明治時代の日本を作った偉人といえば誰を思い浮かべますか?
西郷隆盛や木戸孝允と並び「維新の三傑」と呼ばれた大久保利通(おおくぼ としみち)もその一人です。彼は明治政府の中心人物として、近代化を進めた政治家でした。
しかし、1878年(明治11年)、突如として襲撃され命を落とします。
この事件は「紀尾井坂の変(きおいざかのへん)」と呼ばれ、日本の歴史に大きな影響を与えました。
「どうして暗殺されたの?」
「犯人は誰?」
「事件の背景には何があったの?」
今回は、子供でも分かるように塾長がやさしく解説していきます!
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大久保利通の暗殺事件とは?死因や紀尾井坂の変の全貌
明治新政府の中心で活躍した大久保利通は、不満を持つ士族たちに襲われ命を落としました。
事件の背景には士族の怒りや政府の政策が関係していたのです。まずは事件の流れや死因、犯人の正体を詳しく見ていきましょう。
大久保利通の死因は暗殺による16箇所の刀傷
1878年(明治11年)5月14日の朝、大久保利通は赤坂の仮皇居(今の皇居)へ向かう途中 でした。突然、6人の士族が現れ、大久保の馬車を襲撃!
大久保は刀で16回も斬りつけられ、即死しました。
特に頭部には8カ所もの深い傷があり、顔は判別できないほどだったと言われています。犯人たちの怒りの強さがうかがえますね。
暗殺はどこで起こった?実際の現場は「紀尾井町」
この事件は「紀尾井坂の変」と呼ばれますが、実際に大久保が襲われた場所は紀尾井坂ではなく、近くの紀尾井町です。
紀尾井町は当時、赤坂仮皇居へ向かう主要道路のひとつでした。しかし人通りは少なく、犯行には絶好の場所だったのです。
犯人たちは、事前に道の両側に隠れて待ち伏せし、馬車を止めて襲いかかりました。彼らの計画は、まさに奇襲作戦だったのです。
暗殺事件の詳細な経緯|襲撃の瞬間を解説
事件が起きたのは朝の8時30分頃です。大久保はいつものように馬車に乗り、赤坂仮皇居へ向かっていました。
そこへ突然、6人の士族が飛び出し、馬車を止めます!まず最初に馬車を操る馭者(ぎょしゃ)・中村太郎が斬られ、馬も負傷しました。
大久保は「無礼者!」と最後の言葉を叫びました が、その直後全員が一斉に刀を振り下ろしました。大久保は馬車の中で倒れ、16カ所の深い傷を負い絶命しました。
犯人たちは「斬奸状(ざんかんじょう)」という書状を持ち、すぐに自首しました。
犯人は誰だったのか?6名の暗殺者の正体
大久保利通を暗殺したのは、6人の士族です。彼らのリーダーが島田一郎(しまだ いちろう)という元陸軍の軍人でした。
犯人たちの名前は以下のとおりです。
- 島田一郎(主犯):加賀藩出身、元陸軍
- 長連豪(ちょう れんごう):西郷隆盛を尊敬していた
- 杉本音菊(すぎもと おとぎく):石川県の士族
- 脇田巧一(わきた こういち):石川県の士族
- 杉村文一(すぎむら ぶんいち):最年少の17歳
- 浅井寿篤(あさい じゅとく):元警察官
彼らは士族としての誇りを取り戻すため、大久保を「独裁者」と見なし、討つことを決意したのです。
なぜ大久保利通は狙われたのか?暗殺の理由
「大久保はなぜ命を狙われたのか?」
実は、当時の士族たちは大久保の政治に強い不満を持っていました。
士族の怒りの理由
- 廃刀令(はいとうれい) で武士の刀を取り上げられた
- 秩禄処分(ちつろくしょぶん) で武士の給料がなくなった
- 西南戦争で士族の反乱を鎮圧し、西郷隆盛を死に追いやった
士族たちは「大久保がすべての元凶だ!」と考え、暗殺計画を立てました。しかし、実際には大久保は国のために財政を立て直し、近代化を進めていたのです。
彼の努力を理解せず、誤解のまま暗殺したというのが、この事件の悲しいところです。
大久保利通の暗殺事件:紀尾井坂の変の真実と影響
大久保利通の暗殺は、日本の歴史に大きな影響を与えました。「紀尾井坂の変」は、ただの暗殺事件ではなく明治政府のあり方を問う大事件だったのです。
ここでは事件の背景や犯人たちのその後、日本社会への影響について詳しく見ていきましょう!
犯人たちの裁判とその結末|全員が即日斬首刑
暗殺犯6名は、事件の直後に自首しました。
しかし、彼らに待っていたのは「大逆罪(たいぎゃくざい)」という国への反逆罪による死刑でした。
事件の約2カ月後の7月27日に全員が斬首刑に処せられました。
このスピード判決は、国家のトップを殺したことへの厳しい処分であり、今では考えられないほどの早い裁きでした。また、彼らの遺体は東京の谷中霊園(やなかれいえん)に葬られました。
現在でも、お墓を訪れる人がいるそうです。
暗殺によって日本の政治はどう変わったのか?
大久保利通の暗殺は、明治政府にとって大きな危機でした。なぜなら、大久保は「維新の三傑」の最後の一人だったからです。
西郷隆盛(1877年 西南戦争で死亡)、木戸孝允(1877年 病死)に続き、大久保が亡くなったことで明治政府の指導者層が一気に弱体化しました。
その結果、政府内の派閥争いが激化し、後の政党政治につながる道が開かれることになります。また、大久保の死後日本はより「強兵(軍事強化)」の方向に進むことになります。
大久保が進めた「富国(経済発展)」の道は一時的に停滞し、軍備拡張が重視される時代へと突入していきました。
大久保利通の功績と近代日本への影響
暗殺される前の大久保利通は、日本の近代化のためにさまざまな政策を実行 していました。彼が成し遂げた主な功績を見てみましょう。
✅ 地租改正(ちそかいせい) → 税金を安定させ、日本の経済基盤を整えた
✅ 殖産興業(しょくさんこうぎょう) → 工業化を進め、工場や鉄道を作った
✅ 警察制度の創設 → 治安維持のために警察を整備した
✅ 国際関係の強化 → 欧米視察を行い、日本の国際的な立場を強くした
特に経済発展に力を入れ、日本を近代国家へと導いたことが大きな功績です。
しかし、士族たちにとっては「武士の特権を奪った人物」と映ってしまったのですね。
大久保利通の墓と遺品|彼の最期を今に伝えるもの
大久保利通の墓は、東京都の青山霊園(あおやまれいえん)にあります。しかし、もともと大久保は鹿児島の出身です。
彼の遺体は、地元・鹿児島にはすぐには戻されませんでした。理由は、西郷隆盛を死に追いやったことで地元の人々から嫌われていたからです。そのため、大久保の遺骨が鹿児島に戻されたのは平成に入ってからのことでした。
また、暗殺された際に大久保が乗っていた馬車は、今も岡山県倉敷市の五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん)に保管されています。
この馬車には、刀傷が残っており、事件の凄惨さを今に伝えています。
歴史に学ぶ!大久保利通の暗殺が現代に残した教訓
最後に、この事件から 私たちが学べること について考えてみましょう。
- 誤解や不満があっても、暴力に訴えてはいけない
→ 犯人たちは大久保の政策を誤解していましたが、話し合いではなく暴力を選んだことで、国の発展を遅らせる結果になりました。 - リーダーが突然いなくなると、国が混乱する
→ 大久保の死後、政府は派閥争いに明け暮れました。これは指導者の交代を計画的に行うことの大切さを教えてくれます。 - 歴史を正しく知ることが大切
→ 士族たちは「大久保が悪い」と思い込んでいましたが、実際には彼は 日本のために尽くしていた のです。
総括:大久保利通の暗殺事件& 死因まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 大久保利通とは?
- 維新の三傑の一人で、明治政府の中心人物。
- 近代化政策を進め、日本の経済発展や治安維持に尽力した。
- 暗殺事件の概要
- 1878年(明治11年)5月14日、赤坂仮皇居へ向かう途中で襲撃され死亡。
- 犯人は士族6名(主犯:島田一郎)で、刀で16カ所も斬られ即死。
- 犯行現場は紀尾井町(紀尾井坂ではない)。
- 犯人たちは「斬奸状(ざんかんじょう)」を持ち、暗殺後に自首。
- 暗殺の背景
- 士族の不満
- 廃刀令により刀を奪われた。
- 秩禄処分で武士の給料がなくなった。
- 西郷隆盛を死に追いやったことで憎まれていた。
- 士族の不満
- 事件の影響
- 犯人6名は2カ月後に即日斬首刑。
- 維新の三傑が全員死亡し、明治政府のリーダー層が弱体化。
- 政府内で派閥争いが激化し、政党政治の時代へ進むきっかけに。
- 経済発展より軍事強化を重視する流れが強まった。
- 大久保利通の功績
- 地租改正(税制改革)で財政を安定化。
- 殖産興業(工業化推進)で産業発展を促進。
- 警察制度を整え、治安を強化。
- 欧米視察を行い、国際的な立場を強化。
- 遺体と遺品
- 墓は東京・青山霊園にあり、遺骨が鹿児島に戻ったのは平成に入ってから。
- 暗殺時の馬車は岡山県倉敷市の五流尊瀧院に保存されている。
- 現代に残る教訓
- 誤解や不満があっても、暴力に訴えるのではなく話し合いが重要。
- 指導者の突然の死は国を混乱させるため、リーダー交代の準備が大切。
- 歴史を正しく学び、冷静な判断が必要。
