「自由民権運動」という言葉、教科書で見たことはあるけれど、なんだか難しそう…と思っていませんか?でも安心してください。
今回は、自由民権運動がどうして起こったのか、どんなことをしたのか、そしてどんな人たちが関わっていたのかを、塾長がやさしくわかりやすく解説していきます。
テストによく出るキーワードや中心人物についてもバッチリおさえていきますよ!それではさっそく、学んでいきましょう!
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自由民権運動とは何かをわかりやすく解説
自由民権運動とは、明治時代に「もっと国民の声を政治にとどけよう!」と立ち上がった人たちによる大きな政治運動のことです。
特に板垣退助(いたがきたいすけ)という人物が中心になって活動しました。この運動は、日本に初めての国会(今の国会の原型)をつくるきっかけにもなった、大事な歴史の一場面です。
ではここから、さらに詳しく見ていきましょう。
自由民権運動とは?「国民の声を政治に!」という運動
自由民権運動とは、「政治にもっと国民の意見を反映させよう!」という目的で行われた運動のことです。明治時代の初め、日本ではまだ一部の人だけが政治を動かしていました。ほとんどの国民は、政治に関わることができなかったのです。
そんな中、「民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)」という文書が提出されます。これが自由民権運動のスタートの合図でした。内容は、「国民が選んだ人たちで議会をつくろう!」というものでした。
つまり、今でいう「選挙で選ばれた議員による政治」を目指したのです。自由民権運動は、日本が今のような民主的な国になっていくための第一歩だったのです。
自由民権運動の始まりは「明治六年の政変」
自由民権運動が始まるきっかけとなったのが、「明治六年の政変(めいじろくねんのせいへん)」です。1873年、政府内で「朝鮮に軍を送るかどうか」という「征韓論(せいかんろん)」が大きな議論になりました。
このとき、板垣退助や西郷隆盛などは「朝鮮に行くべきだ」と主張しましたが、政府の中心にいた岩倉具視(いわくらともみ)や大久保利通(おおくぼとしみち)に反対され、板垣たちは政府を辞めてしまいました。
政府から離れた板垣退助は、今度は言論(言葉)で政治を変えようと考え、「自由民権運動」を始めたのです。
自由民権運動の目標
自由民権運動には、いくつかの大きな目標がありました。主に次のような内容です。
- 国会を開く(議会政治の実現)
- 憲法をつくる(国のルールをはっきりさせる)
- 地租を軽くする(税金の負担を減らす)
- 言論の自由や集会の自由を守る
つまり、「国民が自由に意見を言える国をつくろう!」というのが、この運動の中心にあった考え方です。当時はまだ、国民が意見を言うと捕まってしまうこともありました。
そんな時代に、「自由に話せる社会をつくろう」と立ち上がったのが、自由民権運動だったのです。
自由民権運動の広がりと「愛国社・立志社」の結成
自由民権運動は、ただの一部の人たちの運動ではありませんでした。
やがて全国に広がり、多くの人が参加するようになります。そのきっかけとなったのが、「愛国社(あいこくしゃ)」と「立志社(りっししゃ)」という政治団体です。
愛国社は、板垣退助が中心となってつくったもので、各地にある民権団体をまとめる役目をしました。一方、立志社は高知県でつくられた団体で、片岡健吉(かたおかけんきち)が中心でした。
このようにして、自由民権運動は地方にも広がり、「自由に意見を言おう」という空気が日本中に高まっていったのです。
自由民権運動の結果:「国会開設の勅諭」で大きな一歩
自由民権運動が長く続いた結果、ついに政府も動きました。
1881年、明治天皇から「10年後に国会を開きますよ」という約束=「国会開設の勅諭(ちょくゆ)」が出されました。
これは、自由民権運動にとって大きな成果です。つまり、国民の声が政府を動かしたのです!
その後、1890年には日本で初めての国会が開かれます。これは、自由民権運動があったからこそ実現したものです。そしてその流れが、今の日本の民主主義のもとになっているのです。
自由民権運動をわかりやすく:中心人物を紹介
自由民権運動には、多くの重要人物が関わっていました。特に活躍したのは板垣退助(いたがきたいすけ)ですが、それ以外にもたくさんの人物が、それぞれの立場で自由と権利のために行動しました。
ここでは、自由民権運動を支えた中心人物たちを詳しく紹介していきます。覚えておくと、テストでもきっと役に立ちますよ!
自由民権運動の中心人物まとめ
名前 | 主な役割・活動内容 | 出身地 |
---|---|---|
板垣退助 | 民撰議院設立建白書、自由党を結成 | 土佐藩(高知) |
片岡健吉 | 立志社建白書を提出、地方運動をリード | 土佐藩(高知) |
大隈重信 | 立憲改進党を結成、議会制度を提案 | 肥前藩(佐賀) |
中江兆民 | 天賦人権論を広める、「東洋のルソー」と称された | 土佐藩(高知) |
江藤新平 | 政府批判から佐賀の乱へ、悲劇的な最期 | 佐賀藩 |
中心人物① 板垣退助 ― 自由民権運動の顔となったリーダー
自由民権運動といえば、まず名前が挙がるのが板垣退助(いたがきたいすけ)です。土佐藩(現在の高知県)出身で、幕末には新政府軍として戊辰戦争にも参加しました。
征韓論(せいかんろん)に敗れて政府を離れたあと、自由民権運動の先頭に立ち、「民撰議院設立建白書」を提出しました。この建白書が、日本で国民が政治に参加する第一歩となったのです。
演説中に暴漢に襲われたときの「板垣死すとも自由は死せず」という名言は、とても有名ですね。彼の強い信念と行動力が、多くの人の心を動かしたのです。
中心人物② 片岡健吉 ― 立志社を率いた熱いリーダー
片岡健吉(かたおかけんきち)は、高知県出身の政治家で、板垣退助とともに自由民権運動を支えました。立志社(りっししゃ)という団体のリーダーとして、地方の人々の声を国に届ける役目を果たしました。
彼が中心となって提出した「立志社建白書」では、国会の開設や税金の軽減、条約の改正などを求めました。これは、運動が地方の豪農や市民たちにも広がるきっかけとなりました。
片岡健吉のように、地方での活動をリードした人物も、自由民権運動の成功には欠かせない存在だったのです。
中心人物③ 大隈重信 ― 議会政治を実現させた知識人
大隈重信(おおくましげのぶ)は、肥前藩出身の政治家で、自由民権運動の中では「立憲改進党(りっけんかいしんとう)」という政党をつくりました。彼はヨーロッパの政治制度に詳しく、特にイギリスの議会制度に影響を受けていました。
自由民権運動の後半では、板垣退助の「自由党」と、大隈重信の「立憲改進党」が、どちらも国会開設を目指して動いていました。彼はのちに内閣総理大臣も務め、日本の近代政治をつくった立役者の一人です。
中心人物④ 中江兆民 ― 思想で支えた「東洋のルソー」
中江兆民(なかえちょうみん)は、フランスの思想家ルソーの考えを日本に紹介した人物です。「東洋のルソー」とも呼ばれました。
彼は「天賦人権論(てんぷじんけんろん)」という考えを広めました。これは「人は生まれながらに自由と権利を持っている」というもので、自由民権運動の精神的な支柱となりました。
中江兆民は言論活動や新聞を通して、民衆に自由の大切さを伝え続けました。運動の中で「考え方」や「理念」を広げた、まさに“頭脳”としての存在だったのです。
中心人物⑤ 江藤新平 ― 初の司法大臣から民権派へ
江藤新平(えとうしんぺい)は、佐賀藩出身で、明治政府で初代司法大臣を務めた人物です。しかし、政府のやり方に疑問をもち、自由民権運動に加わります。
その後、彼は「佐賀の乱」を起こしてしまい、政府に捕らえられ、悲しい最期を迎えました。江藤新平の行動は、武力に頼ってしまった点で自由民権運動の方向性と違いましたが、「不平等な政治を変えたい」という気持ちは共通していました。
彼の存在は、自由民権運動が「言葉と武力」のはざまで揺れ動いた歴史を象徴しています。
総括:自由民権運動や中心人物ををわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
自由民権運動とは
- 明治時代、「国民の声を政治に届けよう」と始まった政治運動
- 中心人物は板垣退助
- 日本に初めての国会ができるきっかけとなった
自由民権運動の目的
- 国会を開く
- 憲法をつくる
- 税金(地租)を軽くする
- 言論・集会の自由を守る
自由民権運動のきっかけ
- 「明治六年の政変」で政府を辞めた板垣退助らが運動を開始
- 民撰議院設立建白書の提出がスタートとなる
運動の広がり
- 板垣退助の愛国社、片岡健吉の立志社が運動を全国に広めた
- 地方の市民や農民も参加するようになった
運動の成果
- 1881年に国会開設の勅諭が出される
- 1890年に日本初の国会が開かれる
自由民権運動の中心人物
- 板垣退助:運動のリーダー、自由党を設立
- 片岡健吉:立志社を率い、地方運動を展開
- 大隈重信:立憲改進党を結成、議会政治を提案
- 中江兆民:天賦人権論を広めた思想家
- 江藤新平:政府を離れ佐賀の乱を起こした民権派