「岩倉使節団」って知っていますか?
これは、明治時代のはじめに、日本の未来を大きく変えた使節団のことです。日本のリーダーたちがアメリカやヨーロッパの国々に行って、政治や経済、教育の仕組みを学んできたのです。
「でも、どうしてそんなことをしたの?」と疑問に思うかもしれませんね。
この記事では、岩倉使節団の目的や成果、そして日本に与えた影響について、塾長が分かりやすく解説していきます!
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岩倉使節団は何をした?その目的・経緯を簡単に解説
岩倉使節団は、明治時代の日本の歴史において非常に重要な役割を果たした使節団です。では、岩倉使節団は実際に何を目的に欧米を訪れ、どのような活動をしてきたのでしょうか?
ここでは、岩倉使節団が目指した目的と、それに伴う役割について詳しく解説します。
岩倉使節団とは?いつ誰が派遣したのか
岩倉使節団とは、1871年(明治4年)から1873年(明治6年)にかけて、日本政府が欧米12か国へ派遣した特別な使節団です。
特命全権大使には岩倉具視(いわくらともみ)が任命され、副使として木戸孝允(きどたかよし)・大久保利通(おおくぼとしみち)・伊藤博文(いとうひろぶみ)・山口尚芳(やまぐちなおよし)らが同行しました。
使節団は政府の重要なメンバーだけでなく、留学生や随行員を含めた総勢107名で構成されていました。その中には、後に女子教育の先駆者となる津田梅子(つだうめこ)もいました。
岩倉使節団は、近代日本の礎を築くために、さまざまな国の文化や技術を学ぶことを目的として旅立ったのです。
岩倉使節団の目的とは?なぜ派遣されたのか
岩倉使節団の目的は、大きく分けて3つありました。
- 不平等条約の改正交渉
江戸時代に欧米諸国と結んだ条約は、日本にとって不利な内容ばかりでした。例えば、日本の裁判権が外国人には適用されない「治外法権」や、関税を自由に決められない「関税自主権の欠如」といった問題がありました。これを改正するため、欧米諸国と交渉しようと考えたのです。 - 欧米の政治・経済・産業・教育の調査
日本は、明治維新によって近代化を進めようとしていました。しかし、どのようにすればよいのか、当時の日本人にはよく分かっていませんでした。そこで、先進国の仕組みを学び、それを日本の発展に活かそうと考えたのです。 - 留学生の派遣
若い世代が欧米の教育を受け、日本に帰国した後に国の発展に貢献できるようにするためです。津田梅子をはじめとする留学生たちは、このとき海外に渡り、後に日本の近代化を支える大きな力となりました。
岩倉使節団のルートと訪問国(旅程を簡単に)
岩倉使節団は、1871年12月に横浜港を出発し、まずアメリカへ向かいました。その後、次のようなルートで欧米を巡りました。
- アメリカ(約8か月滞在)
- サンフランシスコ、ワシントンD.C.などを訪問
- ユリシーズ・グラント大統領と会談
- 条約改正交渉を試みるが失敗
- イギリス(4か月滞在)
- ロンドンを拠点に視察
- 議会政治や産業革命の成果を学ぶ
- ヴィクトリア女王に謁見
- フランス(2か月滞在)
- パリを中心に行政制度を調査
- ナポレオン3世の影響を受けた都市計画を見学
- ドイツ(3週間滞在)
- プロイセンの軍事制度を学ぶ
- 後の日本の憲法制定に影響を与える
- その他のヨーロッパ諸国(ロシア、オランダ、イタリアなど)
- 各国の経済や法制度を視察
- 日本の近代化に役立つ技術や知識を収集
- 帰国(1873年9月)
- 約1年10か月の旅を終え、日本に帰国
この長い旅で、日本のリーダーたちは多くの知識を得ることができました。
条約改正は失敗?アメリカでの交渉の顛末
岩倉使節団の最初の目的であった「条約改正」ですが、残念ながら交渉は失敗に終わりました。
理由は2つあります。
- 全権委任状の問題
当時のアメリカ政府は「正式な交渉をするには、日本の天皇の正式な委任状(全権委任状)が必要だ」と主張しました。しかし、岩倉使節団はこの書類を持っておらず、本格的な交渉ができなかったのです。 - 日本の法制度の未熟さ
アメリカ政府は「日本の法律や裁判制度がまだ近代的ではない」と判断し、条約改正には応じませんでした。そのため、条約改正交渉は先送りされてしまいました。
この出来事を受け、大久保利通と伊藤博文は日本へ戻り、全権委任状を取得しようとしました。しかし、結局アメリカ側の態度は変わらず、岩倉使節団の条約改正交渉は失敗に終わったのです。
岩倉使節団の成果とは?調査で得た知見
条約改正には失敗したものの、岩倉使節団の視察は日本の近代化にとても重要な役割を果たしました。
特に、次のような分野で大きな影響を与えました。
- 政治制度:イギリスの議会制度を参考にし、日本も議会政治を導入。
- 教育改革:アメリカの学校制度を参考にし、日本でも義務教育を整備。
- 産業発展:ヨーロッパの工業技術を学び、日本の工業化を促進。
- 軍事制度:ドイツの軍隊制度を取り入れ、日本の軍事改革の基礎を作る。
- 法律改革:ヨーロッパの法律体系を学び、日本の法制度の近代化につなげる。
岩倉使節団が日本に与えた影響:その後の歴史を解説
岩倉使節団の活動が日本に与えた影響は、単なる文化や技術にとどまらず、政治、教育、経済、軍事の各分野に深く関わっています。
ここでは、岩倉使節団が帰国後、どのようにして日本を近代国家へと導いたのか、その影響を掘り下げて解説します。
政治の変化!近代国家への道を開いた
岩倉使節団が欧米を視察して得た最大の成果のひとつは、日本の政治体制の近代化でした。特に、イギリスの立憲君主制や、アメリカの三権分立の考え方を学んだことが大きな影響を与えました。
帰国後、大久保利通や伊藤博文は、日本にも欧米のような政治制度を取り入れるべきだと考えました。その結果、日本国憲法(大日本帝国憲法)の制定につながる動きが始まりました。特に、ドイツの憲法をモデルとした日本の憲法づくりが進められることになります。
また、イギリスの議会政治を参考にし、日本でも国民が政治に参加するための議会制度の整備が行われました。これにより、明治時代後半には国会(帝国議会)が設立され、近代国家としての基盤が整えられていきました。
教育改革!アメリカの学校制度を参考に
岩倉使節団は、アメリカで進んだ義務教育制度を目の当たりにしました。当時の日本では、まだ教育を受けられる人が限られていましたが、欧米では多くの子どもたちが学校に通い、読み書きや計算を学んでいました。
使節団のメンバーは、特にアメリカの小学校から大学までの教育制度に感銘を受け、「日本でもすべての子どもが教育を受けられるようにしよう!」と考えました。その結果、1872年に学制(日本初の義務教育制度)が発布され、日本全国に学校が作られることになりました。
また、使節団に同行した津田梅子らの留学生が、日本に帰国後、女子教育の普及にも貢献しました。これにより、日本の教育水準が大きく向上し、識字率の向上や専門的な知識を持つ人材の育成が進んでいきました。
産業と経済の発展!欧米の技術を取り入れた
岩倉使節団は、イギリスやドイツで産業革命の成果を直接見学しました。工場が次々と建設され、機械が大量に生産を行う姿に衝撃を受け、日本でもこうした技術を導入しようと決意します。
帰国後、日本政府は「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」というスローガンを掲げ、西洋の技術を取り入れて工業化を進めました。
具体的には、次のような産業が発展しました。
- 鉄道の建設:1872年、日本初の鉄道(新橋~横浜間)が開通。
- 製糸・紡績業:富岡製糸場が開設され、近代的な生産が始まる。
- 鉱業・造船業:石炭や鉄の採掘が進み、大型の船も作られるように。
このように、岩倉使節団が学んだ技術や産業の知識が、日本の経済成長に大きく貢献したのです。
軍事改革!ドイツ式の軍隊制度を採用
日本の軍隊制度も、岩倉使節団が訪れたヨーロッパの影響を大きく受けました。特に、ドイツの軍事制度を参考にして、日本の軍隊を近代化する方針が決まりました。
それまでの日本の軍隊は、江戸時代の藩の兵士(武士)が中心でしたが、使節団の帰国後、1873年に徴兵制が導入され、全国の若者が軍に入る制度に変わりました。これにより、身分に関係なく、すべての国民が国を守る役割を持つようになりました。
また、使節団が視察したヨーロッパの最新武器や戦術を取り入れ、日本の軍隊の近代化が一気に進んだのです。この軍事改革によって、日本はやがて日清戦争や日露戦争に勝利する強い軍事国家へと成長していきました。
外交の進展!条約改正への第一歩
岩倉使節団の最大の目的は不平等条約の改正でしたが、当時は交渉がうまくいかず、失敗に終わりました。しかし、この訪問によって日本は国際社会に対して「近代国家を目指している国」という印象を与えることができました。
また、使節団のメンバーは、欧米諸国と交渉するためには、まず日本国内の制度をしっかり整えなければならないと気づきます。そのため、帰国後に法制度の整備や教育改革が進められました。
そして、その後の日本は、岩倉使節団の経験を活かして外交交渉を続け、最終的に1894年の日英通商航海条約で不平等条約の改正に成功しました。つまり、岩倉使節団の訪問が、日本の国際的な地位を向上させる大きな一歩となったのです。
総括:岩倉使節団が何をしたか簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 岩倉使節団とは?
- 1871年(明治4年)に日本政府が欧米12か国へ派遣した外交・視察団
- 岩倉具視を特命全権大使とし、木戸孝允・大久保利通・伊藤博文らが副使として参加
- 留学生や随行員を含め総勢107名が渡航
- 目的
- 不平等条約の改正交渉
- 江戸時代に結ばれた日本に不利な条約の改正を目指した
- 欧米の政治・経済・教育の調査
- 日本の近代化に向けて先進国の制度や技術を学ぶ
- 留学生の派遣
- 若い世代に欧米の教育を受けさせ、日本の発展に貢献させる
- 不平等条約の改正交渉
- 訪問ルートと成果
- アメリカ(約8か月滞在)
- 大統領ユリシーズ・グラントと会談
- 条約改正交渉を試みるが失敗
- イギリス(4か月滞在)
- 議会政治や産業革命の成果を学ぶ
- フランス(2か月滞在)
- 行政制度や都市計画を調査
- ドイツ(3週間滞在)
- 軍事制度を学ぶ(後の徴兵制導入に影響)
- その他のヨーロッパ諸国(ロシア、オランダ、イタリアなど)
- 経済・法制度・技術を視察
- 帰国(1873年9月)
- 約1年10か月の旅を終え帰国
- アメリカ(約8か月滞在)
- 条約改正交渉の失敗
- 全権委任状がなかったため、本格的な交渉ができず
- 日本の法制度の未熟さを理由に欧米側が条約改正に応じなかった
- 日本への影響
- 政治の近代化
- イギリスの議会制度やアメリカの三権分立を参考に、大日本帝国憲法制定の基礎を築く
- 教育改革
- アメリカの義務教育制度を導入し、1872年に「学制」を発布
- 津田梅子らの留学生が帰国後、日本の教育発展に貢献
- 産業と経済の発展
- 西洋の技術を取り入れ「殖産興業」を推進
- 鉄道(新橋~横浜間)や富岡製糸場の建設など近代産業が発展
- 軍事改革
- ドイツ式の軍事制度を導入し、1873年に徴兵制を実施
- 身分を問わず全国の若者が軍に参加する制度に変わる
- 外交の進展
- 使節団の活動により、日本が近代国家を目指していることを国際社会に示す
- 1894年の日英通商航海条約で不平等条約の改正に成功
- 政治の近代化