8代将軍・徳川吉宗の孫であり、江戸幕府の老中として活躍した松平定信(まつだいらさだのぶ)は、「寛政の改革」を行ったことで有名です。しかし、彼の功績はそれだけではありません!
藩主時代の飢饉対策、教育の普及、さらには犯罪者の更生施設の設立など、政治だけでなく社会全体の仕組みを変えた人物なのです。
また、彼の前に政治を担当していた田沼意次(たぬまおきつぐ)とは、考え方が大きく異なります。商業を重視した田沼意次に対し、松平定信は「倹約」を重視しました。果たしてどちらの政策が正しかったのでしょうか?
この記事では、松平定信がしたことをわかりやすく解説し、田沼意次との違いを比較しながら、彼の功績をしっかり学んでいきます!
松平定信がしたことを簡単に解説!多方面での功績を紹介

まず最初に、松平定信がしたことを簡単に解説していきます。
松平定信とは?経歴と人物像を簡単に解説
松平定信は、1758年(宝暦8年)に生まれました。徳川吉宗の孫であり、田安家という徳川一門の家柄です。しかし、将軍になることはなく、養子に出されて白河藩(しらかわはん)の藩主となりました。
彼はとてもまじめで倹約家(無駄遣いをしない人)でした。そして、学問を大切にし、強い信念を持って政治を行う人物でした。
28歳のときに幕府の老中となり、「寛政の改革」を主導しました。江戸の秩序を立て直そうと、質素倹約(お金を無駄に使わないこと)を進め、乱れた社会を引き締めようとしました。
しかし、あまりにも厳しすぎたために将軍・徳川家斉と対立し、わずか6年で老中の座を追われてしまいます。それでも引退後も学問や文化活動を続け、多くの本を残しました。
白河藩での功績とは?藩政改革で領民を救った
松平定信は、江戸幕府の老中になる前、白河藩の藩主としても立派な政治を行いました。特に注目すべきなのが天明の大飢饉(てんめいのだいききん)への対応です。
天明の大飢饉とは、1782年から1787年にかけて起こった大規模な食糧不足のことです。特に東北地方では、農作物が取れず、多くの人が餓死してしまいました。
そんな中、松平定信は白河藩の人々を助けるために、すぐに行動しました。
- 越後(現在の新潟県)から米を買い付けて運ぶ
- 江戸や大阪に家臣を派遣し、食糧を確保する
- 税を免除し、農民の負担を軽くする
- 新しい田んぼを作る(新田開発)
こうした努力のおかげで、白河藩では餓死者を出さなかったといわれています。この手腕が評価され、のちに幕府の老中へと抜擢されたのです!
寛政の改革とは?幕政改革の全容を解説
1787年、松平定信は老中首座(幕府のトップ)となり、「寛政の改革」を実行しました。では、具体的にどんなことを行ったのでしょうか?
✅ 幕府の財政を立て直すための倹約令
幕府のお金の使い方を厳しくし、無駄をなくしました。大名たちにも節約を求め、贅沢な遊びを制限しました。
✅ 「人足寄場(にんそくよせば)」の設立
犯罪者をそのまま放置するのではなく、職業訓練をして社会復帰させる施設を作りました。これが、日本の刑務所制度の元となっています。
✅ 「昌平坂学問所」の整備
幕府が運営する学校を充実させ、優秀な人材を育てる仕組みを作りました。
✅ 出版物の規制(風紀の引き締め)
「町の風紀を正すため」として、浮世絵や洒落本(しやれぼん)などの娯楽本を禁止しました。
✅ 海防の強化
ロシアが日本に接近してきたため、沿岸部の警備を強化しました。
こうして、寛政の改革は社会の立て直しを目指したものでしたが、厳しすぎる政策も多く、人々の不満がたまり、結果的に失脚することになります。
文化事業にも貢献!松平定信が残した知的遺産
政治だけでなく、松平定信は文化や教育にも貢献しました。
📖 『宇下人言(うげのひとこと)』
自らの政治経験を記した本で、歴史的にも貴重な資料となっています。
📖 『花月草紙(かげつそうし)』
江戸時代の出来事や日常の話を書いた随筆です。
🏞 南湖公園(なんここうえん)を開設
福島県白河市にある日本最古の公園で、武士や庶民が一緒に楽しめる場所として作られました。
彼は歴史や文化を大切にし、多くの知識を残した偉大な人物でもあったのです。
老中失脚後も続いた松平定信の活動とは?
松平定信は、寛政の改革での厳しい政策が原因で1793年に老中を辞めさせられました。
しかし、その後も彼の活動は続きました。
- 白河藩に戻り、藩政の指導を続ける
- 教育や文化活動に専念し、多くの本を執筆
- 海防の重要性を説き、幕府に警告を出す
彼は、幕府から遠ざけられた後も、政治や社会のために動き続けました。1829年、72歳で亡くなるまで、学問を愛し続けた人物でした。
松平定信がしたことを簡単に:田沼意次の違い

松平定信の政策を学んだところで、もう一人の重要な人物田沼意次(たぬまおきつぐ)と比べてみましょう。田沼意次は、松平定信よりも前に幕府の中心人物として活躍しました。
彼の政治と松平定信の政治はまったく違う方針でした。どんな違いがあるのか、詳しく見ていきましょう!
田沼意次とは?どんな政治を行った人物なのか
田沼意次は、9代将軍徳川家重(とくがわいえしげ)、そして10代将軍徳川家治(とくがわいえはる)の時代に、幕府の政治を支えた人物です。彼は、松平定信とは逆の考え方を持っていました。
✅ 「商業を活発にして、幕府の財政を良くする」という考え
✅ 自由な経済活動を認めて、お金をたくさん動かす
✅ 新しい技術や知識を取り入れて、発展を目指す
田沼意次は「株仲間(かぶなかま)」という商人の組織を作らせました。これは、今の会社のようなものです。商人たちは、幕府にお金を納める代わりに、独占的に商売ができる仕組みを作りました。
しかし、田沼意次の政治には悪い面もありました。
- 賄賂(わいろ)が横行し、お金のある人が優遇される社会になった
- 貧しい農民の生活はあまり良くならなかった
- 天明の大飢饉のときに、しっかりとした対策が取れなかった
こうして、田沼意次は批判を受けて失脚し、幕府の政治は松平定信に引き継がれることになったのです。
松平定信と田沼意次の政策を比較!改革の違いとは?
では、松平定信と田沼意次の政策の違いを具体的に比較してみましょう。
比較項目 | 松平定信 | 田沼意次 |
---|---|---|
政策の方向性 | 倹約・財政再建 | 商業振興・経済成長 |
財政政策 | 幕府の財政を引き締め、節約を重視 | 商業の発展を促進し、税収を増やす |
社会政策 | 貧民救済・犯罪者更生(人足寄場) | 商人を優遇し、経済を活発にする |
教育政策 | 幕府直轄の学校「昌平坂学問所」を強化 | 学問の自由が広く認められる |
対外政策 | ロシアの接近に対し海防を強化 | 貿易を拡大しようとする |
賄賂の有無 | 賄賂を徹底的に排除 | 賄賂が横行し、批判を受ける |
政治の評価 | 厳しすぎて人々の不満を招く | 一部の商人に利益が集中し、格差が拡大 |
このように、松平定信と田沼意次はまったく逆の政策を行いました。
田沼意次の時代は、お金の流れを増やし、商業を発展させることで経済を良くしようとしましたが、商人ばかりが得をする世の中になり、農民たちの暮らしは苦しくなっていきました。
一方、松平定信は「無駄遣いをやめ、秩序を重視する」ことで社会を安定させようとしましたが、厳しすぎる政策が多く、人々に不満を与えてしまいました。
松平定信と田沼意次、どちらの政策が成功したのか?
「結局、どちらの政治が良かったの?」という疑問を持つかもしれません。実は、どちらにも良い面と悪い面がありました。
✅ 田沼意次の良かった点
- 商業が発展し、経済の仕組みが近代的になった
- 新しい技術や知識が広まった
- 海外との貿易を進めようとした
❌ 田沼意次の悪かった点
- 賄賂政治で不公平な社会になった
- 農民の生活が苦しくなった
- 天明の大飢饉の対策が不十分だった
✅ 松平定信の良かった点
- 社会の秩序を取り戻した
- 貧しい人や犯罪者を助ける制度を作った(人足寄場)
- 教育を重視し、優秀な人材を育てようとした
❌ 松平定信の悪かった点
- 倹約を求めすぎて、経済が停滞した
- 政治が厳しすぎて、人々の不満を招いた
- 短期間で失脚してしまった
つまり、田沼意次の政策は「商業を発展させたが、賄賂政治になりすぎた」、松平定信の政策は「社会を引き締めたが、厳しすぎた」ということになります。
どちらも一長一短があり、完璧な政治ではなかったのです。
松平定信の評価は?厳格すぎた政治の賛否
松平定信は、真面目で理想が高い政治家でした。しかし、厳しすぎる改革が人々にとっては負担となり、結果的に短期間で辞めさせられてしまいました。
✅ 評価される点
- 幕府の財政を立て直した
- 犯罪者の更生制度を作った(人足寄場)
- 教育を重視し、幕府の学問を発展させた
❌ 批判される点
- 倹約を徹底しすぎて、町が活気を失った
- 出版規制や風紀取締が厳しすぎた
- 将軍や大奥と対立し、失脚した
厳格な改革は、一部の人には評価されましたが、多くの人には「窮屈で生きづらい」と思われたのです。
現代における松平定信の評価と影響とは?
松平定信の政策は、現代にも影響を与えています。
- 「人足寄場」は現代の刑務所制度の原型となった
- 社会福祉の考え方が生まれ、貧しい人への支援の重要性が広まった
- 教育を重視する政策が、後の幕府の人材育成に影響を与えた
彼の改革は厳しすぎた面もありますが、「社会を良くしよう」という本気の思いがあったことは間違いありません。
総括:松平定信がしたことを簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. 松平定信の基本情報
- 1758年生まれ、徳川吉宗の孫。
- 田安家の出身で、白河藩の藩主となる。
- まじめで倹約家、学問を重視する人物。
- 28歳で幕府の老中となり、「寛政の改革」を実行。
- 厳しい改革が原因で6年で失脚。
2. 白河藩での功績
- 天明の大飢饉への対応
- 越後から米を買い付けて供給。
- 江戸・大阪から食糧を確保。
- 税の免除と新田開発で農民を支援。
- 飢饉による餓死者を出さなかった。
- これらの功績が評価され、幕府の老中に抜擢。
3. 幕政改革(寛政の改革)
- 幕府財政を立て直すための倹約令
- 幕府の無駄遣いを減らし、大名の贅沢を制限。
- 人足寄場の設立
- 犯罪者の更生施設を作り、職業訓練を行う。
- 教育制度の整備
- 昌平坂学問所を強化し、学問を重視。
- 出版物の規制
- 風紀を正すために浮世絵・娯楽本を禁止。
- 海防の強化
- ロシアの接近に備え、沿岸警備を強化。
4. 文化・知的遺産への貢献
- 著作
- 『宇下人言』…政治経験を記録した書籍。
- 『花月草紙』…江戸時代の日常を描いた随筆。
- 南湖公園の開設
- 福島県白河市に日本最古の公園を作り、庶民の憩いの場を提供。
5. 田沼意次との違い
比較項目 | 松平定信 | 田沼意次 |
---|---|---|
政策の方向性 | 倹約・財政再建 | 商業振興・経済成長 |
財政政策 | 節約を重視 | 商業の発展を促進 |
社会政策 | 貧民救済・犯罪者更生(人足寄場) | 商人を優遇し、経済活性化 |
教育政策 | 昌平坂学問所を強化 | 学問の自由を促進 |
対外政策 | 海防を強化 | 貿易を推進 |
賄賂の有無 | 賄賂を排除 | 賄賂が横行 |
政治の評価 | 厳しすぎて不満を招く | 一部の商人が得をし、格差が拡大 |
6. 松平定信の失脚とその後
- 政策が厳しすぎて不満を集め、老中を辞任。
- 白河藩に戻り、藩政指導・教育・文化活動に専念。
- 海防の重要性を幕府に警告。
- 1829年、72歳で死去。
7. 現代への影響
- 人足寄場 → 現在の刑務所制度の原型
- 社会福祉の考え方の普及 → 貧民救済の意識向上
- 教育重視の政策 → 幕府の人材育成に貢献