江戸時代に「モリソン号事件」という出来事があったことを知っていますか?
これは、日本にやってきたアメリカの船が、話し合いの機会もなく砲撃されてしまった事件です。でも、なぜそんなことが起こったのでしょう? さらに、この事件を批判した人たちが「蛮社の獄」という弾圧を受けることになったのはなぜでしょうか?
この記事では、「モリソン号事件とは何か?」をわかりやすく解説し、その後の影響についても詳しく説明していきます。
特に、テストや受験にも役立つようなポイントをまとめているので、ぜひ最後まで読んでみてくださいね!
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モリソン号事件をわかりやすく解説!事件の経緯や背景
モリソン号事件は、1837年(天保8年)に起こりました。当時の日本は「鎖国政策」をとっており、外国の船を寄せつけない方針でした。そのため、日本人を助けるためにやってきたモリソン号も、話を聞いてもらえずに撃退されてしまったのです。
では、どのような背景でこの事件が起こったのでしょうか? そして、日本はどのように対応したのでしょうか? ここから詳しく見ていきましょう。
モリソン号事件とは?簡単にわかりやすく解説
モリソン号事件とは、1837年にアメリカの船「モリソン号」が日本に来航し、砲撃を受けた事件です。モリソン号の目的は、「日本人の漂流民を送り届けること」と「通商交渉」でした。しかし、日本側はこの船が武装しているかどうかを確認せず、「異国船打払令」に基づいて、いきなり攻撃してしまいました。
モリソン号はまず浦賀(現在の神奈川県横須賀市)に来ましたが、幕府はすぐに砲撃し、船はやむを得ず撤退。その後、今度は薩摩藩(現在の鹿児島県)に向かいましたが、そこでも再び攻撃され、結局日本との交渉を諦めて帰ることになりました。
この事件が後に問題になったのは、モリソン号が「平和的な船だったのに、問答無用で攻撃された」という点です。この対応に、多くの知識人が疑問を抱き、幕府を批判する声が上がりました。
モリソン号事件が起きた理由と時代背景
モリソン号事件が起きた最大の理由は、江戸幕府の「鎖国政策」と「異国船打払令」にあります。
江戸時代、日本は200年以上もの間、海外との交流を厳しく制限していました。許されていたのは、オランダや中国など限られた国との貿易だけです。しかし、18世紀後半からイギリスやロシア、アメリカなどの船が頻繁に日本の近海に現れるようになりました。
そんな中で、幕府は1825年に「異国船打払令」を出しました。これは、「外国船が近づいたら、話し合いもせずに追い払え!」という命令でした。この命令の背景には、1808年のフェートン号事件(イギリスの軍艦が長崎に侵入し、日本の役人を人質にした事件)があり、日本人の外国に対する警戒心を強める結果となりました。
そのため、1837年にモリソン号がやってきたときも、「異国船打払令」に従って砲撃するという対応が取られたのです。
モリソン号の航路と砲撃の詳細(浦賀・薩摩での対応)
モリソン号は、まず6月28日に浦賀(神奈川県)へ到着しました。しかし、江戸幕府の浦賀奉行は異国船打払令を適用し、すぐに砲撃を命じました。モリソン号は武装しておらず、攻撃されるとは思っていなかったため、大急ぎで退避することになりました。
次に、モリソン号は7月10日に薩摩藩(現在の鹿児島県)へ向かいました。薩摩藩の家老・島津久風(しまづひさかぜ)は、幕府の方針に従い、ここでも異国船打払令を適用。交渉の余地もなく、再び砲撃されてしまいました。
このように、日本側は「まず攻撃」という対応をとり、話し合いの機会すら与えませんでした。その結果、モリソン号は交渉を諦め、日本から退散しました。
幕府はなぜモリソン号を撃退したのか?政策と判断基準
幕府がモリソン号を撃退した最大の理由は、やはり異国船打払令の存在でした。この法律では、「外国船が来たら即座に撃退せよ」とされており、幕府の役人たちもそれに従っただけだったのです。
しかし、なぜこのような強硬な政策が取られたのでしょうか?それには、以下のような幕府の事情がありました。
- 外国の侵略を警戒:フェートン号事件のように、外国船が突然襲ってくる可能性があったため、慎重にならざるを得なかった。
- 幕府の権威を守るため:外国と交渉すると、幕府の「強い姿勢」が揺らぐと考えた。
- 国内の不安定化を防ぐため:この時代、日本は天保の大飢饉の影響で苦しんでおり、幕府が弱腰だと見られると反乱が起こる可能性があった。
しかし、結果的に「話し合いもせずに撃退した」という対応は、国内外からの批判を招くことになりました。
モリソン号事件の影響と幕府の対応の変化
モリソン号事件が国内外に伝わると、多くの批判が噴出しました。特に、「漂流民を助けようとしていた船を砲撃した」という点が問題視されました。
そこで、幕府はこのままではまずいと考え、1842年には異国船打払令を廃止し、「薪水給与令(しんすいきゅうよれい)」を発令しました。この新しい命令では、「外国船が来たら、まずは食料や水を提供し、穏便に退去させる」という方針に転換しました。
このように、モリソン号事件は「鎖国政策の見直し」を促すきっかけとなったのです。
モリソン号事件を批判した人とその結果!蛮社の獄とは?
モリソン号事件は、日本国内で大きな波紋を呼びました。「漂流民を助けようとした船を攻撃するのはおかしい!」と考えた人々が、幕府の政策を批判し始めたのです。しかし、幕府はこの批判を許さず、言論を弾圧するために「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」という事件を引き起こしました。
誰がモリソン号事件を批判したのか? そして、その批判を受けた幕府はどのように対応したのでしょうか?
詳しく見ていきましょう。
モリソン号事件を批判したのは誰?
モリソン号事件に対して、特に強く批判したのは渡辺崋山(わたなべ かざん)と高野長英(たかの ちょうえい)の二人です。
渡辺崋山(わたなべ かざん)
渡辺崋山は、三河国田原藩の家老でありながら、蘭学(オランダから伝わった学問)にも詳しく、洋学者としても活躍していました。彼は、モリソン号事件について「慎機論(しんきろん)」という書物を書き、「幕府の鎖国政策は時代遅れだ! 今のままでは日本は危ない!」と主張しました。
高野長英(たかの ちょうえい)
高野長英は医者でもあり、蘭学を学んだ学者でもありました。彼は「戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)」という本を書き、「幕府の政策はあまりにも愚かだ。世界の情勢をもっと知るべきだ!」と厳しく批判しました。
この二人の意見は、当時の知識人たちに大きな影響を与えました。しかし、幕府はこの批判を放置せず、厳しく取り締まることを決めました。
幕府はなぜ批判を恐れたのか
幕府がモリソン号事件の批判を恐れた理由は、大きく3つあります。
- 幕府の権威が揺らぐのを防ぐため 幕府は、長年にわたって日本を統治してきました。しかし、異国船打払令のような厳しい政策を見直すことになると、「幕府は間違っていた」ということを認めることになってしまいます。それを避けるため、批判者を徹底的に弾圧しようとしたのです。
- 国内の不安定化を防ぐため
この時代、日本は「天保の大飢饉」などの影響で、農民の不満が高まっていました。もし幕府の政策が間違っていたことが広まれば、反乱が起こるかもしれません。そこで、批判の芽を早めに摘み取ることが必要だったのです。 - 外国の脅威に備えるため
モリソン号事件の数年後、1840年には中国でアヘン戦争が勃発しました。清(中国)がイギリスに敗れたことで、幕府は「次は日本が狙われるかもしれない」と警戒し始めました。このような緊張の中で、幕府の政策を批判する声は、幕府にとって非常に危険なものでした。
蛮社の獄とは?批判した人たちの運命
1839年(天保10年)、幕府は「蛮社の獄」という事件を起こし、渡辺崋山や高野長英らを逮捕しました。蛮社の獄とは、幕府の鎖国政策を批判した学者たちを弾圧するための事件です。
渡辺崋山の最期
渡辺崋山は、蟄居(ちっきょ:自宅に閉じ込められる刑)を命じられました。しかし、彼は「このままでは田原藩(彼の仕えていた藩)に迷惑がかかる」と考え、1841年に自害してしまいました。
高野長英の逃亡と最期
高野長英は、牢獄に閉じ込められる「永牢(えいろう)」という重い刑を受けました。しかし、彼は1844年に牢屋の火事に乗じて脱獄。その後、変装して各地を逃げ回りますが、1850年に捕まり、自害して生涯を終えました。
このように、モリソン号事件の批判をした人々は、幕府の弾圧によって命を落とすことになったのです。
モリソン号事件と蛮社の獄が日本に与えた影響
モリソン号事件と蛮社の獄が日本に与えた影響は、以下のようなものがあります。
- 鎖国政策の矛盾が明らかになった
幕府は、外国船を撃退することが日本の安全につながると考えていました。しかし、モリソン号のように、平和的な目的で来た船にまで攻撃を加えたことで、逆に日本の評判を下げてしまいました。 - 言論の自由が制限された
蘭学者たちは、西洋の知識を取り入れ、日本を近代化しようとしていました。しかし、幕府の弾圧によって、多くの学者が命を落としたり、活動を制限されたりしてしまいました。 - 幕府の外交政策に変化が生まれた
モリソン号事件から5年後の1842年、幕府は異国船打払令を廃止し、「薪水給与令」を発令しました。これは、外国船が来た場合、砲撃するのではなく、食料や水を提供して穏便に退去させるという方針への転換でした。 - 開国への道が開かれた
モリソン号事件と蛮社の獄は、日本が「鎖国の限界」を意識するきっかけとなりました。その後、1840年代にはアヘン戦争の影響もあり、幕府は少しずつ鎖国政策を見直すようになりました。そして、1853年にはペリーが来航し、日本は本格的に開国への道を歩み始めることになります。
テストに出る!モリソン号事件の重要ポイント
最後に、モリソン号事件についてテストで狙われやすいポイントをまとめておきます。
- モリソン号事件が起こった年 → 1837年(天保8年)
- モリソン号の目的 → 日本人漂流民の送還と通商交渉
- 幕府の対応 → 異国船打払令に基づき砲撃
- 事件を批判した人 → 渡辺崋山(慎機論)、高野長英(戊戌夢物語)
- 蛮社の獄とは? → モリソン号事件を批判した学者たちを弾圧した事件
- その後の変化 → 1842年に異国船打払令を廃止し、薪水給与令へ
総括:モリソン号事件をわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- モリソン号事件とは?
- 1837年(天保8年)にアメリカ船「モリソン号」が日本に来航し、浦賀と薩摩で砲撃を受けた事件。
- モリソン号の目的は、日本人漂流民の送還と通商交渉だったが、幕府は異国船打払令に従い攻撃した。
- モリソン号事件の背景
- 日本は鎖国政策をとっており、外国船の来航を厳しく制限していた。
- 1825年に「異国船打払令」を発令し、交渉せずに外国船を撃退する方針だった。
- フェートン号事件(1808年)などの影響で、日本の対外警戒心が高まっていた。
- モリソン号の航路と幕府の対応
- 6月28日:神奈川県浦賀に来航 → 浦賀奉行が砲撃し、モリソン号は退避。
- 7月10日:鹿児島県薩摩藩の山川港に来航 → 再び砲撃され、日本を去る。
- 幕府が撃退した理由
- 異国船打払令に従った(外国船は即時撃退すべきという法令)。
- 外国の侵略を警戒(過去の事件から、日本の防衛意識が高まっていた)。
- 幕府の権威を守るため(弱腰な姿勢を見せると国内で不安が高まるため)。
- 国内の不安定化を防ぐため(天保の大飢饉の影響で民衆の不満が高まっていた)。
- モリソン号事件を批判した人物
- 渡辺崋山(わたなべ かざん):「慎機論」で幕府の鎖国政策を批判。
- 高野長英(たかの ちょうえい):「戊戌夢物語」で日本の国際情勢への対応を訴える。
- 幕府の対応と「蛮社の獄」
- 1839年(天保10年)、幕府は批判した学者を弾圧し、「蛮社の獄」を起こす。
- 渡辺崋山 → 蟄居(自宅監禁)を命じられるが、後に自害。
- 高野長英 → 永牢(終身刑)になるが脱獄。その後、逃亡生活の末に捕まり自害。
- モリソン号事件が日本に与えた影響
- 鎖国政策の矛盾が明らかになった(平和的な船を攻撃したことで国際的な評価を下げた)。
- 言論の自由が制限された(幕府の批判をした学者たちが弾圧された)。
- 外交政策の変化(1842年に異国船打払令を廃止し、薪水給与令を発令)。
- 開国への第一歩(幕府が国際情勢の変化を意識し始め、1853年のペリー来航へとつながる)。
- テストで狙われやすいポイント
- モリソン号事件の年 → 1837年(天保8年)
- 異国船打払令の年 → 1825年(文政8年)
- 批判した人物 → 渡辺崋山「慎機論」、高野長英「戊戌夢物語」
- 蛮社の獄の年 → 1839年(天保10年)
- 異国船打払令の廃止 → 1842年(薪水給与令の発令)