今回は「レーニンとスターリンの違い」について、分かりやすく解説します。
学校の世界史でも出てくる有名な人物ですが、
「何がどう違うの?」
「仲は良かったの?」
と疑問に思う子も多いはず。
この記事では、レーニンとスターリンの考え方や政治のやり方、経済政策などを比べてみましょう。2人の関係性も、時代を追いながら見ていきます。
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ポチップレーニンとスターリンの違いを比較!関係を分かりやすく
レーニンとスターリンは、ソ連の歴史において非常に重要な人物です。しかし、彼らの政治理念や支配方法には大きな違いがありました。ここでは、2人の違いをいくつかの重要なポイントで比較し、どのように異なったのかをわかりやすく解説します。
レーニンとスターリンの違い一覧表
まずは、2人の違いを簡単に比べられる表を見てみましょう。名前は似ていても、やってきたことや考え方には大きな差があるんです!
| 比較ポイント | レーニン | スターリン | 
|---|---|---|
| 政治体制 | 集団での指導を重視 | 強力な独裁体制を構築 | 
| 経済政策 | 新経済政策(NEP)で一部の資本主義を容認 | 五カ年計画で農業や工業を国家主導で管理 | 
| 革命の考え方 | 世界中で社会主義革命を起こそうとした | まずはソ連一国で社会主義を完成させようとした | 
| 粛清(しょくせい) | 反対意見にもある程度の寛容 | 反対派を徹底的に弾圧し、大粛清を行った | 
| レーニンとの関係 | 本人 | レーニンの弟子であり後継者 | 
この表を見ただけでも、スターリンの方が「強い力」で政治を進めたことがわかりますね。それぞれの違いについて、ここからは詳しく説明していきます。
政治体制の考え方:レーニンの集団指導vsスターリンの独裁
レーニンは、革命を成功させたあと「みんなで話し合って決める」ことを大切にしていました。ボリシェビキ(後の共産党)の中でも、何人かの指導者で話し合って決める「集団指導」が基本だったのです。
ところが、スターリンはそのやり方を大きく変えてしまいます。レーニンの死後、党の中の仲間を次々に排除して、自分ひとりに強い権力を集中させました。そして、ソ連を自分の思い通りに動かせる「独裁政治」の体制を作ったのです。
このように、レーニンは「みんなで決めよう」、スターリンは「自分が決める」という考え方の違いがありました。ここが2人の大きな分かれ道です。
経済政策の違い:NEP(新経済政策)と五カ年計画の対比
レーニンが行った経済政策は「NEP(新経済政策)」と呼ばれるものです。これは、農民や商人に一部の自由な経済活動を認めるという方針でした。つまり、社会主義の中にちょっとだけ資本主義を取り入れて、国を立て直そうとしたのです。
一方、スターリンは「そんなぬるいやり方ではダメだ!」と考え、「五カ年計画」をスタートさせました。これは、国家が5年ごとの計画で工場や農業をどんどん進めていく政策です。農民は自分の畑を手放して、大きな集団農場(コルホーズ)で働かされました。
結果として、スターリンの政策はスピード感はありましたが、無理なやり方だったため、多くの農民が食料不足で苦しみました。ここでも「柔軟なレーニン」と「強引なスターリン」という違いがはっきりしますね。
世界革命と一国社会主義の思想の違い
レーニンは「社会主義は世界中で広がるべきだ」と考えていました。ロシアだけでなく、他の国でも革命を起こして、社会主義の世界を作りたいと思っていたのです。
ところがスターリンは「まずは自分たちの国・ソ連を強くしなければ意味がない」と考えました。この考え方を「一国社会主義」といいます。スターリンは、他の国に広げるよりも、まず自分の国の中で社会主義を完成させることを重視しました。
このように、レーニンは「世界を見ていた」のに対し、スターリンは「自分の国だけを見ていた」といえるでしょう。
粛清や強権体制の有無:スターリンによる恐怖政治の始まり
レーニンの時代にも、反対する人たちを取り締まることはありましたが、そこまでひどいものではありませんでした。しかし、スターリンの時代になると「大粛清(だいしゅくせい)」とよばれる恐ろしい事件が起こります。
スターリンは、自分に少しでも逆らいそうな人を「スパイだ!裏切り者だ!」と決めつけて、どんどん逮捕し、処刑しました。共産党の仲間ですら例外ではなく、昔からの仲間や軍の幹部も次々と消されていきました。
国民は「何もしていなくても疑われたら終わり」という不安の中で暮らすことになり、社会はまるで恐怖の中にありました。これが、スターリンが築いた強権政治の姿です。レーニンとは大きく違うやり方でした。
レーニンとスターリンの違い:関係性と歴史的背景
ここからは、レーニンとスターリンがどんな関係だったのかを、時代の流れにそって見ていきます。ただの「師弟関係」ではなかった2人の複雑なつながりを、塾長がわかりやすく教えますよ!
レーニンとスターリンの出会いと関係の始まり
レーニンとスターリンが最初に出会ったのは、ロシアで革命がまだ始まる前のことです。当時、スターリンはグルジア(今のジョージア)出身の若い活動家で、地下でマルクス主義の活動をしていました。そんなスターリンの働きぶりに、レーニンは注目し、「行動力がある人物」として目をかけたのです。
2人は一緒に革命を準備し、1917年のロシア革命を成功させました。レーニンは党のリーダー、スターリンはその右腕として動くようになっていきます。この頃は、信頼関係も強かったといわれています。
スターリンがレーニンの後継者に選ばれなかった理由
レーニンが病気になったとき、次に誰が後を継ぐかが問題となりました。スターリンは「自分がリーダーになるぞ!」と考えていましたが、実はレーニンはスターリンを後継者に選びませんでした。
その理由は、スターリンが仲間に対してとても厳しく、強引すぎる性格だったからです。レーニンは「こんな人が国を率いたら危険だ」と感じていたようです。実際、スターリンがジョージアの民族問題で乱暴なやり方をしたこともあり、レーニンの信頼は徐々に薄れていきました。
そのため、レーニンは後継者としてスターリンではなく、トロツキーのような他の人物を考えていたと言われています。
レーニンの遺言に書かれたスターリンへの懸念
レーニンは死の直前に「遺言」となる文書を残しました。これは「大会への手紙」と呼ばれ、ソ連共産党の仲間に向けたものでした。
その中でレーニンは「スターリンはあまりにも乱暴で危険だから、書記長の立場から外した方がいい」とはっきり書いていました。スターリンの性格ややり方が、これからの国にとって良くないと心配していたのです。
しかしこの遺言は、スターリンを含む党の上層部によって公表されず、隠されてしまいました。その結果、スターリンは権力を維持し、後に独裁者へと変わっていくのです。
レーニンの死後スターリンが権力を掌握するまでの経緯
レーニンが1924年に亡くなると、スターリンはすぐにトップになったわけではありません。最初はカーメネフやジノヴィエフ、トロツキーなど、いろんな有力者がいました。
でもスターリンは、裏で人事を操ったり、仲間を分断させたりするのが得意だったんです。少しずつライバルを追い出して、最後には自分ひとりがトップに立つことに成功しました。
特に1929年にはトロツキーを国外追放にして、完全にスターリン体制ができあがったと言われています。これは、力と策略を使っての「静かな乗っ取り」とも言えるかもしれません。
スターリンはなぜレーニンを神格化しながら独裁を築いたのか
おもしろいことに、スターリンはレーニンから「危ない」と言われていたのに、自分がトップになってからはレーニンをとても大事に扱いました。
それはなぜかというと、「自分はレーニンの正しい後継者なんだ」とアピールするためです。スターリンはあちこちにレーニンの銅像を建てたり、「レーニン主義」という言葉を作ったりして、レーニンを神様のように見せました。
でも、その裏では粛清(しょくせい)を進めて、独裁体制を作っていたのです。表では「レーニンを尊敬してますよ」と見せながら、実は全然ちがう政治をしていたという点が、スターリンのやり方のすごさ(恐ろしさ)でもあります。
総括:レーニンとスターリン違いの比較ポイントまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- レーニンは集団指導を重視し、複数人で政治を決める体制をとった
- スターリンは独裁体制を築き、自分に権力を集中させた
- レーニンはNEP(新経済政策)で一部の資本主義を容認し経済回復を図った
- スターリンは五カ年計画で工業・農業を強制的に国が管理した
- レーニンは世界中で社会主義革命を目指した(世界革命論)
- スターリンはソ連一国で社会主義を完成させようとした(一国社会主義)
- スターリンは大粛清を行い、多くの人を処刑・追放した
- レーニンはスターリンの強引さを危険視し、後継者として推さなかった
- スターリンはレーニンの神格化を利用して、自分の正当性をアピールした
- 2人はもともと協力関係だったが、スターリンの独裁で大きく異なる道を歩んだ

 
					 
					