今日は、千円札でおなじみの「野口英世」の最期について、わかりやすく解説していきます。
野口英世は日本だけでなく、世界でも活躍した細菌学者です。でも、その人生の最後には、自分が研究していた病気「黄熱病(おうねつびょう)」で亡くなってしまいました。
「えっ、自分で研究していた病気にかかって死んだの?」と驚く人も多いでしょう。この記事では、野口英世の死因や最後の様子、そしてその死がどんな意味をもっていたのかを、じっくり解説していきます。
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野口英世の死因は黄熱病!感染経緯や死の真相
野口英世は、黄熱病の研究に命をかけた日本の細菌学者として知られています。彼がどのようにしてその病気に感染し、亡くなったのか、その真相に迫ってみましょう。
野口英世の死因は黄熱病が定説!研究中に自ら感染
野口英世の死因として、最も広く知られているのは「黄熱病」です。黄熱病は、蚊がうつす感染症で、熱や頭痛、内臓の出血などの症状が出るこわい病気です。
英世は、この黄熱病をなくすために、一生懸命研究していました。1927年、アフリカのガーナ(当時のアクラ)に行って、現地で病気の原因を調べていたとき、自分自身が黄熱病にかかってしまったのです。
亡くなった後におこなわれた解剖(かいぼう)でも、肝臓などに黄熱病の特徴があらわれていたことから、「黄熱病が死因」というのが現在では定説になっています。
また、英世先生の血を使った実験で、サルが同じ症状を発症したこともあり、研究中に感染したことが証明されました。
感染経路は?アクラでは流行していなかったのになぜ
でもここで、ひとつの疑問が出てきます。「ガーナではそのとき黄熱病は流行していなかったのに、どうして野口英世はかかったの?」ということです。
実は、英世先生が黄熱病の研究をしていたとき、実験用のサルに病原体を注射して、どんな症状が出るかを調べていました。このとき、使った注射針やメス(手術に使う刃物)で、うっかり自分の手をケガしてしまい、そこからウイルスが体に入ったのではないかと考えられています。
つまり、自然に蚊にさされたのではなく、「研究中の事故」で感染した可能性があるのです。これは現代の研究者にとっても教訓で、「命がけで研究していた」という英世先生の覚悟が伝わってきますね。
「どうも私にはわからない」の意味とは
黄熱病に一度かかると、体に「免疫(めんえき)」ができて、ふつうは二度とかかりません。ですが、英世は以前にも南米エクアドルで黄熱病にかかったことがありました。つまり「一度かかって治っているのに、またかかるなんておかしい」というわけです。
英世先生は、再び熱や痛みにおそわれたとき、「どうも私にはわからない」と言いました。これが、彼の最後の言葉だったと言われています。
この言葉からは、医学を信じ、科学の力を信じてきた英世先生の、困惑(こんわく)や無念さがにじみ出ています。当時の医学では、ウイルスや免疫についての知識が今ほど発達していなかったため、本人にもなぜ再び発症したのかわからなかったのです。
他の死因説を検証!梅毒説や他殺説
黄熱病が定説となっている一方で、「別の病気で亡くなったのでは?」という説も存在します。そのひとつが「梅毒説(ばいどくせつ)」です。これは、英世先生がかつて梅毒という病気の研究をしていたことから生まれたうわさです。
また、陰謀説として「他殺説(たさつせつ)」もあります。これは「英世先生が誰かに黄熱病のウイルスを注射されて殺されたのでは?」という説です。彼の研究をねたんだ人がいたのでは…という想像から生まれました。
しかしこれらの説には、はっきりとした証拠はありません。英世先生の血液を使った実験結果や、解剖の内容から見ても、黄熱病で亡くなったというのが正しいとされています。
野口英世の死が世界に与えた衝撃と功績の影響
野口英世が亡くなったというニュースは、世界中に大きな衝撃を与えました。彼はすでに世界的に有名な研究者で、アメリカのロックフェラー医学研究所の中心人物でもありました。
「自分が研究していた病気で命を落とした」という事実は、新聞や雑誌でも大きく報道され、多くの人の心を打ちました。そして、彼の命がけの研究姿勢は、世界中の医師や科学者たちの尊敬を集めることになりました。
日本では、その功績をたたえて「野口英世記念館」や「野口英世アフリカ賞」などがつくられ、いまも彼の業績は語り継がれています。命をかけて人類のために尽くした英世先生の人生は、たくさんの人に勇気と希望を与えたのです。
野口英世の死因がわかったら:最後の様子や死後の反応
ここからは、野口英世の最期の様子や、その死後にどんな反応があったのかを見ていきましょう。どんな気持ちで亡くなったのか、残された家族や世界の人たちはどう思ったのか——
野口英世という偉人の「最後」を知ることは、彼の生き方をもっと深く理解するヒントになりますよ。
野口英世の最期の様子:発症から死去までの10日間
1928年、アフリカ・ガーナのアクラで黄熱病の研究をしていた野口英世は、突然体調を崩します。熱や頭痛、全身のだるさがあり、自ら「これは黄熱病だろう」と診断しました。
最初は症状が軽く、いったん回復の兆しも見えました。医師たちも「大丈夫そうだ」と感じていたそうです。しかし、その後体調が急激に悪化。黄熱病の症状は一度良くなった後に、再びひどくなるという特徴があるのです。
その後、数日間にわたって熱が続き、体力がどんどん落ちていきました。そして発症から10日後の1928年5月21日、英世先生は51歳の若さで亡くなってしまったのです。
野口英世の最後の言葉
野口英世が亡くなる直前に残した言葉が、「どうも私にはわからない」でした。この言葉は、医学を信じて生きてきた彼にとって、非常に意味深いものです。
なぜなら、彼はかつて黄熱病にかかって回復した経験があり、「もう二度とかからない」と思っていたからです。それなのに、また同じ病気になってしまった。この事実が、英世先生の科学的な理解と矛盾していたのです。
つまり、「わからない」という言葉には、自分の身体で起きていることが理解できず、混乱しつつも、科学者として冷静に現実を受け止めようとする姿勢が表れているのです。研究者として、最後の瞬間まで真実を求め続けた野口英世らしい言葉ですね。
享年は51歳!死去後の世間の反応と妻メリーの対応
野口英世が51歳で亡くなったという知らせは、日本だけでなく、アメリカやヨーロッパにも大きな衝撃を与えました。新聞各紙は「科学の殉職者」として彼の死を報じ、多くの人がその死を悼みました。
とくに心を動かされたのは、英世の妻であるメリー・ダージスさんです。彼女はアメリカ人で、英世先生の死後も、遺志を継いで静かに彼の功績を語り続けました。自分の財産の一部を日本に送ったり、福島に住む英世の姉に仕送りしたりと、心のこもった行動を取っていたのです。
メリーさんはその後もニューヨークで静かな余生を送り、夫と同じ墓地に埋葬されました。ふたりの絆は、死後もなお深く結ばれていたのですね。
葬儀と埋葬先はどこ?墓地と記念施設も紹介
野口英世の遺体はアメリカに運ばれ、ニューヨークの「ウッドローン墓地」に埋葬されました。この墓地には、メリー夫人も一緒に眠っています。
また、日本では福島県猪苗代町にある「野口英世記念館」で、彼の業績や生涯を学ぶことができます。ここには英世が生まれた家や、幼少期の資料も展示されており、たくさんの子どもたちが訪れる学びの場になっています。
さらに、アフリカでも野口英世を称える施設がつくられ、彼の研究と命がけの貢献が今でも評価され続けています。
死後に再評価された功績!ノーベル賞候補やアフリカ賞の影響
野口英世は生前、ノーベル賞候補に3回も選ばれるほど、世界的に評価された研究者でした。実際に受賞はできませんでしたが、その功績は今も高く評価されています。
死後には、「野口英世記念医学賞」や「野口英世アフリカ賞」が創設されました。とくにアフリカ賞は、日本政府がアフリカで医療活動に貢献した人たちを表彰する大きな賞で、1億円もの賞金が用意されているのです。
つまり、英世先生の「命をかけた研究」は、死後も多くの人々を救い続けているのです。科学の力と人間の情熱が合わさることで、こんなにも多くの未来が変わっていくのですね。
総括:野口英世の死因&最後の様子まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 死因は黄熱病が定説
研究中にアフリカで黄熱病に感染し、1928年に51歳で亡くなった。 - 感染経路は研究中の事故とされる
注射針やメスによるケガからウイルスが体に入った可能性が高い。 - 黄熱病の再感染に困惑
一度かかった黄熱病に再びかかったことに本人も戸惑い、「どうも私にはわからない」が最後の言葉に。 - 梅毒説・他殺説もあったが根拠なし
研究歴からの憶測に過ぎず、黄熱病による死が医学的に裏付けられている。 - 世界的に報道され、称賛された死
自分の命をかけて病気と闘った姿勢が多くの人に感動を与えた。 - 発症から10日で死去
一時回復するも再び悪化し、アクラで息を引き取った。 - 妻・メリーの支えと死後の行動
英世の志を受け継ぎ、日本の家族にも支援を送った。 - 葬儀と埋葬先はアメリカのウッドローン墓地
福島の記念館やアフリカの施設でも功績がたたえられている。 - ノーベル賞候補に3回も選出
死後は「野口英世アフリカ賞」などで再評価され、多くの命を救う研究者として語り継がれている。