今日は明治時代に起きた「征韓論(せいかんろん)」という、ちょっと難しそうに聞こえるお話を、できるだけ分かりやすくお話ししていきます。

征韓論って、実は日本と朝鮮(今の韓国)との関係に大きくかかわった出来事なんです。しかも、歴史のテストにもよく出てくる重要ワード!西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)など、教科書で見かける有名人たちも登場しますよ。

この記事では、「征韓論ってなに?」「誰が賛成したの?」「なぜ反対されたの?」という疑問をひとつずつ、ていねいに説明していきます。最後には、征韓論がその後の日本や朝鮮にどんな影響を与えたのかも分かります。

さあ、それでは征韓論の世界へ出発しましょう!

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征韓論をわかりやすく解説!背景と目的

征韓論は、明治時代の日本が近くの国「朝鮮」とどう付き合っていくべきかで、大もめに揉めた議論です。当時は、まだ日本も朝鮮も新しい時代に入ったばかり。お互いにどう向き合えばいいか、考え方が違っていたのです。

ここでは、征韓論の「なに?」「なぜ?」を、しっかり説明していきます。

征韓論とは?簡単にわかりやすく解説

征韓論とは、簡単に言うと「日本が朝鮮に対して武力を使ってでも開国させよう」という考え方です。明治時代の初め、日本は新しい国づくりに取り組んでいました。そして、近くの国・朝鮮と仲良くしたいと考えていたのです。

ところが、朝鮮は鎖国(さこく)状態で、日本との国交(こっこう)をかたくなに断りました。それに怒った一部の日本の政治家たちが、「じゃあ、武力で話を聞かせよう!」と主張し始めたのです。これが征韓論の始まりでした。

「征」は「せめる」、「韓」は「朝鮮」を意味する漢字です。つまり「朝鮮をせめる考え方」という意味なんですね。

なぜ征韓論が生まれたのか?その理由と背景

征韓論が生まれた背景には、いくつかの大きな理由があります。

まずひとつ目は、朝鮮が日本からの国交の申し入れを何度も断ったことです。明治政府は、新しくできた国のことを知らせようと、使者を送ったのですが、朝鮮は「天皇」という言葉を失礼だと感じて、書類を受け取るのを拒否しました。

次に、欧米列強(れっきょう)と呼ばれる強い国々に対抗するために、朝鮮と仲良くする必要があったことも理由の一つです。当時、日本は外国に植民地にされないよう必死でした。「アジアの国々で協力しよう!」という考えから、朝鮮と同盟を結ぼうとしたのです。

そして三つ目が、日本国内の士族(しぞく)と呼ばれる元武士たちの不満です。明治維新で特権を失った士族たちは怒っていました。政府は、外に敵をつくることで国内の不満をおさえようとしたのです。

征韓論を唱えた人は誰?賛成派の主張

征韓論に賛成したのは、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎など、明治政府の中心にいた人物たちです。

特に西郷隆盛は、自分が武器を持たずに朝鮮に行って、話し合いで解決しようとしました。もし相手に失礼なことをされたら、その時こそ戦う理由ができる、という考え方だったのです。

また、賛成派の中には、「日本は強くなったことを近くの国に見せるべきだ」という人たちもいました。彼らは、朝鮮を開国させることで、日本の立場をアジアで高めようとしたのです。

士族たちの怒りを外にそらすためにも、征韓論は支持されました。特に、武士だった人たちは「もう一度戦えるなら嬉しい!」と考える人が多かったのです。

征韓論に反対した人は誰?その主張を解説

一方で、「今は朝鮮を攻める時ではない!」と反対した人たちもいます。反対派の中心人物は、大久保利通、岩倉具視、木戸孝允などです。

彼らは、ヨーロッパやアメリカを回って日本との違いに驚きました。まだ日本は新しい制度ができたばかりで、教育、経済、軍隊も未熟だったのです。

「今は内政(ないせい)をしっかり整えるべきだ。戦争している場合ではない」というのが、反対派の意見でした。

また、戦争をすればお金がかかり、国が混乱する可能性もあります。反対派は、「まずは国内を強くしてから外交を考えよう」と主張したのです。

征韓論が否定された理由と「明治六年の政変」

最終的に征韓論は採用されず、反対派の意見が通ることになりました。そのときに起きた政治の争いが「明治六年の政変」です。

西郷隆盛が「自分が朝鮮に行って話し合う」と決まりかけていたのですが、大久保利通や岩倉具視が「それは危険すぎる」と反対しました。

明治天皇も悩んだ末、「今はやめておこう」と判断。西郷たちはこれに反発して、政府の役職を一斉に辞めてしまいました。これが「明治六年の政変」です。

この事件は、のちに起きる「西南戦争」や士族反乱のきっかけにもなっていきます。

征韓論とは何か分かりやすく:影響と朝鮮の歴史へのつながり

征韓論は、明治時代初期の日本の外交政策をめぐる大きな論争でした。この議論がどのような影響を残したのか、そして日本や朝鮮の歴史にどのようにつながっていったのかを詳しく見ていきましょう。

征韓論が否定された結果、日本国内で起こった変化

征韓論が否定されたことで、日本国内では大きな変化が起こりました。特に影響を受けたのが「士族」と呼ばれる、もともと武士だった人たちです。

征韓論に賛成していた士族たちは、「もう一度戦える」と期待していたのに、それが実現しなかったため、大きな不満を持つようになりました。その結果、士族たちの反乱が各地で発生しました。その中でも特に大きなものが西南戦争(せいなんせんそう)です。

西南戦争は、征韓論を唱えていた西郷隆盛が中心となり、1877年(明治10年)に起こった国内最大の士族の反乱でした。結局、西郷は政府軍に敗れ、最後は鹿児島の城山で自刃(じじん=自ら命を絶つこと)しました。

この戦いをきっかけに、政府はさらに士族の特権をなくし、日本は本格的な近代国家への道を進むことになったのです。

征韓論が朝鮮との関係に与えた影響

征韓論は、日本と朝鮮の関係にも大きな影響を与えました。最初は戦争にならなかったものの、数年後には江華島事件(こうかとうじけん)という武力衝突が起こります。

江華島事件とは、1875年(明治8年)に日本の軍艦が朝鮮の江華島(現在の韓国)近くで測量を行い、それに対して朝鮮側が砲撃した事件です。これをきっかけに、日本は日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)という条約を結びました。

この条約は、日本にとって有利な条件で、朝鮮の開国を強制するものでした。つまり、征韓論が直接実行されなかったとしても、結局は武力を使って朝鮮との関係を変えたのです。

征韓論がその後の日清戦争・日露戦争につながる

征韓論によって日本の外交政策は変化し、朝鮮との関係はどんどん緊張していきました。そして、日本はやがて朝鮮をめぐって清(しん:中国の王朝)と戦うことになります。これが日清戦争(にっしんせんそう)です。

日清戦争(1894年~1895年)は、朝鮮半島をめぐって日本と清が戦った戦争で、日本が勝利しました。その結果、日本は清から朝鮮の支配権を奪い、さらに台湾を植民地にすることになりました。

しかし、朝鮮をめぐる争いはこれで終わりません。今度はロシアが朝鮮に進出しようとし、日本と対立しました。そして、1904年には日露戦争(にちろせんそう)が始まりました。この戦争も日本が勝利し、最終的に朝鮮は日本の影響下に置かれることになったのです。

つまり、征韓論は否定されたものの、日本の朝鮮への関心は消えず、のちの戦争へとつながっていったのです。

征韓論の歴史的評価とは?

征韓論については、歴史家の間でもさまざまな評価があります。

肯定的な意見としては、「征韓論が実現していれば、日本と朝鮮の関係は早く改善されたかもしれない」と考える人もいます。また、当時の日本は欧米列強の圧力にさらされており、「朝鮮を仲間に引き入れなければ、日本が植民地になっていたかもしれない」という意見もあります。

否定的な意見としては、「武力で他国を開国させるのは間違っていた」と考える人が多いです。結果的に、日本は朝鮮との関係を悪化させ、のちの戦争や植民地支配につながってしまいました。もし、外交を重視して話し合いで解決していれば、もっと平和的な関係を築けたかもしれません。

征韓論は、今の時代から見ると賛否が分かれる議論ですが、日本の近代史を理解する上でとても重要な出来事です。

総括:征韓論をわかりやすく解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 征韓論とは?
    • 明治時代初期、日本が朝鮮に武力で開国を迫ろうとした考え方。
    • 朝鮮が日本からの国交申し入れを拒否したことが発端。
  • 征韓論が生まれた理由
    • 朝鮮が日本の国交要求を拒絶し、敵対的な態度を示した。
    • 欧米列強の進出に対抗するため、アジアの団結が必要だった。
    • 明治維新後、不満を持つ士族の怒りを外に向ける目的もあった。
  • 征韓論に賛成した人(賛成派)
    • 西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎など。
    • 朝鮮と対等な関係を築くため、戦争も辞さない姿勢。
    • 国内の士族の不満を解消する狙いもあった。
  • 征韓論に反対した人(反対派)
    • 大久保利通、岩倉具視、木戸孝允など。
    • 「日本はまだ戦争できる状態ではなく、まずは内政を整えるべき」と主張。
    • 欧米視察を通じて、日本の国力不足を実感していた。
  • 明治六年の政変(1873年)
    • 西郷隆盛の朝鮮派遣計画が決定されるも、大久保利通らが阻止。
    • 明治天皇が派遣を取りやめ、西郷ら賛成派は政府を辞職。
    • これが後の士族反乱(西南戦争)のきっかけとなる。
  • 征韓論が日本国内に与えた影響
    • 政府に不満を持つ士族の間で反乱が相次ぐ。
    • 西南戦争(1877年)で西郷隆盛が敗れ、士族の時代が終わる。
    • 日本はさらに近代化を進め、強い中央集権国家へと移行。
  • 征韓論が朝鮮との関係に与えた影響
    • 1875年の江華島事件をきっかけに、日朝修好条規が締結。
    • これは朝鮮に不利な内容で、日本の朝鮮支配の足がかりとなった。
    • この後、日本は日清戦争(日露戦争)を経て、朝鮮を植民地化。
  • 征韓論の歴史的評価
    • 肯定派:「欧米列強の圧力に対抗するためには必要だった」
    • 否定派:「武力で他国を開国させるのは誤りであり、後の日韓関係悪化の要因になった」