幕末の歴史に出てくる「長州征伐」という戦いを知っていますか?

これは、江戸幕府が長州藩を討伐しようとした大きな戦争です。しかし、結果は幕府軍の敗北!なぜ、幕府は負けてしまったのでしょうか?

今回は、長州征伐の流れや幕府の敗因を、塾長が分かりやすく解説します。テストにも役立つ内容なので、ぜひ最後まで読んでくださいね!

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長州征伐とは?2度の戦いの背景と流れを解説

長州征伐(ちょうしゅうせいばつ)は、幕末に幕府が長州藩を討伐しようとした戦争です。戦いは2回にわたって行われ、結果的に幕府が敗北しました。

長州藩はなぜ戦うことになったのか?どのような戦いが繰り広げられたのか?まずは、その流れを見ていきましょう!

長州征伐とは?幕府が長州藩を討伐しようとした理由

長州征伐が行われた背景には、「長州藩と幕府の対立」があります。長州藩はもともと尊王攘夷(そんのうじょうい)という考えを持っており、外国を追い出し、天皇を中心とした政治を目指していました。

しかし、この考えが幕府の政策と対立!1863年の「八月十八日の政変」で、長州藩は京都から追放されてしまいます。

このことに怒った長州藩は、翌年の1864年、「禁門の変(きんもんのへん)」という戦いを起こしました。これは、京都御所に攻め込もうとした事件ですが、幕府軍に敗北。長州藩は「朝敵(ちょうてき)」とみなされてしまいました。

こうして、幕府は長州藩を討伐するために「長州征伐」を決定したのです。

第一次長州征伐(1864年)の経緯と結果

幕府は長州藩を懲らしめるために、全国の藩を集め、大軍を編成しました。この戦いを「第一次長州征伐」といいます。しかし、実際には大きな戦闘は起こりませんでした。なぜなら、長州藩が戦う前に降伏したからです!

幕府の要求に従い、長州藩は「禁門の変」の責任者だった家老(かろう)3名を切腹させ、藩の代表が謝罪文を提出しました。

こうして、幕府は勝利した形となり、軍を引き上げました。しかし、これが長州藩の反発を招き、第二次長州征伐へとつながるのです。

第二次長州征伐(1866年)の経緯と長州藩の徹底抗戦

第一次長州征伐の後、長州藩の中では「幕府に従うべきだ」と考える派閥と、「絶対に倒幕(とうばく)すべきだ」と考える派閥が対立しました。その中で、倒幕派を率いたのが高杉晋作(たかすぎしんさく)です!彼は藩内でクーデターを起こし、長州藩の実権を握ります。

こうして、長州藩は幕府に屈せず、武器を集めて戦う準備を始めました。

一方、幕府も長州藩を完全に潰そうと、1866年に「第二次長州征伐」を開始しました。しかし、長州軍は西洋式の最新武器を持ち、戦術も進化していました。こうして、各地で幕府軍を圧倒していきます。

長州征伐の戦場と主な戦い【大島口・芸州口・石州口】

第二次長州征伐では、いくつかの戦場で戦いが繰り広げられました。

  • 大島口(おおしまぐち): 長州軍が海上で戦い、幕府軍の進軍を阻止
  • 芸州口(げいしゅうぐち): 山中での戦闘が中心となり、長州軍が有利に戦った
  • 石州口(せきしゅうぐち): 大村益次郎(おおむらますじろう)率いる長州軍が幕府軍を壊滅させた
  • 小倉口(こくらぐち): 九州でも戦いが起こり、長州軍が勝利

特に石州口では、長州軍の「散兵戦術(さんぺいせんじゅつ)」が効果を発揮しました。この戦いで幕府軍の戦意は大きく下がっていきます。

薩長同盟の締結と幕府の衰退

長州藩は幕府と戦いながら、薩摩藩と手を結びました。これが「薩長同盟(さっちょうどうめい)」です。

薩摩藩の支援によって、長州藩は最新兵器を入手し、戦力を強化しました。一方、幕府軍は各地で敗北を重ね、戦う力を失っていきます。さらに、この戦いの最中に将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)が病死!指揮をとる人物を失った幕府軍は混乱し、結果的に撤退を決定しました。

こうして、第二次長州征伐は長州藩の勝利に終わったのです。

なぜ幕府軍は長州征伐で負けたのか?敗因を徹底解説

幕府軍は全国の藩から多くの兵を集め、数の上では圧倒的な軍勢を誇っていました。しかし、なぜ長州軍に敗北してしまったのでしょうか?

ここからは、幕府軍の敗因を詳しく見ていきます!

幕府軍の指揮系統の乱れと諸藩の足並みの不一致

幕府軍は全国から集まった寄せ集めの軍隊でした。参加したのは尾張藩や紀州藩、彦根藩などの西日本の有力な藩でしたが、彼らには「本気で戦う理由」がなかったのです。

なぜなら、各藩にとって長州藩との戦いは「幕府に従うための義務」であり、彼ら自身の存亡がかかっているわけではありませんでした。

さらに、幕府軍の指揮官も次々に変わり、一貫した作戦を立てることができませんでした。特に小倉口では、総督の小笠原長行(おがさわらながみち)が戦況が悪くなると、勝手に撤退してしまうという大失態を犯しました。

このように、幕府軍は「戦う理由」と「指揮系統の安定性」の両方を欠いていたため、組織的な戦いができなかったのです。

長州軍の戦術の進化!西洋式の軍事訓練と散兵戦術

一方、長州軍は最新の戦術を取り入れていました。その中心にいたのが、大村益次郎(おおむらますじろう)という人物です。彼は西洋の軍事戦術を学び、それを長州軍に徹底的に訓練させました。その結果、長州軍は「散兵戦術(さんぺいせんじゅつ)」を駆使して戦いました。

散兵戦術とは

幕府軍は従来の日本の戦い方である「隊列を組んで戦う方法」を採用していました。しかし、長州軍はこれとは異なり、小さな部隊に分かれて戦う「散兵戦術」を使いました。

この戦法のメリットは以下の通りです。

  • 少人数で敵を攻撃できるため、柔軟に動ける
  • 戦場の地形を活かしやすい
  • 大軍を一度に迎え撃つのではなく、各地で少しずつ敵を倒す

特に石州口の戦いでは、この戦術が大きく機能し、長州軍は幕府軍を次々と撃破していきました。

薩長同盟による兵器と戦力の強化

幕府軍が長州征伐を行っている間に、長州藩は薩摩藩と同盟を結んでいました。この「薩長同盟」によって、長州藩は薩摩経由で最新の武器を手に入れ、戦力を大幅に強化することができました。

例えば、長州藩は以下のような最新武器を導入しました。

  • ミニエー銃(フランス製) → 900mの長距離射撃が可能
  • アームストロング砲(イギリス製) → 精度の高い砲撃ができる
  • 蒸気船 → 海上戦でも優位に立てる

一方、幕府軍は旧式の火縄銃や刀を多く使用しており、武器の面で大きく劣っていました。薩摩藩が長州を支援したことは、幕府軍の敗北を決定づける大きな要因のひとつでした。

幕府の財政難と兵の士気低下

戦争には莫大な費用がかかります。幕府は長州征伐のために多くの藩に出兵を命じましたが、その費用をすべて負担できたわけではありません。特に、長期戦になるにつれて兵士たちの食料や武器の補給が困難になり、士気がどんどん低下していきました。

また、長州藩の兵士は「自分たちの国を守るために戦う」という強い覚悟を持っていましたが、幕府軍の兵士たちは「命令だから戦う」という状況でした。この戦意の差も、勝敗を分けた大きな要因でした。

将軍・徳川家茂の死と幕府の混乱

長州征伐の最中、幕府にとって決定的な出来事が起こります。それが、将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の死です。

家茂は1866年8月29日、大坂城で病死しました。このニュースを聞いた幕府軍の兵士たちは一気に動揺し、戦意を失ってしまいました。

さらに、家茂の死後、次の将軍になるのが徳川慶喜(とくがわよしのぶ)でしたが、彼はすぐに戦の継続を諦め、停戦を決定しました。こうして幕府軍は撤退を決め、長州藩の勝利が確定したのです。

総括:長州征伐について解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

長州征伐とは?

  • 幕府が長州藩を討伐しようとした戦争(1864年・1866年の2回)。
  • 長州藩は「尊王攘夷」を掲げ、幕府と対立していた。
  • 1863年の「八月十八日の政変」で長州藩が京都から追放される。
  • 1864年に「禁門の変」を起こし、幕府に敗北。朝敵とされ、長州征伐が決定。

第一次長州征伐(1864年)

  • 幕府が全国の藩を動員し、大軍を編成。
  • 長州藩は戦わずに降伏し、家老3名を切腹・謝罪文提出。
  • 幕府の勝利に見えたが、長州藩内部で倒幕派が勢力を強める。

第二次長州征伐(1866年)

  • 長州藩内で高杉晋作ら倒幕派が実権を握る。
  • 幕府が再び討伐に乗り出すが、長州藩は徹底抗戦。
  • 主要戦場と戦いの流れ
    • 大島口:長州軍が海上で幕府軍を撃退。
    • 芸州口:山中戦で長州軍が優位。
    • 石州口:長州軍の散兵戦術で幕府軍を壊滅。
    • 小倉口:九州方面でも長州軍が勝利。
  • 薩長同盟(1866年)
    • 長州藩が薩摩藩と同盟を結び、最新兵器を獲得。
    • 戦力が強化され、幕府軍は劣勢に。

幕府軍の敗因

  1. 指揮系統の乱れと諸藩の足並みの不一致
    • 幕府軍は寄せ集めの軍隊で統率が取れず、本気で戦う意欲も低かった。
    • 指揮官が次々に変わり、作戦が一貫しなかった。
    • 小倉口では総督・小笠原長行が勝手に撤退。
  2. 長州軍の戦術の進化
    • 大村益次郎が西洋式の「散兵戦術」を導入。
    • 柔軟な小部隊戦で幕府軍を撃破。
  3. 薩長同盟による兵器と戦力の強化
    • 長州藩は薩摩藩経由で最新武器(ミニエー銃、アームストロング砲、蒸気船)を入手。
    • 幕府軍の旧式装備と大きな差が生まれた。
  4. 幕府の財政難と兵の士気低下
    • 長期戦で幕府軍は食糧・武器の補給が困難に。
    • 幕府軍の兵士は戦意が低く、長州軍の「祖国防衛」の意識と大きな差があった。
  5. 将軍・徳川家茂の死と幕府の混乱
    • 1866年8月、将軍・徳川家茂が病死。
    • 幕府軍の士気が一気に低下し、指揮系統が崩壊。
    • 徳川慶喜が戦継続を諦め、停戦を決定。

結果

  • 幕府軍が撤退し、長州藩の勝利。
  • 幕府の権威が大きく低下し、倒幕運動が加速。
  • 1867年の「大政奉還」につながり、江戸幕府が崩壊。