みんなは「清洲会議」という歴史の出来事を知っていますか?
戦国時代に起こった「本能寺の変」で織田信長が亡くなった後、織田家の未来を決めるために開かれた重要な会議です。この会議がなかったら、豊臣秀吉が天下を取ることもなかったかもしれません。
この記事では、清洲会議が開かれた背景や目的、参加した武将たち、決まったこと、さらにはその後の影響について詳しく解説します。塾長がわかりやすく説明するので、歴史が苦手な人も安心してくださいね!
※AmazonのKindle Unlimitedは月額980円ですが、3ヶ月無料期間があります。その間、読み放題対象の電子書籍は全部無料。途中で解約ももちろん自由。そのため、電子書籍が実質0円で読めます。以下に、歴史の語呂合わせに関連する無料書籍を載せておきます。
↓実質無料で読めるおすすめ歴史の読み物↓


清洲会議とは?概要・目的・開催地・メンバー
清洲会議は、織田信長の死後、織田家の未来を決定づける重要な会議でした。本能寺の変で主君を失った織田家は、家臣たちによって後継者と領土の再分配を決める必要に迫られ、緊急で開かれました。
その会議で決まったことが後の歴史に大きな影響を与えます。
清洲会議とは?織田家の後継者を決めた歴史的会議
清洲会議とは、本能寺の変(1582年)で織田信長と嫡男・信忠が討たれた後、織田家の後継者と領地の再配分を決めるために行われた会議です。
戦国時代の武将たちは、自分たちの主君が亡くなった後、次のリーダーを決めなければなりません。もし決めないまま放っておくと、家臣たちがバラバラになって戦争になってしまうからです。
この会議では、織田家の存続をかけた「後継者問題」と、武将たちがどの領地を治めるかを決める「領地の再配分」の2つが大きなテーマでした。つまり、清洲会議は「織田家をどう存続させるか」「領土をどう分けるか」を話し合う、非常に重要な場だったのです。
清洲会議が開かれた背景|本能寺の変からの流れ
清洲会議が開かれた理由は、「本能寺の変」にあります。天正10年(1582年)6月2日、織田信長は明智光秀の裏切りにより本能寺で自害しました。この時、信長の後継者である織田信忠も二条御所で討たれ、織田家は一気にリーダーを失ってしまったのです。
この事態を知った羽柴秀吉は、毛利家との戦いを素早く終わらせ、急いで京都へ戻りました。これが「中国大返し」です。秀吉はわずか10日ほどで京都に戻り、「山崎の戦い」で明智光秀を破りました。
しかし、信長の敵討ちが終わっても、織田家の新しいリーダーが決まらないと、家臣たちはバラバラになってしまいます。そこで織田家の重臣たちが集まり、後継者を決めるために開かれたのが「清洲会議」だったのです。
清洲会議の開催地|なぜ清洲城が選ばれたのか?
清洲会議は、現在の愛知県清須市にある「清洲城」で行われました。なぜこの城が選ばれたのでしょうか?
実は、清洲城は織田信長が若い頃に本拠地としていた場所でした。さらに、信長の孫である三法師(後の織田秀信)がこの城に住んでいたため、織田家の未来を決めるにはふさわしい場所だったのです。
また、清洲城は尾張の中心地にあり、各地から武将が集まりやすい立地でした。当時の武将たちは馬や徒歩で移動していたため、交通の便が良い場所を選ぶことが大切だったのです。こうした理由から、清洲会議は清洲城で開催されることになりました。
清洲会議の参加メンバー|どんな武将が集まったのか?
清洲会議には、織田家の有力な家臣たち4人が参加しました。
- 柴田勝家(しばた かついえ)
- 織田家筆頭家老で、長年信長に仕えた忠臣。
- 信長の三男・信孝を推していた。
- 羽柴秀吉(はしば ひでよし)
- 山崎の戦いで明智光秀を討ち取ったことで発言力を強めていた。
- 信長の孫・三法師を後継者に推した。
- 丹羽長秀(にわ ながひで)
- 織田家の重臣で、信頼が厚い人物。
- 秀吉と協力する立場をとった。
- 池田恒興(いけだ つねおき)
- 信長の乳兄弟(母が信長の乳母)。
- これまで織田家に貢献してきた実績がある。
また、織田信雄(のぶかつ)や信孝(のぶたか)といった信長の息子たちは会議には参加せず、家臣たちの決定を受け入れる立場でした。滝川一益(たきがわ かずます)は当時関東で戦いに敗れ、会議には参加できませんでした。
清洲会議とは:決まった領地再配分とその影響
清洲会議には、織田家の重臣たちが集まりました。それぞれの武将がどんな思惑で後継者問題や領地の再配分に関与したのか、会議の結果として織田家内で起こった対立とその後の展開について詳しく解説します。
清洲会議で決まったこと①|織田家の後継者と名代問題
清洲会議で最も重要だったのが、「織田家の後継者」を決めることでした。候補は以下の3人です。
- 織田信雄(のぶかつ):信長の次男だが、能力に不安があった。
- 織田信孝(のぶたか):信長の三男で優秀だが、支持を集められなかった。
- 三法師(さんほうし):信忠の子でまだ3歳だった。
この中で秀吉は、「正統な後継者は信長の嫡男・信忠の子である三法師」と主張しました。柴田勝家は信孝を推しましたが、会議の流れは秀吉に有利になり、最終的に三法師が後継者に決まりました。
しかし、三法師はまだ幼いため、成長するまで代わりに政治を行う「名代(後見人)」が必要でした。
清洲会議で決まったこと②|領地の再配分
清洲会議では、織田家の後継者だけでなく、家臣たちが治める領地をどう分配するかも決められました。戦国時代において、領地の大きさや場所はその武将の力を示すものだったため、領地の再配分は重要なポイントでした。
主な武将と分配された領地は以下の通りです。
- 柴田勝家(しばた かついえ)
- 越前(現在の福井県)を安堵(そのまま領有)
- さらに秀吉の旧領である長浜城と北近江3郡を甥の柴田勝豊が受け取る
- → しかし、思ったよりも領地の増加がなく、不満を持つ
- 羽柴秀吉(はしば ひでよし)
- 山城・河内・丹波を獲得(現在の京都府・大阪府・兵庫県)
- → これは京都周辺の重要な地域で、政治の中心を押さえる意味を持つ
- 丹羽長秀(にわ ながひで)
- 若狭国(現在の福井県西部)を安堵
- さらに近江国内の一部を加増(拡大)
- 池田恒興(いけだ つねおき)
- 摂津3郡(現在の大阪府北部)を獲得
秀吉は清洲会議で上手に立ち回り、結果的に最も有利な領地を手に入れることになりました。京都を支配できる山城国を確保したことは、後の天下取りへの大きな一歩となります。
清洲会議後の織田家|柴田勝家と羽柴秀吉の対立の始まり
清洲会議の結果に満足しなかったのが、柴田勝家でした。彼は筆頭家老でありながら、秀吉の領地が拡大し、自分の影響力が薄れていくことに危機感を持っていました。
また、信孝も自分が後継者になれなかったことに不満を抱いていました。このため、柴田勝家と信孝は手を組み、秀吉と対立するようになったのです。
一方、秀吉は織田信雄を味方につけ、織田家内での立場を固めていきます。こうして、織田家の中は「秀吉派」と「勝家・信孝派」に分かれてしまい、やがて戦へと発展していきます。
清洲会議の影響|賤ヶ岳の戦いへとつながる権力闘争
清洲会議から約1年後の天正11年(1583年)、ついに織田家の勢力争いが「賤ヶ岳の戦い」として表面化します。
この戦いの構図は以下の通りです。
- 柴田勝家・織田信孝陣営:北陸を拠点にする
- 織田信孝
- 滝川一益
- 前田利家(最初は勝家側)
- 羽柴秀吉陣営:畿内を拠点にする
- 織田信雄
- 丹羽長秀
- 池田恒興
- 堀秀政
この戦いでは、前田利家が途中で秀吉側に寝返ったことで、柴田勝家は大きな痛手を負います。そして、秀吉軍が勝利し、勝家は北ノ庄城で自害しました。
これにより、織田家内での権力争いは終わり、秀吉が一歩リードすることになりました。
清洲会議の歴史的意義|秀吉の天下統一への第一歩
清洲会議は、単に織田家の後継者を決める会議ではなく、「豊臣秀吉が天下を取るための布石」となった重要な出来事でした。
- 織田家のトップが3歳の三法師になったことで、実権を握る人がいなくなった
- → これにより、秀吉がリーダーとして台頭しやすくなった
- 秀吉が京都(山城)を押さえたことで、政治の中心に立つことができた
- → 朝廷との関係を深め、正当な権力者としての立場を固める
- 織田家内で対立が起こり、秀吉のライバルである柴田勝家が滅んだ
- → これにより、秀吉は織田家の実質的なリーダーになった
このように、清洲会議は「織田家の後継者を決める会議」というだけでなく、「秀吉の天下統一への始まり」としての大きな意味を持つ出来事だったのです。
清洲会議に関する語呂合わせ・テストのポイント
清洲会議はテストにもよく出る歴史用語です。覚えやすい語呂合わせや重要ポイントを押さえておきましょう。
語呂合わせ:
- 「清洲で後継者決定(きよすけってい)」
- 「清洲で秀吉、京都ゲット!(きよすでひでよし、きょうとゲット)」
テストに出やすいポイント:
- 清洲会議の目的は? → 織田家の後継者と領地の再配分を決めるため
- 清洲会議の参加者は? → 柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人
- 織田家の後継者は誰に決まった? → 信長の孫・三法師(3歳)
- 領地の再配分で秀吉はどこを手に入れた? → 山城・河内・丹波
- 清洲会議後、対立したのは誰と誰? → 柴田勝家と羽柴秀吉(賤ヶ岳の戦いへ)
これらのポイントを押さえておけば、清洲会議についてしっかり理解できます!
総括:清洲会議とは何かまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
約
- 清洲会議の目的
- 本能寺の変(1582年)で織田信長と嫡男・信忠が討たれた後、織田家の後継者と領地の再配分を決めるために開催された。
- 開催地
- 清洲城(現在の愛知県清須市)で行われた。
- 交通の便が良く、信長のかつての本拠地であり、後継者候補の三法師が住んでいたため選ばれた。
- 参加メンバー(織田家の重臣4名)
- 柴田勝家(筆頭家老、信孝を推す)
- 羽柴秀吉(明智光秀を討った功績を持ち、三法師を推す)
- 丹羽長秀(秀吉と協力)
- 池田恒興(信長の乳兄弟)
- 織田信雄・信孝は会議に直接参加せず
- 清洲会議で決まったこと①|織田家の後継者
- 信長の孫である三法師(3歳)が後継者に決定
- しかし、幼少のため「名代(後見人)」の選定を巡り争いが起こる
- 清洲会議で決まったこと②|領地の再配分
- 柴田勝家 → 越前(福井県)・長浜城(甥の柴田勝豊へ)
- 羽柴秀吉 → 山城(京都)・河内(大阪)・丹波(兵庫)
- 丹羽長秀 → 若狭(福井)・近江(滋賀)
- 池田恒興 → 摂津3郡(大阪北部)
- → 秀吉が京都を押さえたことで、政治の中心を確保し有利に!
- 清洲会議後の影響
- 勝家と信孝が不満を持ち、秀吉と対立
- 翌年(1583年)、「賤ヶ岳の戦い」へと発展
- 勝家が敗北し自害、秀吉が織田家の実権を握る
- 清洲会議の歴史的意義
- 織田家の後継者が3歳の三法師に決まったことで、秀吉が実権を握る形になった
- 秀吉が京都を押さえ、天下統一への第一歩を踏み出した
- 結果として、戦国時代の流れを大きく変えた重要な会議だった
- 覚えやすい語呂合わせ
- 「清洲で後継者決定(きよすけってい)」
- 「清洲で秀吉、京都ゲット!(きよすでひでよし、きょうとゲット)」
- テストに出やすいポイント
- 清洲会議の目的は? → 織田家の後継者と領地の再配分を決めるため
- 参加メンバーは? → 柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人
- 織田家の後継者は? → 三法師(3歳)
- 秀吉が手に入れた領地は? → 山城・河内・丹波
- 清洲会議後の争いは? → 賤ヶ岳の戦い(柴田勝家 vs 秀吉)