今日は、明治維新の立役者として活躍した「岩倉具視(いわくらともみ)」について、彼の最後の瞬間に焦点を当ててお話しします。
岩倉具視は、幕末から明治時代の日本を大きく変えた人物ですが、どのような最期を迎えたのでしょうか?
また、彼が残した最後の言葉とは?歴史の教科書では語られない、岩倉具視の死因や人生の終わりについて、わかりやすく解説します!
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岩倉具視の死因とは?最後の様子や年齢を詳しく解説
岩倉具視は、幕末から明治時代にかけて活躍し、日本の政治のあり方を大きく変えた人物です。しかし、彼の最期はどのようなものだったのでしょうか?
ここでは、彼の死因や亡くなる直前の様子、最後の言葉について詳しく説明します。
岩倉具視の死因は「食道がん」か「咽頭がん」
岩倉具視の死因は、「食道がん」または「咽頭がん」であると言われています。1883年(明治16年)の5月、彼は京都に滞在中、のどの痛みを訴えました。これを知った明治天皇は、ドイツ人医師であるエルヴィン・フォン・ベルツに診察を依頼しました。
ベルツ医師の診断により、岩倉具視が「がん」にかかっていることが判明しました。これは、日本の歴史上で初めて記録に残った「がん告知」の例とも言われています。当時の医療技術では、がんの治療が困難であり、病状は次第に悪化していきました。
何歳で死亡したのか?岩倉具視の没年齢
岩倉具視は 1883年(明治16年)7月20日 に亡くなりました。享年 57歳(満年齢)です。明治時代の平均寿命は40代前半と言われているため、当時としては比較的長生きした人物とも言えるでしょう。
また、同じ時代を生きた大久保利通や西郷隆盛は暗殺や戦死という形で命を落としましたが、岩倉具視は病死でした。この点も、他の維新の志士たちとは異なる特徴と言えます。
死の直前に岩倉具視が最後に過ごした場所
岩倉具視は、亡くなる少し前まで熱海で療養していました。しかし、病状が悪化し、最終的には東京の自宅で亡くなりました。
6月には、京都御所の保存計画のために京都に滞在していましたが、その時にはすでに食事を摂ることも困難な状態になっていたと伝えられています。その後、彼は東京に戻り、家族や親しい友人に見守られながら最期の時を迎えました。
岩倉具視の最後の言葉「陛下の万歳を祈るのみ」
岩倉具視の最後の言葉は、「陛下の万歳を祈るのみ」でした。
7月5日、彼の病状が重篤であることを知った明治天皇が、岩倉具視の自宅を訪れました。その際、岩倉具視は病気にもかかわらず正装し、人に支えられながらも明治天皇と謁見しました。
その後、7月12日には皇后も訪れましたが、その時にはすでに自分で動くこともままならないほど衰弱していました。そして、7月19日に危篤状態となり、明治天皇が再び訪れると、「陛下の万歳を祈るのみ」と言って静かに合掌しました。
岩倉具視の国葬~明治政府初の国葬となった理由
岩倉具視の葬儀は日本で初めての国葬となりました。明治政府は彼の功績を称え、国家的な儀式として葬儀を執り行いました。
実は、岩倉具視自身は「自分の葬儀の費用は、父の葬儀費用(約3千円)を超えないように」と遺言を残していました。しかし、実際には約3万円(現在の価値で約6億円)もの費用がかかったと言われています。
これは、明治天皇が彼の功績を非常に高く評価し、国家として正式に彼を弔うことを決めたためです。それほどまでに岩倉具視の影響力は大きかったのです。
岩倉具視の死因の後に:なぜ彼の死は重要だったのか
岩倉具視は、幕末から明治時代にかけて、日本の政治を大きく変えた立役者の一人です。彼がいなければ、明治維新の成功は難しかったかもしれません。
そんな彼の功績を振り返り、なぜ彼の死が日本の歴史にとって重要だったのかを解説していきます。
岩倉具視の最大の功績「王政復古の大号令」
徳川幕府を終焉に導いた王政復古の立役者
岩倉具視の最大の功績の一つが、1867年12月9日に発せられた 「王政復古の大号令」 です。これは、朝廷が政治の実権を取り戻し、徳川幕府を完全に終わらせるための宣言でした。
それまでの日本では、天皇がいるものの、実際の政治は幕府が行っていました。岩倉具視は、薩摩藩や長州藩と手を組み、天皇中心の政治体制を復活させようとしました。その結果、幕府を廃止し、新しい政府を作ることに成功したのです。
小御所会議で「辞官納地」を実現し、徳川家の権力を剥奪
「王政復古の大号令」が発せられた後、すぐに行われたのが 「小御所会議」 です。この会議で決定した「辞官納地(じかんのうち)」により、最後まで権力を握ろうとしていた 徳川慶喜の政治的な影響力を完全に失わせました。
これによって、 徳川家が支配する時代は完全に終わり、新しい明治政府の時代が始まった のです。
明治天皇との関係:なぜ最後に天皇と対面したのか
明治天皇から最も信頼された政治家の一人
岩倉具視は、明治天皇から非常に信頼されていました。なぜなら、彼は「明治時代の土台を作った人物」だからです。特に、明治天皇が若くして即位した際、岩倉具視は政治の指南役として重要な役割を果たしました。
天皇は岩倉具視を右腕のように頼りにしていたといわれています。そのため、彼が病に倒れたとき、明治天皇は自ら見舞いに訪れたのです。
最後の対面時、病に伏していながら正装で迎える意志の強さ
病気が進行していた岩倉具視ですが、明治天皇が訪れると知ると、なんとか自力で正装し、天皇を迎えました。それほどまでに天皇への忠誠心が強かったのです。
この意志の強さは、明治天皇を感動させ、彼の死後、日本で初めて「国葬」が行われる理由の一つとなりました。
岩倉具視の死後、日本はどう変わったのか?
彼の死後、明治政府内での大久保利通と伊藤博文の影響力が拡大
岩倉具視の死後、彼の盟友だった大久保利通や伊藤博文の影響力が大きくなりました。特に、 伊藤博文は日本の憲法を作ることに尽力し、のちに初代内閣総理大臣となりました。
大日本帝国憲法(1889年)制定に向けた動きが加速
岩倉具視は生前から「日本独自の憲法を作るべき」と主張していました。そのため、彼の死後も憲法制定の動きが加速し、最終的には1889年に「大日本帝国憲法」が発布されました。
自由民権運動が活発化し、憲法制定の気運が高まる
岩倉具視の死後、国民が政治に参加する権利を求める「自由民権運動」が活発化 しました。この運動が、後の憲法発布や国会設立へとつながるきっかけとなったのです。
岩倉具視の子孫は今も活躍しているのか?
芸能界・政治界に広がる岩倉具視の子孫
岩倉具視の子孫は、現在も芸能界や政治界で活躍しています。その代表的な人物には、以下のような方々がいます。
- 加山雄三(俳優・歌手):岩倉具視の玄孫(やしゃご)
- 喜多嶋舞(女優):加山雄三の娘
- 亀井亜紀子(政治家):元衆議院議員
家系図をたどると、多くの著名人とつながりがある
岩倉具視の子孫には、他にも政治家、学者、文化人など、多くの著名人がいます。彼の影響力は日本の文化や政治に今も受け継がれているのです。
岩倉具視の名言・逸話~「鉄の意志を持つ男」とは
「成敗は天なり、死生は命なり」~どんな結果も受け入れる覚悟
岩倉具視は、「結果は天が決めるもの。どんな結末になろうと、後悔しない」という強い信念を持っていました。この言葉は、彼の冷静で揺るがない精神を表しています。
クーデターの計画が露見しかけた際、「酒を飲んで寝る」と冷静に対応
「王政復古の大号令」の計画が事前に漏れそうになったとき、周囲は大慌てでした。しかし、岩倉具視は「まだ失敗と決まったわけではない」と言い、酒を飲んで寝てしまったのです。
これは、彼の度胸と冷静な判断力を物語る逸話として有名です。
鳥羽・伏見の戦いで砲声が響く中でも熟睡していた逸話
1868年の鳥羽・伏見の戦いの際、戦場の近くで岩倉具視は砲声を聞きながらも熟睡していたといわれています。
驚いた仲間が「官軍は敗北している! 逃げるしかない!」と叫ぶと、岩倉具視は「ならば一戦して死ぬばかりじゃ」と落ち着いて答えたそうです。
この逸話からも、彼の度胸と「鉄の意志」を持つ性格がよくわかります。
総括:岩倉具視の死因まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. 岩倉具視の死因と最期
- 死因:食道がんまたは咽頭がん
- 死亡日:1883年(明治16年)7月20日
- 没年齢:57歳
- 病状の悪化:1883年5月にのどの痛みを訴え、ベルツ医師によりがんと診断
- 日本初のがん告知:記録に残る初めてのケース
- 療養地:最初は熱海で療養、最終的に東京の自宅で死亡
2. 岩倉具視の最後の言葉
- 「陛下の万歳を祈るのみ」
→ 明治天皇の見舞いを受け、最期に合掌しながら発した言葉
3. 岩倉具視の葬儀
- 日本初の国葬
→ 明治天皇の特別な配慮により、国費で執り行われた - 遺言では「父の葬儀費用(約3千円)を超えないように」と希望
- 実際の葬儀費用:約3万円(現在の価値で約6億円)
4. 岩倉具視の歴史的功績
- 「王政復古の大号令」(1867年)を主導
→ 徳川幕府を終焉させ、明治政府の成立を確定 - 「小御所会議」にて徳川家の権力を剥奪
- 明治天皇の信任が厚く、国葬の対象となる
5. 岩倉具視の死後の影響
- 大久保利通・伊藤博文の影響力が拡大
- 大日本帝国憲法(1889年)制定の動きが加速
- 自由民権運動の活発化
6. 岩倉具視の子孫
- 著名な子孫:
- 加山雄三(俳優・歌手)
- 喜多嶋舞(女優)
- 亀井亜紀子(政治家)
7. 岩倉具視の名言・逸話
- 「成敗は天なり、死生は命なり」
→ 結果を天に委ね、最期まで覚悟を持って生きる姿勢 - 「酒を飲んで寝る」逸話
→ クーデター計画が露見しそうになった際、冷静に対応 - 鳥羽・伏見の戦いで砲声が響く中でも熟睡
→ 極限の状況でも動じない「鉄の意志」を持つ人物