今日は「立憲改進党と自由党の違いってなに?」という疑問に、わかりやすく答えていきます。どちらも明治時代の大事な政党で、国会を作るためにがんばった仲間たちですが、考え方や作った人、応援した人がちょっとずつ違います。

この記事では、立憲改進党と自由党の違いを比べながら、それぞれが目指した日本の未来について楽しく学んでいきます。

「誰が作ったの?」
「どんなことを考えてたの?」
「なんで違うの?」


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立憲改進党と自由党の違いを分かりやすく比較

明治時代、日本が「立憲国家(憲法がある国)」を目指して動き出したころ、政治の中心にはふたつの大きな政党がありました。それが「立憲改進党」と「自由党」です。

どちらも国民の声を大切にするために生まれましたが、目指す未来や応援していた人たち、国のしくみに対する考え方がちょっと違いました。

ここからは、ふたつの政党を「わかりやすく」「しっかり」比べていきます!

立憲改進党と自由党の比較表

項目立憲改進党自由党
作った人大隈重信板垣退助
設立年1882年1881年
思想イギリス型の議会政治(穏やか)フランス型の民主主義(急進的)
支持層都市の商人・知識人農民・士族(元武士)
主な主張ゆっくり改革して国を良くする急いで民の力を政治に生かす

このように、立憲改進党は「ゆっくり確実に」、自由党は「早く変えよう」と考えていたんですね!

作った人が違う!大隈重信と板垣退助

立憲改進党を作ったのは、大隈重信(おおくま しげのぶ)という人物です。イギリスの政治制度に感動して、「日本もゆっくり準備して、ちゃんとした議会を作ろう!」と考えました。

一方、自由党を作ったのは板垣退助(いたがき たいすけ)です。彼は「国民が政治に参加するのは当然だ!」という考えを持ち、フランスのような自由な社会を理想としました。

つまり、大隈さんは「計画的に」、板垣さんは「情熱的に」国の未来を考えていたんですね!

思想の違い!イギリス型とフランス型

立憲改進党は、イギリスのような「議会政治(国会中心)」をモデルにして、少しずつ変えていく「漸進主義(ぜんしんしゅぎ)」を大切にしました。争いを避け、話し合いを重ねて改革するスタイルです。

自由党はフランス革命のように「自由」「平等」「国民の力」を前に出す考えを持っていて、政治の主役は国民であるべき!と強く主張しました。

どちらも国のためを思っていましたが、スピードと方法に大きな差があったのです。

支持した人たちが違う!

立憲改進党は、都市に住んでいるお金持ちの商人や、新聞を読むような知識人たちに人気がありました。少しずつ改革する方が安心できたからです。

自由党は、農村に住む人たち、特に士族や中小の地主などに支持されました。生活が苦しく、「すぐに政治を変えたい!」という気持ちが強かったからです。

つまり、立憲改進党は「安定を求める人たち」、自由党は「変化を望む人たち」が応援していたのです。

政治のゴールのちがい

立憲改進党は、「王室の尊さを守りながら、国民の幸せも大事にする」というバランスを重視していました。王様(天皇)も国民もどちらも大切という考えです。

自由党は、「とにかく国民の力を政治に反映させよう!」という方針で、時には政府に強く反対しました。「板垣死すとも自由は死せず」という言葉が象徴するように、自由と国民の力を最も大切にしたのです。

ふたつの政党は、同じ国を思いながらも、目指す未来が少しずつ違っていたのですね。

憲改進党と自由党の違いの後に:歴史とその後

ここからは、立憲改進党と自由党が日本の政治にどんなふうに関わっていったのか、そして最終的にどうなったのかを見ていきます。それぞれがどんな動きをし、どんなふうに終わりを迎えたのかを知ることで、日本の民主主義の成り立ちがもっとよくわかりますよ!

立憲改進党の歴史と活動内容をやさしく解説

立憲改進党は、1882年に大隈重信を中心に作られました。明治十四年の政変というできごとで政府を追われた大隈が、「国会を早く作って、国民の意見を大切にしよう」と考えて結成したのです。

党はイギリス型の議会政治を目指し、急がず、でも着実に改革を進めていこうという「漸進主義(ぜんしんしゅぎ)」を掲げていました。大都市の商人や学者など、知識人が多く応援していたのも特徴です。

その後、党の中で意見の対立が起きたり、大隈が一時離れたりすることもありましたが、第1回総選挙でもしっかり議席を取り、民間の声を政治に届ける大切な役割を果たしました。

自由党の歴史と活動内容をわかりやすく解説

自由党は、1881年に板垣退助が中心になって作られました。明治政府の政治が一部の人たちだけで動いていたことに不満をもち、「国民の力で政治を変えよう!」と立ち上がったのが始まりです。

この党は、自由民権運動を進める中で生まれた政党で、「すべての国民が自由に意見を言い、政治に参加できるようにすべきだ」と考えていました。農民や士族など、生活に苦しんでいた人たちが多く応援していました。

しかし、急進的な考え方が強く、政府からの弾圧や内部のトラブルで党が一度解散することになります。けれども、1890年にもう一度力を合わせて再結成され、第1回衆議院選挙では第一党として大きな力を持つようになりました。

立憲改進党と自由党の合流と「憲政党」の誕生

1898年、立憲改進党と自由党は、それぞれの意見の違いを乗り越えて一つの政党に合流しました。それが「憲政党(けんせいとう)」です。この合流は、日本で初めて「本格的な政党内閣(せいとうないかく)」を作るための大きな一歩でした。

合流をリードしたのは、大隈重信と板垣退助のふたり。まったく考え方が違った二人ですが、「国民のための政治を実現したい!」という思いで手を取り合いました。

その後、憲政党は短期間で分裂しますが、この合流をきっかけに、政党政治が日本で本格的に始まっていくのです。

その後の日本政治に与えた影響とは?

立憲改進党も自由党も、今の日本の政治の土台を作ったとても大切な政党です。国会ができる前の時代に、「国民の声を政治に生かそう」と声をあげたことが、今の民主主義につながっているのです。

また、政党が力を合わせることで、内閣に国民の意見を反映させる「政党内閣制(せいとうないかくせい)」が進んでいきました。これは今の日本でも続いている大事な制度です。

この時代の政治家たちが残したものは、今の選挙制度や憲法にも関係していて、「政治は国民のもの」という考え方が、しっかり根づくきっかけとなったのです。

総括:立憲改進党と自由党の違いまとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 立憲改進党と自由党は明治時代の代表的な政党で、どちらも国会の開設を目指していたが、思想や支持層が異なっていた。
  • 立憲改進党は大隈重信が設立し、イギリス型の議会政治と漸進的な改革を主張。支持者は都市の商人や知識人。
  • 自由党は板垣退助が設立し、フランス型の民主主義と急進的な改革を主張。支持者は農民や士族など生活が苦しい層。
  • 両党の違いは、改革のスピード・方法・支持層・政治思想にある
  • 立憲改進党と自由党は対立しつつも、最終的に合流して憲政党を結成し、日本初の政党内閣誕生につながった。
  • この合流は、政党政治と民主主義の発展に大きな影響を与えた
  • 国民の声を政治に反映させる考え方が、現在の日本政治の土台になっている。