

ここまでは、ガヴリロ・プリンツィプという青年の生い立ちや思想について解説しました。ここからは、彼が暗殺事件を起こしたあとの運命や、後の人々が彼をどう見たのかについて見ていきましょう。

彼の行動は世界を大戦へと導いた一方で、ある人には「自由のために戦った英雄」とも言われています。果たして真実はどこにあるのでしょうか?

逮捕後のプリンツィプはどうなった?裁判と獄中生活を紹介

サラエボ事件のあと、プリンツィプはその場で取り押さえられ、逮捕されました。実は、彼は事件の直後、自分も拳銃で自殺しようとしましたが、それは失敗に終わりました。

彼はその後すぐに裁判にかけられましたが、当時まだ20歳未満だったため、死刑ではなく懲役20年の刑が言い渡されました。これは当時のオーストリア=ハンガリー帝国の法律に基づいたもので、成人に満たない者への死刑は認められていなかったのです。

彼はチェコにあるテレジン(テレジエンシュタット)という刑務所に送られ、そこで厳しい環境の中、服役生活を送ることになりました。

プリンツィプの死因とは?獄中での苦しみと若すぎた最期

刑務所での生活は、プリンツィプにとってとても過酷なものでした。食事は少なく、寒さや病気にも苦しめられました。しかも、事件後の怒りが収まらない看守たちからは、厳しい扱いを受けていたとされています。

やがて、彼は結核(けっかく)という重い病気にかかり、体はどんどん弱っていきました。さらに、牢屋の中では腕の骨の病気(骨結核)も悪化し、右腕を切断せざるを得なくなったともいわれています。

プリンツィプは、1918年、まだ23歳という若さでこの世を去りました。第一次世界大戦が終わるわずか数か月前のことでした。

その後の評価|国や時代によって分かれるプリンツィプ像

プリンツィプに対する評価は、時代や国によって大きく異なります。オーストリアや西ヨーロッパの人々から見れば、彼は「テロリスト」であり、平和を壊した悪人とされました。

一方、彼の母国セルビアやユーゴスラビアでは「自由のために立ち上がった若き英雄」として称えられることもありました。サラエボには、彼が立っていた場所に記念碑が建てられ、今もその痕跡を残しています。

時代が変わると評価も変わりますが、それほどまでに彼の行動が歴史に大きな影響を与えた証拠でもあるのです。

暗殺は正義?プリンツィプの行動に対する歴史的議論

プリンツィプの行動が「正義」だったのかどうかについては、今でも議論が続いています。彼の銃弾がきっかけで第一次世界大戦が始まり、たくさんの人が命を落としました。

しかし、彼の目的は「国の独立」と「民族の自由」であり、自分だけの利益のためではありませんでした。そのため、「あの時代の中で、あの若者に他の選択肢はあったのか?」と考える研究者もいます。

ただし、暴力によって解決しようとしたことに対しては、否定的な声も多くあります。どんな目的があっても、人の命を奪うことは許されるのか――それが、私たちが考えるべき大切な問いなのです。

現代に通じる若者の過激思想と社会背景

ガヴリロ・プリンツィプの人生を学ぶことには、いまの時代にも大切な意味があります。彼のように、社会に不満を持った若者が、極端な考えに走ってしまうことは、現代でも起こりうるからです。

その背景には、「自分の意見が無視されている」「社会に居場所がない」といった不安や孤独があります。プリンツィプも、おそらくそんな思いを抱えていたのではないでしょうか。

だからこそ、私たちは「対話」や「教育」の大切さを見直し、暴力に頼らない解決の道を探していくことが必要です。歴史を学ぶことで、いまの社会をよりよくするヒントが見えてくるのです。

総括:サラエボ事件の犯人ガヴリロ・プリンツィプまとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • ガヴリロ・プリンツィプはサラエボ事件の犯人で、第一次世界大戦の引き金を引いた青年。
  • ボスニアの貧しい家庭に生まれ、勉強熱心で正義感の強い性格だった。
  • セルビア民族の独立を願い、ナショナリズムの影響を強く受けていた。
  • 秘密結社「ヤング・ボスニア」や「ブラックハンド」と関係し、暗殺に至った。
  • 真面目で内向的な性格ながら、強い信念と行動力を持っていた。
  • 事件後に逮捕され、未成年のため死刑は免れたが、過酷な獄中生活で病死。
  • 現在でも評価は分かれ、「英雄」とも「テロリスト」とも見られている。
  • 彼の行動は暴力による手段だったが、背景には深い社会的・政治的葛藤があった。
  • 現代の若者にも通じる「孤独」や「社会への不満」といった課題を考えさせる存在。