「薩長同盟」という言葉を聞いたことがありますか?
日本の歴史の中でもとても重要な出来事です。幕末の日本では、徳川幕府が力を失い、多くの人々が「これからの日本をどうするべきか?」と考えていました。
そんな中、もともと敵対していた薩摩藩(現在の鹿児島県)と長州藩(現在の山口県)が手を組み、新しい時代を作るための第一歩を踏み出したのです!
この同盟がなかったら、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。では、なぜ敵同士だった薩摩と長州が手を組んだのでしょうか?そして、その結果、何が起こったのでしょうか?
今回は、薩長同盟を分かりやすく塾長が解説していきますよ!
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薩長同盟をわかりやすく解説!目的・背景・成立過程
幕末、日本の歴史を大きく動かした「薩長同盟」。これは、敵対していた薩摩藩と長州藩が手を結び、江戸幕府の終焉を加速させた重要な出来事です。しかし、なぜこの同盟が必要だったのでしょうか?また、どのように成立したのでしょうか?
ここでは、薩長同盟の目的や背景、関係した人物についてわかりやすく解説します。
薩長同盟とは?簡単にわかりやすく解説
薩長同盟(さっちょうどうめい)とは、1866年(慶応2年)に薩摩藩と長州藩が結んだ同盟のことです。この二つの藩は、もともと仲が悪かったのですが、共通の敵である「徳川幕府」を倒すために協力することを決めました。
この同盟を仲介したのが、坂本龍馬(さかもとりょうま)と中岡慎太郎(なかおかしんたろう)という二人の志士です。彼らは、それぞれの藩のリーダーたちを説得し、同盟を結ばせました。薩長同盟が結ばれたことで、幕府の力はどんどん弱まり、最終的には明治維新へとつながっていったのです。
つまり、薩長同盟は日本の歴史を大きく変えた「転換点」ともいえる出来事だったのですね!
薩摩藩と長州藩はなぜ対立していたのか?
もともと薩摩藩と長州藩は犬猿の仲でした。長州藩は「尊王攘夷(そんのうじょうい)」を掲げ、外国を追い出そうとしましたが、薩摩藩は「公武合体(こうぶがったい)」といって、幕府と朝廷が協力すべきだと考えていました。この考え方の違いが、対立の大きな原因だったのです。
特に、1863年の「八月十八日の政変(はちがつじゅうはちのせいへん)」では、薩摩藩と会津藩が手を組み、長州藩の勢力を京都から追い出しました。その翌年の「禁門の変(きんもんのへん)」では、長州藩が京都を攻めたものの、薩摩藩に大敗してしまいました。
これにより、長州藩は「朝敵(ちょうてき)」とされ、幕府から厳しい処分を受けることになります。
このように、薩摩藩と長州藩は何度も戦い、深い恨みを持つ関係になっていたのです。それなのに、なぜこの二つの藩が手を組んだのでしょうか?
なぜ薩摩と長州は手を組んだのか?その理由を解説
薩摩藩と長州藩が手を組んだ理由は、大きく分けて三つあります。
- 共通の敵「幕府」がいたから
長州藩は「禁門の変」の後、幕府から厳しい処分を受け、軍事的にも追い詰められていました。一方、薩摩藩も幕府のやり方に不満を持ち始め、倒幕を考え始めていました。そんな中、「幕府を倒すために手を組もう!」という考えが生まれたのです。 - 外国の力を知ったから
薩摩藩は1863年にイギリスと戦った「薩英戦争(さつえいせんそう)」で、長州藩は1864年に欧米4か国の連合艦隊と戦った「四国艦隊下関砲撃事件(しこくかんたいしものせきほうげきじけん)」で、外国の強さを痛感しました。この経験を通じて、「外国と対等に戦うためには、日本がまとまらなければならない」と考えるようになったのです。 - お互いに利益があったから
長州藩は幕府の命令で武器の購入を禁止されていましたが、薩摩藩はイギリスとの貿易を通じて最新の武器を手に入れていました。薩摩藩が長州藩に武器を供給することで、長州藩は軍事力を強化でき、薩摩藩は倒幕のための強力な味方を得ることができたのです。
こうして、両藩の利害が一致し、ついに薩長同盟が結ばれることになりました。
薩長同盟の成立!坂本龍馬と中岡慎太郎の活躍
薩長同盟の成立には、坂本龍馬と中岡慎太郎の活躍が欠かせません。彼らは、それぞれの藩のリーダーたちを説得し、何度も交渉を重ねました。
特に、坂本龍馬は「亀山社中(かめやましゃちゅう)」という貿易会社を設立し、薩摩藩と長州藩の間で武器の取引を仲介しました。これにより、長州藩は幕府に対抗できるだけの武器を手に入れることができたのです。
また、中岡慎太郎は薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)と長州藩の桂小五郎(木戸孝允)を引き合わせ、直接交渉を行わせました。この会談は一度失敗に終わりましたが、坂本龍馬の説得によって再び実現し、1866年1月に京都で「薩長同盟」が締結されました。
薩長同盟は、文書として残されることはありませんでしたが、その内容は坂本龍馬が覚えており、後に長州藩の木戸孝允が記録しました。この同盟があったからこそ、長州藩は幕府との戦いに勝つことができ、明治維新への道が開かれたのです。
薩長同盟の内容とは?具体的な6つの約束
薩長同盟は、単なる友好関係ではなく、明確な約束を含んだ「軍事・政治同盟」でした。その内容は、以下の6つの約束にまとめられています。
- 長州藩が幕府と戦争になった場合、薩摩藩はすぐに援軍を送ること。
- もし長州藩が幕府軍に攻められた場合、薩摩藩はすぐに兵を派遣し、軍事的に支援することが決められました。
- もし長州藩が幕府軍に攻められた場合、薩摩藩はすぐに兵を派遣し、軍事的に支援することが決められました。
- 長州藩が戦いに勝利したら、薩摩藩は朝廷に働きかけ、長州藩の名誉回復を図ること。
- 禁門の変以降、長州藩は「朝敵」とされていました。この汚名をそそぐため、薩摩藩が朝廷に働きかけ、長州藩の名誉を回復することも約束されました。
- 禁門の変以降、長州藩は「朝敵」とされていました。この汚名をそそぐため、薩摩藩が朝廷に働きかけ、長州藩の名誉を回復することも約束されました。
- 長州藩が戦いに敗れた場合でも、薩摩藩は長州藩を見捨てず、再興を支援すること。
- もし長州藩が幕府に負けたとしても、薩摩藩は復興に向けた支援を行うことが取り決められました。
- もし長州藩が幕府に負けたとしても、薩摩藩は復興に向けた支援を行うことが取り決められました。
- 戦争が終わった後、薩摩藩は朝廷に働きかけ、長州藩が朝敵でなくなるように努力すること。
- 長州藩が戦争で勝っても負けても、朝廷との関係を改善し、幕府の影響力を減らすために薩摩藩が協力することを決めました。
- 長州藩が戦争で勝っても負けても、朝廷との関係を改善し、幕府の影響力を減らすために薩摩藩が協力することを決めました。
- 幕府の側にいる会津藩や桑名藩が薩摩藩や長州藩に敵対した場合、両藩は一致団結して戦うこと。
- 幕府の有力藩である会津藩や桑名藩が攻撃してきた場合、薩摩藩と長州藩は一緒に戦うことが約束されました。
- 幕府の有力藩である会津藩や桑名藩が攻撃してきた場合、薩摩藩と長州藩は一緒に戦うことが約束されました。
- 長州藩の名誉が回復した後は、薩摩藩と長州藩は協力して、日本の新しい時代を築くこと。
- 倒幕後の新しい国づくりに向けて、薩摩藩と長州藩が力を合わせることを誓いました。
このように、薩長同盟は単なる友好関係ではなく、「幕府と戦うための強い結束」として成立したのです。
薩長同盟を分かりやすく:影響とその後の歴史
薩長同盟の締結によって、日本の歴史は大きく動き出しました。ここからは、この同盟がもたらした影響と、その後の歴史の流れについて解説します。
薩長同盟の影響とは?倒幕への加速
薩長同盟が結ばれたことで、幕府の権力は一気に弱まることになりました。その理由は以下の通りです。
- 薩摩藩が幕府に反旗を翻した
これまで幕府寄りだった薩摩藩が長州藩と手を組んだことで、「幕府はもう頼りにならない」と多くの人が考えるようになりました。 - 長州藩が戦力を回復した
薩摩藩を通じてイギリスから最新の武器を手に入れた長州藩は、幕府に対抗できる力を持ちました。 - 西郷隆盛や大久保利通の倒幕決意が固まった
薩摩藩のリーダーだった西郷隆盛や大久保利通は、この同盟をきっかけに「幕府を倒すしかない」と考え、行動を加速させました。
このように、薩長同盟は幕府の崩壊を決定づける重要な出来事だったのです。
第二次長州征討と長州藩の勝利
薩長同盟が結ばれた5か月後の1866年6月、幕府は「第二次長州征討(ちょうしゅうせいとう)」を開始しました。しかし、結果は長州藩の大勝利でした。その理由は以下の通りです。
- 最新兵器を装備していた
- 薩摩藩経由で購入したイギリス製の最新式ライフル銃を使い、幕府軍を圧倒しました。
- 軍隊の近代化が進んでいた
- 大村益次郎(おおむらますじろう)という軍事指導者が、長州藩の軍を近代的な西洋式軍隊に改革していました。
- 幕府軍の士気が低かった
- 幕府軍の兵士たちは「本当に戦う必要があるのか?」と疑問に感じており、士気が低下していました。
この戦いでの敗北は、幕府の終焉を決定づける出来事となりました。
政奉還と幕府の終焉
第二次長州征討の敗北後、幕府の存続は厳しくなり、1867年には「大政奉還(たいせいほうかん)」が行われました。これは、第15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が政権を朝廷に返上した出来事です。
しかし、これで幕府が完全に終わったわけではありません。まだ徳川家の影響力は残っており、最終的には薩長同盟のもとで「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」が勃発しました。
戊辰戦争と明治新政府の誕生
1868年、薩摩藩と長州藩を中心とした「新政府軍」は、旧幕府軍と戦いました。この戦いを「戊辰戦争」といいます。
戦争は約1年間続きましたが、薩長同盟の力で新政府軍が勝利し、幕府は完全に消滅しました。
その後、日本は「明治新政府」による新しい政治体制へと移行していきます。
薩長同盟が日本に残したものとは?
薩長同盟がなければ、幕府はもっと長く続いていたかもしれません。この同盟によって、日本は近代化への道を歩み始めました。
- 武士の時代が終わり、近代国家が誕生
- 中央集権体制の政府が成立
- 新しい軍隊や教育制度が導入され、日本が近代化
このように、薩長同盟は日本の歴史を大きく変えた出来事だったのです。
総括:薩長同盟をわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. 薩長同盟とは?
- 1866年(慶応2年)に薩摩藩(鹿児島)と長州藩(山口)が結んだ軍事・政治同盟
- 共通の敵「徳川幕府」を倒すために手を組んだ
- 仲介したのは 坂本龍馬 と 中岡慎太郎
2. なぜ薩摩と長州は対立していた?
- 政治思想の違い
- 薩摩藩 → 公武合体(幕府と朝廷が協力すべき)
- 長州藩 → 尊王攘夷(幕府を倒し、外国を追い出す)
- 戦争の歴史
- 八月十八日の政変(1863年) → 薩摩が長州を京都から追放
- 禁門の変(1864年) → 長州が京都で敗北し「朝敵」に
3. 薩摩と長州が手を組んだ理由
- 共通の敵「幕府」がいた
- 長州は幕府から厳しい処分を受け、薩摩も幕府に不満を持ち始めていた
- 外国の力を知った
- 薩摩:薩英戦争(1863年)
- 長州:四国艦隊下関砲撃事件(1864年)
- 武器の取引による利益
- 長州は幕府から武器購入を禁止されていたが、薩摩を通じて最新の武器を入手
4. 薩長同盟の成立と内容
- 坂本龍馬の貿易会社「亀山社中」が武器の仲介
- 京都の薩摩藩邸で同盟が締結(1866年1月)
- 薩長同盟の6つの約束
- 長州が幕府と戦争になったら薩摩は援軍を送る
- 長州が勝利したら薩摩が朝廷に働きかけ、長州の名誉回復を図る
- 長州が負けても薩摩は見捨てず、復興を支援する
- 戦争後、薩摩は長州の「朝敵」解除に尽力する
- 会津藩や桑名藩が攻撃したら、薩長は団結して戦う
- 長州の名誉回復後、両藩で新しい日本を作る
5. 薩長同盟の影響とその後
- 倒幕運動が加速
- 薩摩藩が幕府から離れ、倒幕派に
- 長州藩が最新武器を装備し、軍隊の近代化を進める
- 第二次長州征討(1866年6月)で幕府軍が敗北
- 長州藩の勝利により、幕府の威信が低下
- 1867年「大政奉還」 → 徳川慶喜が政権を朝廷に返上
- 1868年「戊辰戦争」 → 幕府軍と新政府軍(薩長同盟)が戦い、新政府軍が勝利
- 明治新政府が誕生(1869年)
6. 薩長同盟が日本に残した影響
- 武士の時代が終わり、近代国家が誕生
- 中央集権体制の政府が成立
- 西洋式の軍隊や教育制度が導入され、日本が近代化
