今日は塾長が、明治時代に登場した「国会期成同盟(こっかいきせいどうめい)」について、子どもでもわかるように、やさしく説明していきます。
「名前は聞いたことあるけど、何をしたの?」
「誰が作ったの?」「なんでできたの?」
そんな疑問に答える記事です。
テストに出るポイントもしっかりおさえて、歴史の流れもバッチリわかるようになりますよ!
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会期成同盟をわかりやすく解説!誰が作った?なぜできた?
国会期成同盟とは何か簡単に
国会期成同盟とは、明治13年(1880年)に作られた、国会を開くことを目指した政治団体です。「国会をつくって、みんなの声を政治に届けよう!」という強い気持ちから生まれました。
「期成(きせい)」という言葉には、「必ず成しとげようとする」という意味があります。つまり、国会期成同盟は「どうしても国会を実現させるぞ!」という意志をもった人たちが集まったグループだったのです。
この動きは、自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)という、国民の自由や権利を求める運動の中で起こりました。当時の政府は一部の人たちが力をにぎっていて、国民の声が政治に届いていなかったのです。
誰が作った?板垣退助・片岡健吉・河野広中ら
国会期成同盟を作ったのは、自由民権運動のリーダーたちです。その中でも特に有名なのが「板垣退助(いたがきたいすけ)」です。
板垣退助は、土佐藩(今の高知県)の出身で、明治政府の中心人物でした。でも、政府が少人数で政治を動かしているのを見て、「これじゃダメだ!」と思い、自分から政府を離れて、国民のための政治を目指したのです。
その後、板垣は「愛国社(あいこくしゃ)」という政治団体を作ります。この愛国社が発展して、やがて国会期成同盟となりました。
また、「片岡健吉(かたおかけんきち)」や「河野広中(こうのひろなか)」といった仲間たちも同盟に加わり、全国からたくさんの人々の声を集めて、国会を求める運動を進めていきました。
なぜできた?明治政府の専制政治に対する不満
国会期成同盟ができた理由は、「政治が一部の人たちだけで決められていたから」です。
明治時代の初め、政治は「薩摩(さつま)」や「長州(ちょうしゅう)」などの出身者が中心となっていました。彼らは政府の中で強い力をもち、他の人たちの意見をあまり聞きませんでした。
そんな中、「国民の声も政治に取り入れるべきだ!」という考えが広まります。これが自由民権運動です。
さらに、士族(しぞく)と呼ばれる元武士たちは、給料が減らされたり、刀を持つことを禁じられたりして、不満がたまっていました。武力で反乱を起こす士族もいましたが、板垣退助たちは「話し合いで解決しよう!」と、言論で戦う道を選んだのです。
こうした背景があって、国会期成同盟は誕生しました。
8万7,000人の署名と国会開設の請願運動
国会期成同盟の一番の活動は、政府に「国会を開いてください!」とお願いする運動です。
1880年、同盟の中心メンバーたちは、全国の人たちから「国会をつくろう!」という署名(しょめい)を集めました。その数は、なんと8万7,000人分にもなりました。
この署名をそえて、「国会開設の請願書(せいがんしょ)」という書類を政府に出しました。これは、「国会を開いてほしい!」という正式なお願いの手紙です。
でも、明治政府はこれを受けとりませんでした。さらに、政府は「集会条例(しゅうかいじょうれい)」という新しいルールを作って、みんなが集まって話し合うことすら難しくしてしまったのです。
それでも、国会を求める人たちの声は止まりませんでした。
自由党結成と国会開設につながる大きな一歩に
国会期成同盟は、国会を求める声を全国に広めるという、大きな役割を果たしました。
その後、1881年には「明治十四年の政変(せいへん)」という出来事がありました。これをきっかけに、政府はついに「10年後に国会を開く」と約束したのです。これを「国会開設の勅諭(ちょくゆ)」といいます。
また、国会期成同盟の活動をふまえて、政治の仲間たちは政党(せいとう)をつくり始めました。板垣退助は「自由党(じゆうとう)」という政党を作り、大隈重信(おおくましげのぶ)は「立憲改進党(りっけんかいしんとう)」を作りました。
こうして、国会期成同盟の活動は、やがて日本で初めての国会(帝国議会)へとつながっていくのです。
国会期成同盟をわかりやすく!背景・影響・テスト対策
ここからは、国会期成同盟について「もっと知りたい!」という人に向けて、背景や影響、テストに出るポイントまでしっかり解説していきます。歴史の流れが見えてくると、暗記も楽しくなりますよ。
それでは続きを見ていきましょう!
国会期成同盟の背景
国会期成同盟ができる前の時代、元武士である「士族(しぞく)」たちは生活が苦しくなっていました。明治政府は「秩禄処分(ちつろくしょぶん)」という制度を使って、士族の給料をカットし、さらに「廃刀令(はいとうれい)」で刀を持つことも禁止しました。
「武士の魂」ともいわれた刀を取り上げられたことは、士族にとってとてもショックなことでした。そんな中、「自分たちの意見を政府に届けたい!」という思いから、全国に政治結社が広がっていきました。
高知では「立志社(りっししゃ)」、全国では「愛国社(あいこくしゃ)」といったグループができ、これらがやがて国会期成同盟の母体となっていきます。
明治十四年の政変へ
国会を求める動きが広がる中、明治政府は「このままでは自分たちの立場が危うい」と考えました。そして取り出したのが「弾圧(だんあつ)」というやり方です。
まず、「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例(しんぶんしじょうれい)」という法律で、新聞や雑誌の自由な発言を制限しました。そして、1880年には「集会条例(しゅうかいじょうれい)」をつくり、政治の集まりには警察の立ち会いを義務づけるなど、自由に話し合うことすら難しくなったのです。
さらに、1881年には「開拓使官有物払下げ事件(かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけん)」が起こります。これは政府の中での不正が発覚した事件で、国民の信頼はガタ落ちに。
この事件をきっかけに、「明治十四年の政変(せいへん)」が起こり、大隈重信が政府から追い出されることになります。国会開設を求める声は、ますます強くなっていったのです。
国会開設の勅諭とその後の政党政治のはじまり
明治政府は、ついに国民の声を無視できなくなり、1881年に「国会開設の勅諭(ちょくゆ)」を出しました。ここで政府は、「10年後に国会を開きます」と正式に約束したのです。これは、日本で初めて「国会をつくること」が決まった大きな出来事です。
この勅諭によって、政治の世界はさらに変わっていきました。国会ができるなら、それに向けて意見をまとめる「政党(せいとう)」が必要になります。
板垣退助は「自由党(じゆうとう)」を、大隈重信は「立憲改進党(りっけんかいしんとう)」を作り、それぞれの考えをもとに、政治の中で戦っていく準備を始めました。こうして、国会期成同盟の活動は、日本の政党政治のはじまりにもつながっていったのです。
民撰議院設立建白書・愛国社・自由党との関係
ここからは、テストに出やすいキーワードをしっかり確認していきましょう!
まずは「民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)」です。これは1874年、板垣退助たちが政府に「国民の代表からなる議会をつくろう!」と提案した文書です。自由民権運動の出発点となった大切な出来事です。
次に「愛国社(あいこくしゃ)」。これは、全国の民権派が集まった政治団体で、のちに国会期成同盟へと発展しました。「立志社(りっししゃ)」は、板垣が地元の高知で作った政治団体で、愛国社の中心となりました。
そして、国会開設の流れの中で登場する「自由党(じゆうとう)」と「立憲改進党(りっけんかいしんとう)」は、それぞれフランス式・イギリス式の政治スタイルを参考にしていました。
これらの流れを時系列でおさえると、点数アップ間違いなしです!
国会期成同盟が日本に与えた影響
国会期成同盟は、日本の歴史にとってとても大きな意味をもつ出来事でした。
それまでの政治は、薩摩や長州といった特定の藩の出身者だけで決められていた時代でした。でも、国会期成同盟によって、「国民が政治に参加するべきだ!」という考えが全国に広がりました。
この動きは、やがて「大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)」の制定や、1890年の「帝国議会(ていこくぎかい)」の開設へとつながっていきます。今、私たちが選挙で政治家を選んだり、法律に意見を言えたりするのは、国会期成同盟のような先人たちの努力があったからこそです。
最近では、こうした国民の参加を「SDGs目標16・平和と公正をすべての人に」という考え方でもとらえられています。国会期成同盟は、まさにその第一歩だったのです。
総括:国会期成同盟をわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
