今日は「日米和親条約」について、塾長の私が分かりやすく解説していきます。
「日米和親条約って何?」「どうして日本は開国したの?」そんな疑問を持っている人も多いはずですね。
実はこの条約こそが、約250年続いた鎖国が終わるきっかけになった重要な出来事なのです。そして、この条約の後、日本はどんどん外国と関わるようになり、最終的には明治維新へとつながっていきます。
今回は、日米和親条約が結ばれた背景、どんな内容だったのか、そして日本にどのような影響を与えたのかを詳しく解説します。語呂合わせやテストに出やすいポイントも紹介するので、ぜひ最後まで読んでくださいね!
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日米和親条約を簡単に解説!成立の経緯や背景
日米和親条約は、日本が鎖国をやめるきっかけとなった条約です。しかし、なぜ日本は開国する必要があったのでしょうか?
ここでは、条約が結ばれるまでの流れを分かりやすく解説していきます。
日米和親条約とは?開国のきっかけとなった条約
日米和親条約は、1854年(嘉永7年)に日本とアメリカの間で結ばれた条約です。正式名称は「日米和親条約」ですが、「神奈川条約」とも呼ばれています。
この条約のポイントは次の3つです。
- 日本が下田(静岡県)と箱館(北海道)の2つの港を開港した
- アメリカ船に食料や水、燃料を提供することを約束した
- アメリカに「片務的最恵国待遇(へんむてきさいけいこくたいぐう)」を与えた
この条約により、日本は約250年間続いた鎖国を終え、ついに外国と正式に関わることになったのです。
なぜ日本は開国せざるを得なかったのか?幕末の国際情勢
江戸時代、日本は「鎖国政策」をとっていました。
しかし、19世紀に入ると世界はどんどん変わり、日本も無視できない状況になりました。
- アヘン戦争(1840-1842)で清(中国)がイギリスに敗北
- 清は「南京条約」という不平等条約を結ばされ、日本も外国の圧力を意識し始めました。
- 欧米諸国が植民地を広げていた
- イギリスやフランスはアジアの国々を支配し始め、日本も狙われるかもしれないと考えました。
- アメリカの捕鯨業と貿易の拠点確保
- アメリカは太平洋で捕鯨を行っており、船が燃料や食料を補給できる港が必要だったのです。
これらの理由から、鎖国を続けることが難しくなり、日本は開国を迫られることになりました。
ペリーの来航と条約締結までの流れ
1853年7月8日、アメリカ海軍のペリー提督が4隻の黒船を率いて浦賀(神奈川県)にやってきました。この「黒船来航」は、江戸の町を大騒ぎにさせました。
ペリーは江戸幕府に対し、「アメリカと貿易をするように」と大統領の手紙を渡しました。しかし、幕府はすぐに決断できず、1年後に返答すると約束しました。
1854年2月、ペリーは再び日本へ来航しました。今回は9隻もの船を引き連れ、幕府を圧力で押し切り、3月31日に「日米和親条約」を結ぶことになったのです。
日米和親条約の主な内容と不平等な点
この条約では、日本がアメリカに対して様々な特権を与えることが決まりました。
主な内容は以下の通りです。
- 下田(静岡)と箱館(北海道)を開港する
- アメリカ船が燃料や食料を補給できるようにする
- アメリカ人が日本で自由に行動できる
- 遭難したアメリカ人を日本が保護し、本国へ送還する
- 日本はアメリカに「最も良い条件」を与える(片務的最恵国待遇)
この「片務的最恵国待遇」が大きな問題でした。
日本はアメリカがほかの国よりも有利な条件を得られるようにする義務がありましたが、アメリカは日本に対して同じ義務を負わないという、不平等な取り決めだったのです。
日米和親条約を結んだ幕府の狙いと国内の反応
幕府はなぜこの条約を結んだのでしょうか?
それは、戦争を避けるためです。
ペリーの黒船は日本の大砲では太刀打ちできないほど強力でした。もし幕府が条約を拒めば、アメリカは武力を使ってでも日本を開国させようとしたでしょう。
しかし、国内ではこの条約に対する反発が強まりました。特に、「尊王攘夷(そんのうじょうい)」を唱える人々は、「外国と仲良くするなんて許せない!」と怒りました。
その後の幕末の混乱へとつながっていくのです。
日米和親条約を簡単に:日本史に与えた影響
日米和親条約は、日本にとって大きな転換点となりました。この条約によって、鎖国が終わり、日本は外国と本格的に関わることになったのです。
では、具体的にどのような影響があったのでしょうか?
開港された港「下田」と「箱館」の役割とは?
日米和親条約によって、日本は下田(静岡県)と箱館(現在の函館・北海道)の2つの港を開港しました。
しかし、なぜこの2つの港だったのでしょうか?
- 江戸から少し離れていたため
- 横浜や長崎のような重要な港を開くと、外国の影響が強くなりすぎると考えたため。
- 外国船の補給地として都合がよかった
- 下田は江戸に近すぎず、適度に距離がある港だった。
- 箱館は、アメリカやロシアが日本へ来る際の中継地点として便利だった。
開港した後、この2つの港にはアメリカの船が頻繁に寄港するようになり、日本の国際化が少しずつ進んでいきました。
日米和親条約をきっかけに他の国とも条約を結んだ
アメリカと条約を結んだことで、日本は他の国とも関係を持つようになりました。
1854年以降、日本が結んだ和親条約
- 1854年 日英和親条約(イギリス)
- 1855年 日露和親条約(ロシア)
- 1856年 日蘭和親条約(オランダ)
こうして、日本は次々と外国と条約を結び、徐々に開国していったのです。
しかし、この流れが後に「不平等条約」として問題になっていくのです。
日米修好通商条約の締結!貿易の開始と新たな問題
日米和親条約には貿易に関する取り決めはありませんでした。しかし、アメリカは日本と貿易をしたいと強く望んでいました。
そこで、1858年(安政5年)に「日米修好通商条約」が結ばれます。
この条約の主な内容は以下のとおりです。
- 神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫の港を開港
- 日本とアメリカの自由貿易を認める
- アメリカに領事裁判権を与える(アメリカ人が日本で罪を犯しても、日本の法律で裁けない)
- 関税自主権がない(日本が自由に関税を決められない)
この条約は日本にとって非常に不平等な条約でした。しかし、幕府は欧米諸国との戦争を避けるために仕方なく結んだのです。
日米和親条約が幕末の政局を揺るがした
日米和親条約や日米修好通商条約を結んだことで、幕府に対する不満が高まりました。特に、尊王攘夷(そんのうじょうい)という考えを持つ人々は、幕府が外国に屈服したことを許せませんでした。
これにより、日本国内では大きな対立が生まれます。
- 幕府を支持する「佐幕派」
- 天皇を中心に外国を排除しようとする「攘夷派」
この対立が激しくなり、最終的には「倒幕運動」へとつながり、1868年の明治維新が起こるのです。
テスト対策!日米和親条約の語呂合わせと重要ポイント
日米和親条約は歴史のテストでもよく出題されます。特に「条約が結ばれた年」「開港した港」「不平等な点」などはしっかり覚えておきましょう!
《日米和親条約の語呂合わせ》
「いやーごめん(1854年)、開国するよ!」
→ 1854年に結ばれたことを思い出せますね!
《テストに出るポイント》
✅ 日米和親条約はいつ結ばれた? → 1854年(嘉永7年)
✅ 開港した港は? → 下田(静岡)と箱館(北海道)
✅ 不平等な内容は? → 片務的最恵国待遇(アメリカだけ優遇)
✅ この条約の後、日本はどんな国と条約を結んだ? → イギリス・ロシア・オランダ
これらをしっかり覚えておけば、テストでバッチリ点数が取れますよ!
総括:日米和親条約を簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
日米和親条約とは?
- 1854年(嘉永7年) に日本とアメリカが締結
- 別名「神奈川条約」とも呼ばれる
- 下田(静岡)・箱館(北海道)を開港
- アメリカ船への補給や遭難者の保護を認める
- 「片務的最恵国待遇」 でアメリカが優遇された
条約締結の背景
- アヘン戦争(1840-42年) で清(中国)がイギリスに敗北 → 日本も外国の圧力を警戒
- 欧米列強が植民地を拡大 → 日本も標的にされる恐れ
- アメリカは捕鯨や貿易のために日本に寄港地を求めていた
- 1853年、ペリー提督 が黒船で浦賀に来航 → 開国を要求
ペリー来航と条約締結まで
- 1853年:ペリーが黒船4隻を率いて浦賀に来航し開国を要求
- 幕府は即答できず、1年後の返答を約束
- 1854年:ペリーが9隻の軍艦を率いて再来航 → 圧力により条約締結へ
日米和親条約の内容
- 下田・箱館を開港 し、アメリカ船の寄港を許可
- アメリカ船への食料・燃料補給を認める
- 遭難者の保護と送還の義務
- アメリカに片務的最恵国待遇を与える(他国より有利な条件)
条約の影響
- 日本の開国の第一歩となった
- 他の国(イギリス・ロシア・オランダ)とも和親条約を締結
- 幕府への不満が増大し、尊王攘夷運動が活発化
- 日米修好通商条約(1858年) につながり、不平等条約が続く