「岩倉具視(いわくらともみ)」という名前を聞いたことはありますか?

明治時代の偉人の一人で、近代日本を作るのに大きく貢献した人物です。でも、具体的に何をした人なのかよく知らないという人も多いのではないでしょうか。

この記事では、「岩倉具視は何した人か?」を簡単に分かりやすく解説します!さらに、彼の出身や功績、エピソードなども紹介しますので、歴史の勉強にも役立つ内容になっています。

では、さっそく見ていきましょう!

※AmazonのKindle Unlimitedは月額980円ですが、3ヶ月無料期間があります。その間、読み放題対象の電子書籍は全部無料。途中で解約ももちろん自由。そのため、電子書籍が実質0円で読めます。以下に、歴史の語呂合わせに関連する無料書籍を載せておきます。

↓実質無料で読めるおすすめ歴史の読み物↓

著:河合敦, 著:房野史典
¥1,617 (2025/07/04 03:22時点 | Amazon調べ)
著:ぴよぴーよ速報
¥1,529 (2025/07/04 03:24時点 | Amazon調べ)

岩倉具視は何した人?簡単にわかるプロフィールと功績

岩倉具視は幕末から明治時代にかけて活躍した政治家で、日本の近代化を支えた重要人物の一人です。彼は幕府の終焉に関わり、新しい政府を作るために動きました。また、海外視察を行い、日本の発展に役立つ多くの知識を持ち帰りました。

では、岩倉具視の生い立ちや功績を詳しく見ていきましょう。

岩倉具視は幕末から明治維新の立役者!基本プロフィールを紹介

岩倉具視は、1825年(文政8年)に京都で生まれました。もともと「堀河康親(ほりかわやすちか)」という公家の家に生まれましたが、後に岩倉家の養子となりました。

岩倉家は、朝廷に仕える「下級公家(くげ)」という身分でした。公家といえば貴族のようなイメージですが、下級公家は上級公家に比べると政治の実権がなく、生活もあまり豊かではありませんでした。

しかし、岩倉具視は頭が良く、若いころから学問や政治に強い興味を持ち、朝廷で重要な役割を果たすようになりました。

岩倉具視の最大の功績は?簡単にわかる歴史的な役割

岩倉具視の最大の功績は、日本の政治を大きく変えた「王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)」です。

これは、江戸幕府を終わらせて、天皇を中心とした新しい政治を始めるための宣言でした。彼は薩摩藩や長州藩と協力して幕府を倒す準備を進めました。その結果、徳川幕府は政権を朝廷に返上し、日本は新しい時代へと進みました。

この「王政復古の大号令」により、日本は明治政府のもとで新しい政治体制へ移行しました。岩倉具視は、この大きな変化の中心人物だったのです。

岩倉使節団とは?欧米視察の目的と成果を簡単に解説

岩倉具視のもう一つの大きな功績が「岩倉使節団(いわくらしせつだん)」です。

1871年(明治4年)、岩倉具視は使節団のリーダーとなり、欧米の国々を視察しました。その目的は、日本の政治や経済、産業を発展させるために海外の進んだ技術や文化を学ぶことでした。

しかし、もう一つの目的であった「不平等条約の改正」には失敗しました。欧米諸国は、日本の近代化がまだ不十分だと判断し、条約改正を認めなかったのです。

それでも、使節団は鉄道や教育制度などの多くの知識を日本に持ち帰り、日本の近代化に大きく貢献しました。

岩倉具視の性格や人物像は?エピソードでわかる意外な一面

岩倉具視は「策略家」としても知られています。政治の世界で生き抜くために、賢く立ち回り、うまく周囲を動かしていました。

また、彼は非常にユーモアのある人物でもありました。ある時、「お金が足りない」と嘆いたときに、自宅を賭場(かけごとをする場所)にしてしまったというエピソードもあります。とても変わった発想ですよね。

さらに、岩倉具視は家庭を大事にする一面もあり、子供たちに対して優しい父親だったと言われています。

岩倉具視の死因と最後の言葉は?晩年の活動を解説

岩倉具視は1883年(明治16年)に病気で亡くなりました。

彼は晩年、京都御所の保存計画を進めたり、新しい日本の形を考えたりしていましたが、病気が悪化し、東京で静かに息を引き取りました。

彼の最後の言葉は「国家のために尽くすことが大切だ」という意味のものだったと言われています。岩倉具視は最後の最後まで日本の未来を考えていたのです。

岩倉具視が何した人か簡単に分かったら:功績をもっと詳しく

ここからは、岩倉具視が行ったことを、もう少し詳しく解説していきます。

王政復古の大号令を成功させた岩倉具視の戦略

岩倉具視は、江戸幕府を終わらせ、新しい時代を作るために「王政復古の大号令」を主導しました。この大号令は、幕府の支配を完全に終わらせ、天皇中心の政治体制へと転換する大きな転機となりました。

徳川幕府を排除するための策謀

幕末、徳川幕府の力は弱まっていたものの、まだ完全には消えていませんでした。岩倉具視は、薩摩藩や長州藩と連携し、幕府を政治の場から排除する計画を立てました。その一つが、「王政復古の大号令」という形で朝廷から正式に幕府を無くすことでした。

「錦の御旗」の準備と薩長軍の勝利

岩倉具視の先見の明は、戦いにおいても発揮されました。薩長軍が旧幕府軍と戦う際に「官軍」としての正当性を得るために、事前に「錦の御旗(にしきのみはた)」を準備していました。これにより、旧幕府軍は「賊軍」とされ、多くの大名が官軍側に味方するようになり、戊辰戦争の勝利につながったのです。

徳川慶喜を朝廷から遠ざけた方法

岩倉具視は、徳川慶喜に対し「辞官納地(じかんのうち)」を命じ、政治の場から遠ざけました。辞官納地とは、官職を辞めさせ、領地を朝廷に返還させることを意味します。これにより、徳川家はもはや政治の中心から完全に排除されることになりました。

明治新政府の誕生に貢献

王政復古の成功によって、岩倉具視は新政府の中心人物となりました。明治天皇のもとで新たな政治体制を築くため、欧米の制度を取り入れた近代的な国家づくりを進めていきます。

王政復古が持つ歴史的意義

王政復古の大号令は、日本が封建制度から脱却し、近代国家へと歩みを進める第一歩でした。岩倉具視の戦略なしには、この変革は成功しなかったでしょう。

近代日本の礎を築いた!岩倉使節団の成果とは?

岩倉具視が率いた「岩倉使節団」は、日本の近代化に大きく貢献しました。彼らが欧米諸国を視察し、日本に持ち帰った知識や経験は、後の日本の発展に大きな影響を与えました。

欧米各国での見聞とその影響

岩倉使節団は、アメリカやイギリス、フランス、ドイツなど12か国を訪れ、政治制度や産業技術を学びました。特に、議会制度や軍事制度、教育制度などを研究し、日本の発展のための指針を得ました。

日本の鉄道・教育・憲法制度に与えた影響

使節団の視察を通じて、日本は鉄道を整備し、近代的な教育制度を導入しました。また、憲法の必要性も認識され、後の「大日本帝国憲法」制定につながる基盤が作られました。

自由民権運動の土台を作った?

岩倉具視は、西洋の民主主義にも関心を持ち、日本における自由民権運動の流れを生むきっかけとなりました。結果的に、日本の政治は国民の意見を反映する方向へと進んでいきます。

岩倉使節団が残した具体的な政策

岩倉使節団が帰国後、日本政府は地租改正や学制改革を進めました。また、官僚制度の近代化も進み、日本は西洋の制度を積極的に取り入れるようになりました。

岩倉具視が見た「日本の未来像」

岩倉具視は、西洋の文明に感銘を受けながらも、日本独自の文化を守りつつ発展させることが重要だと考えていました。その理念は、現在の日本の国づくりにも生かされています。

征韓論を退けた岩倉具視の外交手腕

なぜ西郷隆盛と対立したのか?

西郷隆盛は、朝鮮に対して武力を用いた外交を主張しましたが、岩倉具視はこれに強く反対しました。彼は、日本国内の近代化が優先されるべきだと考えていたのです。

日本国内の近代化を優先した理由

日本が欧米列強と対等に渡り合うためには、まず国内の制度や軍備を整えることが必要でした。岩倉具視は、戦争にリソースを割くよりも、日本の近代化を進めるべきだと主張しました。

「征韓論争」とは何だったのか?

征韓論争とは、朝鮮に対する外交方針をめぐって政府内で起こった対立です。西郷隆盛らは武力行使を主張し、岩倉具視らは平和的な外交を求めました。

岩倉具視が残した外交戦略

岩倉具視の戦略は、日本が無駄な戦争を避け、国力を高めることに集中することでした。これにより、近代化の道筋が確立され、日本は欧米諸国と対等に交渉できる国へと成長していきました。

西南戦争へとつながる背景

岩倉具視が征韓論を退けたことで、西郷隆盛は政府を離れ、最終的に西南戦争を引き起こしました。この戦争によって西郷は敗れ、日本政府の権力はより強固なものとなりました。

大日本帝国憲法との関連

岩倉具視が決めた憲法制定の方針は、最終的に「大日本帝国憲法」として結実しました。この憲法は1889年に発布され、1890年に施行されました。

岩倉具視自身は憲法制定の完成を見ることなく亡くなりましたが、彼が示した「天皇を中心とした立憲国家」というビジョンは受け継がれました。

憲法の内容は、ドイツ(プロイセン)の憲法をモデルにしており、天皇が国家の最高権力を持つと同時に、憲法によって政治が運営される仕組みが整えられました。

紙幣にもなった岩倉具視!なぜ500円札に選ばれたのか?

岩倉具視は、日本の近代化を推し進めた重要な政治家の一人であり、その功績を称えて500円札の肖像に採用されました。彼は幕末から明治時代にかけて活躍し、王政復古や岩倉使節団の派遣など、日本の近代化に大きく貢献しました。

そのため、日本政府は「新しい時代を築いた象徴的な人物」として、岩倉具視を紙幣に採用することを決めたのです。

岩倉具視の肖像が描かれた500円札は、1951年(昭和26年)に発行されました。この紙幣のデザインには、岩倉具視の肖像のほか、裏面に富士山と桜が描かれており、日本の象徴的な風景が取り入れられています。

岩倉の肖像は、威厳ある表情で描かれ、彼の功績を讃えるようなデザインになっていました。当時の紙幣は、現在のものと違い、よりシンプルなデザインでしたが、岩倉具視の存在感を強く打ち出したものになっていました。

総括:岩倉具視は何した人か簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 幕末から明治に活躍した政治家で、日本の近代化に大きく貢献した人物。
  • 江戸幕府を終わらせ、明治政府を樹立するため「王政復古の大号令」を主導。
  • 薩摩藩・長州藩と協力し、幕府を政治の舞台から排除し、新政府を設立した。
  • 「岩倉使節団」のリーダーとして欧米12か国を視察し、鉄道・教育・憲法制度の導入に影響を与えた。
  • 西郷隆盛らの「征韓論」に反対し、日本の近代化を優先する外交方針をとった。
  • 日本初の憲法(大日本帝国憲法)の方針を決定し、天皇中心の立憲国家の基盤を作った。
  • その功績を称えられ、昭和時代に発行された500円札の肖像に採用された。
  • 病気により1883年に死去。最後まで日本の未来を考え続けた人物だった。