今日は明治時代から昭和のはじめにかけて活躍した「立憲政友会(りっけんせいゆうかい)」という政党について、みんなにも分かりやすく説明します。

「立憲政友会ってなんのために作られたの?」
「どんな人がいたの?」「今とどう関係あるの?」

そんな疑問をもつ人も多いと思います。

この記事では、立憲政友会の誕生の背景や目的、関わった有名人、政党としての歴史や影響を、かんたんに、そしてていねいに解説していきます!

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立憲政友会とは簡単に?成立の理由や目的をわかりやすく

立憲政友会は、明治時代の終わりごろに生まれた日本の政党です。日本がだんだんと「政党政治」という形に近づいていく中で、大きな役割をはたしました。ここでは、立憲政友会のなりたちや目的について、順を追って説明します。

立憲政友会とは何か?伊藤博文がつくった近代政党のひとつ

立憲政友会とは、1900年(明治33年)に日本で作られた政党です。作ったのは、初代内閣総理大臣でもある「伊藤博文(いとうひろぶみ)」という有名な政治家です。

この政党は、日本で「政府と議会が協力して政治を行う」ことを目指して生まれました。当時の日本では、政府と議会(国会)がよくケンカをしていたため、政治がうまく進まないことが多かったのです。

そこで伊藤博文は、「議会で多数を占める政党が、政府と協力して政治を行えばうまくいくのでは?」と考えて、自分で政党を作ることにしたのです。それが立憲政友会です。

なぜ立憲政友会が作られたのか

立憲政友会が作られた一番の理由は、1898年にできた「隈板内閣(わいはんないかく)」という政党内閣が失敗したことにあります。

隈板内閣は、議会の中にある政党「憲政党(けんせいとう)」のリーダーたちが、はじめて政府の中心になった内閣でした。ところが、政党内の意見の対立が原因で、たった4か月でこわれてしまいました。

この失敗のあと、ふたたび「藩閥政府(はんばつせいふ)」と呼ばれる一部の人たちだけで政治を動かすやり方に戻ってしまいました。しかし、これでは国の運営がうまくいきません。

そこで伊藤博文は、「自分が政党を作って、もう一度、議会と政府が協力する政治を目指そう」と決意したのです。これが立憲政友会誕生の大きな理由です。

立憲政友会の目的は何だったのか

立憲政友会のいちばんの目的は、「政府と議会の対立をなくして、政治をスムーズに進めること」でした。

当時の日本では、政府と議会がよくぶつかっていて、大事な法律や予算がなかなか通らない問題がありました。伊藤博文はこの状況を見て、「政府と議会が協力するためには、同じ考えをもった人たちでグループ(政党)を作り、それが政府の中心になればよい」と考えました。

この考え方は、今の「政党内閣」や「議院内閣制(ぎいんないかくせい)」にもつながる大事な考えです。つまり、立憲政友会は、現代の政治にもつながる新しい政治の形をスタートさせたと言えるのです。

また、当時流行していた「超然主義(ちょうぜんしゅぎ)」という「政府は議会に左右されるべきではない」という考えに対しても、大きな挑戦となりました。

立憲政友会の成り立ちと組織構成

立憲政友会は、ただの政治家だけの集まりではありませんでした。伊藤博文は、もともと政府の中心で活躍していた「官僚(かんりょう)」や、経済界で力を持つ「財界人(ざいかいじん)」にも声をかけました。とくに「三井財閥(みついざいばつ)」などの大きな経済グループの支援を受けていたことも知られています。

さらに、もともと憲政党にいた政治家たちも、新しくできた立憲政友会に合流しました。このように、いろいろな立場の人たちが集まったことが、立憲政友会の強さの秘密だったのです。

また、あえて「立憲政友“会”」という名前にしたのもポイントです。「政党」という言葉だと、政治色が強すぎて、官僚や財界の人たちが参加しにくくなるため、「会」という言い方にしたと言われています。

立憲政友会はいつまで続いた?解党までの歴史を簡単に紹介

立憲政友会は、1900年にできてから、約40年間も日本の政治に大きな影響をあたえました。いくつかの時代に分かれて活動していましたが、特に大正時代には「政党政治の時代」と言われるほど、力を持っていました。

1920年代には、原敬(はらたかし)という人物が政友会から内閣総理大臣になり、政党中心の政治を進めました。しかし、1930年代に入ると、だんだんと軍部の力が強くなっていき、政党政治はおされぎみになります。

そして、1940年には、戦争体制をととのえるため、すべての政党をひとつにまとめた「大政翼賛会(たいせいよくさんかい)」が作られ、それに吸収されるかたちで立憲政友会は解党されました。

立憲政友会の歴史と活躍を簡単に!関わった人物や政策

ここからは、立憲政友会がどんな時代にどんな活躍をしたのか、そして関わった有名な政治家や政党としての特徴的な政策について分かりやすく紹介します。

立憲政友会の動きは、日本の「政党政治のはじまり」と大きく関係しているので、しっかり見ていきましょう。

立憲政友会と桂園時代

立憲政友会ができたあとの時代は、「桂園時代(けいえんじだい)」と呼ばれています。この時代は、「桂太郎(かつらたろう)」と「西園寺公望(さいおんじきんもち)」が交代で内閣総理大臣になったことから、ふたりの名前を合わせてそう呼ばれています。

桂太郎は、軍部や官僚のグループをまとめていた人で、西園寺公望は立憲政友会のリーダーです。つまり、「軍部・官僚」VS「政党」のバランスを取りながら、平和的に政治を回そうとした時代だったのです。

この桂園時代には、政友会が政治の中心にたびたび登場するようになり、「政党政治」の土台が少しずつ作られていきました。政党が政府を動かすという仕組みが、日本でも少しずつ当たり前になっていったのです。

立憲政友会が与党になった理由

立憲政友会が本格的に「与党(よとう)」として力を発揮するようになったのは、大正時代に「原敬(はらたかし)」が内閣総理大臣になったときです。

原敬は、政友会の第3代総裁で、1918年に「本格的な政党内閣」をつくった初めての人物です。今までは、政党と政府がうまくいかなかったことも多かったのですが、原敬のときには政党が中心になって政治を進める体制が整いました。

このときの立憲政友会は、国の予算を増やして教育や鉄道などにたくさんお金を使い、「積極財政(せっきょくざいせい)」を行いました。そのため、国民の暮らしにも大きな影響をあたえるようになり、政友会は「国民のためにがんばる政党」というイメージを持たれるようになったのです。

立憲政友会に所属した有名な人物

立憲政友会には、日本の歴史に名を残すたくさんの政治家が所属していました。

まず、政友会を作った伊藤博文。彼は日本初の総理大臣でもあり、日本の近代政治をつくった中心人物です。次に、原敬。彼は平民(武士出身ではない)として初めて内閣総理大臣になった人で、「平民宰相(へいみんさいしょう)」とも呼ばれました。

ほかにも、経済に強かった「高橋是清(たかはしこれきよ)」、軍事と外交に力を入れた「田中義一(たなかぎいち)」、そして、1932年に五・一五事件で暗殺された「犬養毅(いぬかいつよし)」も、立憲政友会のリーダーをつとめた人物です。

このように、立憲政友会は数々のリーダーを生み出し、長い間日本の政治を動かしていたのです。

立憲政友会の政策の特徴

立憲政友会が行った政策の大きな特徴は「積極財政」と「民意(国民の声)を大切にすること」です。

たとえば、鉄道をたくさん作ったり、学校を増やしたり、インフラ整備に力を入れました。これは、原敬や高橋是清の時代に特に進められた政策です。国民の生活をよくすることが、政治の大きな目標だったのです。

また、選挙制度を改革して、選挙権を持つ人を増やしたりする動きもありました。当時はまだ「男性だけ」「税金をたくさん払っている人だけ」に限られていましたが、政友会は少しずつ国民の声を取り入れる努力をしていきました。

このように、立憲政友会は、国の発展と国民の生活の向上をめざして、さまざまな政策を行ったのです。

立憲政友会の最期とその影響

立憲政友会は長く日本の政界で活躍してきましたが、1930年代になると、軍部の力が強くなり、政党の自由な活動がむずかしくなっていきました。

1932年には、当時の総理大臣だった犬養毅が、海軍の青年将校に暗殺される「五・一五事件」が起き、政党政治に大きなダメージをあたえました。

その後、戦争体制を強めるため、政府は「大政翼賛会(たいせいよくさんかい)」という団体を作り、すべての政党をそこにまとめることにしました。これにより、立憲政友会も1940年に解党され、姿を消すことになります。

ですが、立憲政友会の政治スタイルや考え方は、のちの自由党や現在の自由民主党(自民党)に受け継がれていったとも言われています。

総括:立憲政友会とは何か簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 立憲政友会は1900年に伊藤博文がつくった政党で、政府と議会の協力を目指して誕生した。
  • きっかけは隈板内閣の失敗で、政党政治の必要性が高まったことが背景にある。
  • 目的は「政府と議会の対立をなくすこと」で、安定した政権運営を目指した。
  • 官僚や財界、元憲政党のメンバーなど多様な人々が参加し、広いネットワークを持つ政党だった。
  • 「会」という名前にしたのは、政治色をやわらげるため
  • 1940年に大政翼賛会に吸収されて解党するまで、日本政治の中心にいた。
  • 桂園時代には政党政治の基盤が形成されるなど、政治制度の発展に貢献した。
  • 原敬が初の本格的な政党内閣をつくり、与党として活躍した。
  • 所属した有名政治家は伊藤博文・原敬・犬養毅・高橋是清・田中義一など
  • 政策の特徴は積極財政と民意重視で、鉄道建設や教育拡充など国民生活に関わる施策を進めた。
  • 現在の自由民主党にも影響を与えた存在として、歴史的に重要な政党である。