みなさんは、小早川秀秋という武将を知っていますか?

関ヶ原の戦いで西軍を裏切り、徳川家康を勝利に導いた人物です。しかし、そのたった2年後に、21歳という若さで亡くなりました。死因には「酒の飲みすぎ」「呪い」「精神疾患」など、さまざまな説があります。

なぜ彼はそんなに早く亡くなったのでしょうか?また、彼の最後の様子はどうだったのでしょうか?

今回は、小早川秀秋の死因や最期について、塾長が分かりやすく解説していきます!

小早川秀秋の死因は?歴史的背景と諸説を解説

小早川秀秋は関ヶ原の戦いで有名な武将ですが、彼の死因については多くの説があります。ここでは、歴史的な記録や研究をもとに、主な死因の説を詳しく見ていきましょう。

小早川秀秋の死因:アルコール依存による内臓疾患が有力説

現在、最も有力視されているのは「アルコール依存症による内臓疾患」です。

実は、小早川秀秋は7歳の頃からお酒を飲んでいたとされています。これは、当時の武将の間では珍しくなく、大名たちからの接待攻勢を受けていたためです。しかし、成長するにつれて飲酒量が増え、慢性的なアルコール依存症になっていきました。

そして、関ヶ原の戦いが終わった後も、彼の酒量は減るどころかさらに増えていきました。領地を統治する立場にありながら、毎日お酒に溺れていたという記録もあります。

アルコール依存症になると、肝臓がダメージを受けて肝硬変になることが多いです。肝硬変が進行すると、体がむくんだり、お腹が大きくなったりする症状が出ます。そして、重症化すると肝不全を引き起こし、命を落とすこともあります。

秀秋も同じような症状があったとされ、肝硬変や内臓疾患が死因だった可能性が高いのです。

「大谷吉継の祟り」が死因とする説も根強い

「祟り(たたり)」とは、亡くなった人の魂が怨みを持って生きている人に悪影響を与えることを言います。小早川秀秋には、「大谷吉継の呪いで死んだ」という説が昔から伝わっています。

大谷吉継は、関ヶ原の戦いで西軍の武将として戦いました。しかし、小早川秀秋が寝返ったことで、西軍は総崩れとなり、大谷吉継は切腹してしまいます。その時、彼はこう言ったとされています。

「小早川、貴様は人間ではない。獣の心を持つ男だ。三年以内に必ず呪い殺してやる!」

この言葉が事実かどうかは分かりませんが、関ヶ原の戦いからたった2年後に秀秋は亡くなりました。そのため、「本当に呪いで死んだのでは?」と考える人も多かったのです。

もちろん、現代の科学では「祟り」は証明できません。しかし、当時の人々は「大谷吉継の祟りを恐れて、小早川秀秋の死をそう考えた」のかもしれません。

「精神疾患」による錯乱状態が死因の一因だった可能性

関ヶ原の戦いで裏切ったことにより、小早川秀秋は「裏切り者」として強く非難されました。特に、西軍側の武将やその家臣たちからの厳しい視線が彼を苦しめました。

そのため、秀秋は精神的に追い詰められたと考えられます。

「関ヶ原の後、彼はおかしくなった」と書かれている史料もあります。

・家臣を理由もなく手討ちにしようとした
・突然、狂ったように暴れ出した
・誰かに命を狙われていると妄想し、部屋にこもっていた

こうした奇行が増え、次第に彼の行動は常軌を逸していきました。現代の医学で見ると、「統合失調症」や「双極性障害(躁うつ病)」の症状にも似ています。これらの精神疾患は、重症化すると命に関わることもあります。

小早川秀秋の死には、精神的な病も関係していた可能性があるのです。

「暗殺説」や「毒殺説」もあるが、根拠は薄い

歴史には「権力争い」による暗殺が多くあります。小早川秀秋も、もしかすると暗殺されたのではないか?という説があります。

・徳川家康にとって都合が悪い存在になったため、口封じされた
・秀秋の酒に毒が盛られた
・近しい家臣に裏切られ、毒を盛られた

しかし、これらの説には証拠がありません。当時の記録にも「毒殺された」と書かれたものはなく、あくまで噂話の域を出ないのです。

「痘瘡(天然痘)」や「落馬事故」などの異説も存在

歴史上、天然痘(痘瘡)や感染症は多くの人々の命を奪いました。秀秋の死因として、「痘瘡(天然痘)」だったのではないかという説もあります。

また、「秀秋は鷹狩り中に馬から落ちて亡くなった」という話もあります。これは戦国時代にはよくある事故のひとつですが、急死した理由としては可能性が低いと言われています。

小早川秀秋の死因の後に:最期の様子とその後の影響

小早川秀秋の死因については、前半で詳しく解説しました。では、彼の最期の様子はどうだったのでしょうか?また、彼の死はどのような影響をもたらしたのでしょうか?

ここでは、秀秋の晩年の生活や、彼の死後の歴史について詳しく見ていきます。

小早川秀秋の晩年は「酒と乱行」にまみれていた?

関ヶ原の戦いで東軍の勝利に貢献し、大領地を与えられた小早川秀秋。しかし、その後の彼の生活は「乱れたもの」だったと言われています。

毎日のように大量の酒を飲んでいた
家臣や領民に対して乱暴な振る舞いが目立つようになった
何の理由もなく家臣を斬ることがあった
突然、奇声を上げて暴れ出すこともあった

こうした異常行動は、アルコール依存症の症状とも一致します。また、精神的な病を抱えていた可能性も高く、次第に統治者としての能力を失っていったと言われています。

結果的に、領地の政治も混乱し、周囲からは「このままでは国が崩壊する」と心配されていたようです。

「21歳で急死」最期の瞬間の様子

1602年(慶長7年)、小早川秀秋は突然、高熱を出し、衰弱していきました。

記録によると、「病に倒れて数日後に亡くなった」とされています。この「病」が肝硬変によるものだったのか、それとも別の病気だったのかは分かっていません。ただ、これまでの生活や異常行動を考えると、やはりアルコール依存症による肝臓病が原因だった可能性が高いと考えられます。

秀秋の死については、「家臣たちは驚かなかった」とも言われています。なぜなら、彼の酒浸りの生活を見て、「いずれ体を壊すだろう」と思っていた人が多かったからです。

こうして、21歳という若さで彼はこの世を去ることになりました。

「無嗣断絶」で小早川家はすぐに消滅

小早川秀秋には子どもがいませんでした。そのため、彼の死後、小早川家は断絶してしまいます。

これは当時の大名家にとって非常に大きな問題でした。通常、後継ぎがいれば家名は続きますが、秀秋の場合は跡を継ぐ者がいなかったため、一族そのものが消えてしまったのです。

また、小早川家の領地はどうなったのでしょうか?

秀秋が治めていた岡山55万石は、すぐに池田忠継(徳川家康の孫)に与えられました。このことから、「家康は最初から秀秋を見限っていて、彼が死んだらすぐに別の者に領地を与えるつもりだったのでは?」という説もあります。

「裏切り者」のイメージが強い:後世に悪名が残る

小早川秀秋は関ヶ原の戦いで東軍に寝返ったことから、「裏切り者」という評価を受けることが多くなりました。

そして、彼の死後、このイメージはさらに強まっていきます。

「寝返ったことを後悔して狂った」という話が広まる
「酒に溺れたのは、裏切りを悔やんでいたからだ」と言われる
「関ヶ原での行動は、武士としての誇りを捨てたもの」と批判される

特に、江戸時代になると、徳川家に都合の良い歴史が作られるようになりました。そのため、「小早川秀秋=裏切り者」という印象が強調されるようになったのです。

また、江戸時代の軍記物(歴史小説)などでも、秀秋は「精神的に弱く、家康の言いなりになった武将」として描かれることが多くなりました。

「もし小早川秀秋が生きていたら?」歴史への影響を考察

もし、小早川秀秋がもっと長生きしていたら、歴史はどうなっていたのでしょうか?いくつかの可能性を考えてみましょう。

① 徳川家康にとって有力な味方になったかも

秀秋が酒に溺れず、冷静に領国経営を続けていたとしたら、徳川幕府の大名として長く生き残ったかもしれません。豊臣家からの寝返りを評価されて、江戸時代の大名として重用された可能性もあります。

② 豊臣家の存続に影響を与えたかも

関ヶ原の戦いの後も豊臣家は存続していました。しかし、秀秋が長生きしていたら、再び豊臣家に味方して、徳川家との対立を深めた可能性もあります。もしそうなっていたら、大阪の陣(1614~1615年)の結果も違っていたかもしれません。

③ 「裏切り者」としての評価が変わったかも

秀秋がもう少し長生きしていたら、関ヶ原の裏切りに対する評価も変わっていたかもしれません。例えば、その後の人生で功績を残していれば、「寝返ったのは戦略だった」と評価され、今とは違ったイメージになっていた可能性もあります。

総括:小早川秀秋の死因まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  1. 小早川秀秋の死因は諸説あるが、最も有力なのは「アルコール依存による内臓疾患(肝硬変)」
    • 幼少期から飲酒が常習化し、関ヶ原の戦い後も酒量が増え続け、最終的に体を壊した可能性が高い。
  2. 「大谷吉継の祟り」による死という説も存在
    • 関ヶ原で裏切られた大谷吉継が「三年以内に呪い殺す」と言い残したことから、秀秋の死が「呪いによるもの」と噂された。
  3. 「精神疾患」が死因に関与していた可能性
    • 裏切りによるプレッシャーから精神を病み、奇行が目立つようになった。
    • 現代で言う統合失調症や双極性障害に似た症状があった可能性。
  4. 「暗殺説」「毒殺説」もあるが、根拠が乏しい
    • 徳川家康にとって邪魔になったため殺された、または酒に毒を盛られたという説があるが、確証がない。
  5. 「痘瘡(天然痘)」や「落馬事故」など、他の死因説も存在
    • しかし、当時の記録からするとこれらの可能性は低いと考えられている。
  6. 最期の様子は「酒と乱行」にまみれていた
    • 領地を治めるどころか酒に溺れ、家臣への暴力や奇行が増えた。
  7. 「21歳で急死」した際、家臣たちはあまり驚かなかった
    • 彼の酒浸りの生活を見て「いずれ死ぬだろう」と思っていた者が多かった。
  8. 「無嗣断絶」により小早川家はすぐに消滅
    • 後継ぎがいなかったため、小早川家は秀秋の死後にすぐ断絶。
  9. 「裏切り者」のイメージが後世まで残る
    • 江戸時代の歴史書や物語で「精神的に弱く、家康の言いなりになった武将」として描かれることが多くなった。