歴史の授業で「尊王攘夷(そんのうじょうい)」という言葉を聞いたことがありますか?幕末の武士たちが掲げたスローガンで、「天皇を大切にし、外国勢力を追い払おう!」という考え方です。
でも、なぜ彼らはそんなことを考えたのでしょうか?また、尊王攘夷の運動はどんな結末を迎えたのでしょうか?
この記事では、尊王攘夷の意味や背景、実際の運動の流れを分かりやすく解説します。学校のテスト対策にもなるので、最後まで読んでしっかり理解しましょう!
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尊王攘夷とは簡単に解説!意味や背景を詳しく説明
尊王攘夷運動は、江戸時代末期の日本で起こった重要な政治思想であり、特に幕末の歴史を理解する上で欠かせないテーマです。この運動がなぜ生まれたのか、またその背景を簡単に解説します。
日本がどのような状況で「天皇を敬い、外国を排除しよう」という運動が広まったのかを知ることができます。
尊王攘夷とは?簡単に意味を解説
尊王攘夷とは、江戸時代の終わりごろに広まった政治思想のことです。「尊王(そんのう)」とは「天皇を敬うこと」、「攘夷(じょうい)」とは「外国勢力を追い払うこと」を意味します。つまり、「天皇を中心とした政治を行い、外国の影響を排除しよう!」という考え方です。
この思想は、水戸学(みとがく)という学問から生まれました。水戸学では「日本は天皇が治める国であり、幕府はあくまでその代理である」と考えられていました。
江戸時代後期になると、幕府の力が弱まり、外国からの圧力が強まるにつれて、「幕府ではなく、天皇が政治をすべきだ!」という考えが広まっていきました。
こうして、尊王攘夷の思想が武士たちの間で重要視されるようになったのです。
尊王攘夷運動が生まれた背景とその理由
では、なぜ尊王攘夷の考え方が広まったのでしょうか?
その大きな理由は、江戸幕府が行っていた鎖国(さこく)政策が終わり、外国との交流が増えたことにあります。1853年にアメリカのペリー提督が「黒船(くろふね)」を率いて来航し、幕府に開国を迫りました。そして、1858年には日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)が結ばれ、日本は外国と貿易を始めることになりました。
ところが、この条約は日本にとって不平等な内容だったため、外国の影響が強まるにつれて「日本が外国に支配されてしまうのでは?」と心配する人々が増えていきました。特に、天皇を尊ぶ考えが強かった人たちは「外国と仲良くするのではなく、追い払うべきだ!」と考えたのです。
こうして、幕末の日本では「幕府は頼りにならない! 天皇を中心にして、日本を守ろう!」という尊王攘夷の運動が広がっていきました。
尊王攘夷派と公武合体派の違いを解説
幕末には、尊王攘夷の考え方を持つ人々と、それとは違う考え方を持つ人々がいました。その代表的なものが、公武合体(こうぶがったい)という考え方です。
尊王攘夷派は「幕府は頼りにならないから、天皇を中心とした政治に変えるべきだ!」と主張しました。一方、公武合体派は「幕府と朝廷が協力して政治を進めるべきだ!」と考えていました。
例えば、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は公武合体を進めようとしましたが、長州藩(ちょうしゅうはん)や薩摩藩(さつまはん)などの尊王攘夷派の勢力は「幕府を倒して天皇のもとで新しい政治をすべきだ!」と考えました。
このように、幕末の政治は「幕府をどうするべきか?」という考え方の違いによって大きく分かれていたのです。
尊王攘夷運動の中心人物とその思想
尊王攘夷運動には、多くの武士や学者たちが関わりました。その代表的な人物をいくつか紹介しましょう。
- 吉田松陰(よしだしょういん):長州藩の学者で、松下村塾(しょうかそんじゅく)という私塾で高杉晋作(たかすぎしんさく)や伊藤博文(いとうひろぶみ)などを育てた。尊王攘夷を熱烈に支持し、幕府の役人を暗殺しようとしたが、処刑された。
- 高杉晋作(たかすぎしんさく):長州藩の武士で、奇兵隊(きへいたい)という新しい軍隊を作り、倒幕運動を進めた。
- 西郷隆盛(さいごうたかもり):薩摩藩の武士で、尊王攘夷派だったが、後に「攘夷は現実的に無理」と考え、倒幕運動に転換した。
- 坂本龍馬(さかもとりょうま):土佐藩の浪士で、薩摩藩と長州藩を結びつける薩長同盟(さっちょうどうめい)を成立させた。
彼らの活動によって、尊王攘夷運動はどんどん勢いを増していきました。
尊王攘夷運動の語呂合わせとテスト対策ポイント
歴史のテストで尊王攘夷に関する問題が出ることも多いので、ポイントを押さえておきましょう。
- 「尊王攘夷(そんのうじょうい)」=「損(尊)して得(王)取る、情(攘)熱(夷)」
- 安政の大獄(あんせいのたいごく)(1858年):幕府が尊王攘夷派を弾圧した事件
- 桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)(1860年):尊王攘夷派の武士が井伊直弼(いいなおすけ)を暗殺
- 薩長同盟(さっちょうどうめい)(1866年):薩摩藩と長州藩が協力し、幕府を倒す準備をした
これらの年号や事件をしっかり覚えておくと、テストでも役立ちますよ!
尊王攘夷とは何か簡単に:具体的な尊王攘夷運動
尊王攘夷運動は数々の事件や戦争と深く関わり合っています。このセクションでは、運動の具体的な出来事を時系列で追いながら、その運動がどのように進展し、最終的にどのような結末を迎えたのかを解説します。
尊王攘夷運動の始まりと安政の大獄(1858年)
尊王攘夷運動の始まりは、1858年に起こった「安政の大獄(あんせいのたいごく)」からでした。安政の大獄とは、幕府が尊王攘夷派を厳しく弾圧した事件のことです。
この頃、日本はアメリカと日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結び、外国と本格的に貿易を始めました。しかし、この条約は日本にとってとても不平等なもので、特に天皇を敬う人々(尊王派)や外国を排除したい人々(攘夷派)の間で不満が爆発しました。
当時の幕府のトップである井伊直弼(いいなおすけ)は、「尊王攘夷の考えを持つ者は危険だ!」と判断し、多くの尊王攘夷派の人々を逮捕・処刑しました。その中には、長州藩の学者吉田松陰(よしだしょういん)や、幕府を批判していた橋本左内(はしもとさない)などが含まれています。
安政の大獄によって、一時的に尊王攘夷運動は沈静化しましたが、この弾圧が逆に幕府への反感を強める結果となりました。
桜田門外の変(1860年)と幕府の弱体化
安政の大獄の後、幕府に対する怒りを募らせた尊王攘夷派の武士たちは、ついに行動を起こします。それが「桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)」です。
1860年3月3日、水戸藩の浪士たちは江戸城の桜田門の前で、井伊直弼を襲撃し、暗殺しました。これは、幕府の要人が暗殺された初めての事件であり、日本中に大きな衝撃を与えました。
この事件以降、幕府の権威は急速に弱まりました。「幕府はもう力を持っていない」と考える武士たちが増え、尊王攘夷運動はさらに広がっていくことになります。
生麦事件・薩英戦争・長州藩の攘夷戦争(1862〜1864年)
尊王攘夷の考えを持つ人々は、実際に外国人を排除しようとする行動を取り始めました。その代表的な事件が生麦事件(なまむぎじけん)と薩英戦争(さつえいせんそう)です。
生麦事件(1862年)
1862年、横浜の生麦という村で、薩摩藩の行列を横切ったイギリス人が、薩摩藩士に斬り殺される事件が起こりました。この事件をきっかけに、イギリスと薩摩藩の関係が悪化しました。
薩英戦争(1863年)
翌年、イギリス軍は薩摩藩に報復として攻撃を仕掛けました。これが薩英戦争です。薩摩藩は西洋の軍事力の圧倒的な強さを知り、「攘夷は無理だ」と実感しました。この戦争を機に、薩摩藩は「外国と戦うより、幕府を倒して近代化を進めるべきだ」と考え始めます。
長州藩の攘夷戦争(1863〜1864年)
同じ頃、長州藩も「攘夷」を実行しようとしました。関門海峡を通る外国船を砲撃しましたが、すぐにイギリス・フランス・アメリカ・オランダの四カ国連合艦隊から報復攻撃を受け、完敗しました(四国艦隊下関砲撃事件)。この戦いで、長州藩も「攘夷は難しい」と気づくことになります。
尊王攘夷から倒幕運動へ(1866〜1867年)
攘夷の失敗を経験した長州藩と薩摩藩は、「日本を守るには、まず幕府を倒すべきだ!」と考えるようになりました。そして、1866年に薩摩藩と長州藩が手を組む「薩長同盟(さっちょうどうめい)」が結ばれました。この同盟は、坂本龍馬(さかもとりょうま)や中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の仲介によって成立しました。
1867年には、最後の将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が政権を天皇に返す「大政奉還(たいせいほうかん)」を行いました。
しかし、尊王攘夷派は「幕府の存在自体が邪魔だ!」と考え、王政復古の大号令(おうせいふっこのたいごうれい)を発表しました。これにより、幕府は完全に消滅し、天皇を中心とする新しい政府が誕生しました。
尊王攘夷運動の終焉と明治維新(1868年以降)
1868年、幕府の残党と新政府軍の間で「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」が始まりました。これは、日本の未来をかけた最後の戦いでした。結果として、新政府軍が勝利し、日本は明治時代へと突入しました。
尊王攘夷の考え方は、最終的に「外国を追い払う」というよりも、「日本を近代化し、西洋と対等に戦える国にする」という方向へ変わっていきました。伊藤博文(いとうひろぶみ)や大久保利通(おおくぼとしとおる)など、かつて尊王攘夷を唱えていた人々が新政府の中心となり、近代日本を築いていったのです。
総括:尊王攘夷とは何か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 尊王攘夷とは?
- 「尊王(天皇を敬う)」+「攘夷(外国勢力を排除する)」の思想。
- 幕末に武士たちが掲げたスローガン。
- 尊王攘夷運動が生まれた背景
- 1853年、アメリカのペリー来航による開国要求。
- 1858年、幕府が日米修好通商条約を結び、不平等な貿易開始。
- 外国の影響が強まり、「幕府ではなく天皇を中心とした政治を!」という考えが広まる。
- 尊王攘夷派 vs 公武合体派
- 尊王攘夷派:「幕府を倒し、天皇を中心とした政治をすべき」
- 公武合体派:「幕府と朝廷が協力して政治を進めるべき」
- 徳川慶喜は公武合体を目指すが、尊王攘夷派は倒幕へと動く。
- 尊王攘夷運動の中心人物
- 吉田松陰(松下村塾の師、尊王攘夷思想の中心人物)
- 高杉晋作(長州藩で奇兵隊を組織、倒幕に貢献)
- 西郷隆盛(薩摩藩のリーダー、後に倒幕へ転向)
- 坂本龍馬(薩長同盟を仲介、倒幕の流れを作る)
- 主な事件と影響
- 安政の大獄(1858年):井伊直弼が尊王攘夷派を弾圧
- 桜田門外の変(1860年):水戸藩士らが井伊直弼を暗殺
- 生麦事件(1862年):薩摩藩士がイギリス人を殺害 → 薩英戦争へ
- 薩英戦争(1863年):西洋の軍事力を痛感 → 倒幕へ転換
- 四国艦隊下関砲撃事件(1864年):長州藩が外国船を攻撃 → 外国の報復を受け敗北
- 尊王攘夷から倒幕運動へ
- 薩長同盟(1866年):薩摩藩と長州藩が手を組み倒幕を決意
- 大政奉還(1867年):徳川慶喜が政権を天皇に返還
- 王政復古の大号令(1867年):幕府を完全に廃止、新政府樹立
- 戊辰戦争(1868年):旧幕府軍 vs 新政府軍 → 新政府が勝利
- 尊王攘夷運動の終焉と明治維新
- 外国を追い払うことよりも、日本を近代化する方向へシフト。
- 伊藤博文・大久保利通らが新政府を築き、日本の近代化を推進。