坂本龍馬は、日本の歴史を大きく動かした幕末の英雄の一人です。しかし、彼は明治維新を目前にして暗殺されてしまいました。
33歳という若さで命を落とした彼の最期とはどんなものだったのでしょうか? また、誰が坂本龍馬を狙い、なぜ暗殺されたのか?
事件の背景には、幕府・薩摩藩・土佐藩など様々な勢力の思惑が絡んでいました。
この記事では、坂本龍馬の死因、暗殺事件の詳細、そして犯人の正体について分かりやすく解説します! 事件の裏に隠された謎にも迫るので、ぜひ最後まで読んでみてください。
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坂本龍馬の死因:近江屋事件で暗殺された経緯をわかりやすく
坂本龍馬が命を落とした「近江屋事件」は、日本史三大ミステリーのひとつとも言われています。事件の詳細を見ていきましょう。
坂本龍馬の死因は「頭部の致命傷」!即死だったのか?
坂本龍馬の死因は「頭部の致命傷」です。彼は暗殺されたとき、額(ひたい)を深く斬られ、さらに背中を斬られるという大怪我を負いました。
特に致命傷となったのは、額を横一文字に斬られた傷です。この傷が脳にまで達していたため、脳損傷による即死と言われています。しかし、一部の記録では「一度意識を取り戻し、最期に言葉を発した」とも伝えられています。
実際には、坂本龍馬はすぐに絶命したわけではなく、少しの間は意識があった可能性があります。彼は暗殺直後、「わしは脳をやられた、もういかん」とつぶやいたとされています。しかし、その後すぐに息を引き取りました。
また、現代の医学的な視点から考えると、出血多量によるショック死の可能性もあります。暗殺当時、医療技術は未発達だったため、すぐに適切な処置を受けることができませんでした。そのため、たとえ致命傷でなくても、助かる可能性はほとんどなかったでしょう。
坂本龍馬は33歳で死去!誕生日に命を落とした数奇な運命
坂本龍馬は慶応3年(1867年)11月15日に暗殺されました。この日は彼の33歳の誕生日でした。つまり、龍馬は誕生日に命を落とすという、なんとも数奇な運命をたどったのです。
旧暦(当時の日本のカレンダー)では11月15日、新暦(今のカレンダー)では12月10日にあたります。誕生日に暗殺されるというのは、日本の歴史でも非常に珍しい出来事です。
坂本龍馬は幕末の激動の中で活躍した人物ですが、結局は明治維新を迎えることなく、この世を去ってしまいました。彼が生きていたら、日本の歴史はどのように変わっていたのでしょうか?
そんな「もしも」を考えると、とても興味深いですね。
暗殺事件「近江屋事件」の全貌!坂本龍馬最期の瞬間
坂本龍馬が暗殺された事件は「近江屋事件」と呼ばれます。事件が起こったのは京都・河原町にあった醤油屋「近江屋」です。
この日、坂本龍馬は同志の中岡慎太郎と一緒に近江屋の2階にいました。そこに「十津川郷士」と名乗る男たちが訪れます。家の人が応対しようとしたところ、突然刀を抜き襲いかかってきたのです。
犯人たちはすぐに龍馬と中岡のいる部屋に突入し、二人を斬りつけました。龍馬は額を深く斬られ、背中にも斬撃を受けました。彼は近くにあった愛刀・陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)を手に取ろうとしましたが、間に合わなかったのです。
襲撃の後、犯人たちはすぐに逃走しました。その場には「刀の鞘(さや)」が一本落ちており、これが後の捜査の手がかりとなります。
襲撃犯の武器とは?坂本龍馬を斬った刀の正体
坂本龍馬を斬ったのは「小太刀(こだち)」という短めの刀でした。特に室内戦では長い刀よりも小太刀のほうが有利です。そのため、刺客たちは最初から狭い部屋で戦うことを想定していたと考えられます。
また、事件現場には刀の鞘(さや)が落ちていたことがわかっています。これにより、後の捜査で「犯人は見廻組の者ではないか?」という説が生まれました。
現在、坂本龍馬を斬ったとされる桂早之助(かつらはやのすけ)の小太刀は京都の「霊山歴史館(りょうぜんれきしかん)」に展示されています。歴史好きなら、一度は見に行ってみるといいですね!
坂本龍馬と中岡慎太郎:暗殺時の違い
この事件では坂本龍馬と中岡慎太郎の両方が襲われました。しかし、二人の運命は大きく異なります。
- 坂本龍馬 → その場で即死状態
- 中岡慎太郎 → 2日間生存し証言を残す
中岡慎太郎は後頭部に深い傷を負いながらも意識がありました。そのため、事件後に 土佐藩士の谷干城(たにたてき)に襲撃の様子を語った とされています。しかし、彼も最終的には11月17日に息を引き取りました。
中岡の証言によって、事件の手がかりがいくつか判明しました。しかし、彼は犯人の顔をよく見ていなかったため、結局誰が暗殺を実行したのかは明確にはなりませんでした。
坂本龍馬の死因:暗殺したのは誰?黒幕と犯人の諸説
坂本龍馬が暗殺された「近江屋事件」は、今でも真相が明らかになっていない歴史のミステリーの一つです。暗殺の実行犯や黒幕については、さまざまな説があり、時代背景とともに考察することで、事件の真相に迫ることができます。
ここでは、有力な説を一つずつ詳しく見ていきましょう。
犯人は京都見廻組が最有力?今井信郎の証言とは
事件の数年後、元京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)の隊士であった今井信郎(いまいのぶお)が、自らの関与を証言しました。この証言は、龍馬暗殺の 最有力説とされています。
今井信郎が語った暗殺の詳細
今井信郎の供述によると、事件当日(1867年11月15日)、京都見廻組は京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)の命令で坂本龍馬の暗殺を実行したといいます。計画を指揮したのは、見廻組の幹部佐々木只三郎(ささきたださぶろう)で、実行犯として桂早之助(かつらはやのすけ)、渡辺篤(わたなべあつし)らが関わったとされています。
決定的な証拠!現場に残された刀の鞘
事件現場には、一本の刀の鞘(さや)が残されていました。今井信郎は、「渡辺篤が現場に鞘を落とした」と証言しており、これが実際の物証と一致することから、京都見廻組の関与が確実視されています。
なぜ坂本龍馬を狙ったのか?
坂本龍馬は、徳川幕府の体制を根本から変えようとする「公議政体論」を提唱していました。これは幕府にとっては脅威となり、龍馬を排除しようとした可能性が高いのです。
新選組犯行説の真相!近藤勇は関与していた?
事件当初、土佐藩は「犯人は新選組ではないか?」と疑いました。その理由として、龍馬とともに襲撃された中岡慎太郎が「これはどう考えても新選組の仕業だろう」と発言したことが挙げられます。
新選組が疑われた理由
- 中岡慎太郎が「新選組の仕業」と証言
- 事件現場に残された鞘が新選組のものだという説
- 新選組が以前から倒幕派を警戒していた
しかし、後の調査によって、新選組は事件当日に会合を開いていたことが確認されており、アリバイが成立しています。そのため、新選組が直接手を下した可能性は 低い と考えられています。
新選組が黒幕だった可能性は?
新選組局長の近藤勇(こんどう いさみ)や副長の土方歳三(ひじかた としぞう)らが「見廻組に暗殺を依頼した」という説もあります。しかし、新選組はあくまで「幕府の治安維持部隊」であり、京都見廻組と連携して龍馬を狙ったという証拠はありません。
薩摩藩黒幕説!西郷隆盛の思惑と人斬り半次郎の影
「薩摩藩(さつまはん)が黒幕だった」という説も存在します。この説では、「西郷隆盛(さいごうたかもり)や薩摩藩が、龍馬を邪魔な存在とみなして暗殺した」とされています。
なぜ薩摩藩が疑われたのか?
- 龍馬は「公議政体」を推進し、武力討幕を避けようとした
- 薩摩藩は武力討幕を主張しており、龍馬の存在が不都合だった
- 暗殺犯に「人斬り半次郎(中村半次郎)」が関与したという説
人斬り半次郎の関与
中村半次郎(のちの桐野利秋)は、薩摩藩の剣豪であり、暗殺を得意としていました。彼が龍馬暗殺に関与していたという説もありますが、確たる証拠はありません。
土佐藩が龍馬を消した?後藤象二郎黒幕説
坂本龍馬の出身地である土佐藩(とさはん)も、彼の暗殺に関与したのではないかという説があります。特に、土佐藩の重臣後藤象二郎(ごとう しょうじろう)が龍馬を見殺しにしたのではないかと考えられています。
土佐藩が龍馬を疎ましく思った理由
- 龍馬は脱藩者であり、藩の方針とは異なる動きをしていた
- 土佐藩の上士たちは、下士(郷士)出身の龍馬を快く思っていなかった
- 事件後、土佐藩の対応が冷たく、葬儀にも消極的だった
後藤象二郎が「わざと龍馬を助けなかった」可能性があり、土佐藩が消極的な態度をとったことが、黒幕説を生んだ原因となっています。
坂本龍馬の暗殺は「政局の犠牲」だったのか?
坂本龍馬の暗殺は、一つの勢力だけが関与したわけではなく、「時代の流れ」によって引き起こされた」 という見方もできます。龍馬はさまざまな勢力から危険視される存在だったのです。
龍馬が暗殺された要因
- 佐幕派(幕府側):龍馬が「幕府を潰そうとしている」と警戒
- 武力討幕派(薩摩・長州):龍馬の「公議政体論」が邪魔だった
- 土佐藩:脱藩者であり、藩にとって厄介な存在だった
このように、龍馬はどの勢力からも「厄介な存在」と見られていました。そのため、一つの組織ではなく、複数の勢力の思惑が絡み合い、龍馬の暗殺につながった可能性が高いのです。
総括:坂本龍馬の死因を簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
坂本龍馬の死因
- 暗殺による頭部の致命傷
- 額を横一文字に斬られ、脳損傷による即死状態。
- 一部の記録では「わしは脳をやられた、もういかん」と最期の言葉を発したとも。
- 事件当時の年齢
- 慶応3年(1867年)11月15日、33歳の誕生日に暗殺
- 新暦では12月10日にあたる。
近江屋事件の詳細
- 事件の発生場所
- 京都・河原町にある醤油屋「近江屋」の2階で発生。
- 暗殺の経緯
- 龍馬と中岡慎太郎が滞在中、「十津川郷士」と名乗る男たちが訪問。
- 応対した者が斬られ、そのまま2階の龍馬たちの部屋へ襲撃。
- 龍馬は額を深く斬られ、背中にも傷を負う。
- 愛刀「陸奥守吉行」を手に取るも、反撃できずに絶命。
- 中岡慎太郎の運命
- 龍馬とは異なり即死せず、2日間生存。
- 事件後に襲撃の様子を証言するも、11月17日に死亡。
坂本龍馬を暗殺した犯人と黒幕の諸説
- 京都見廻組説(最有力)
- 元見廻組隊士・今井信郎が関与を証言。
- 京都守護職・松平容保の命令で佐々木只三郎らが実行。
- 事件現場に落ちていた刀の鞘が証拠として一致。
- 新選組説(冤罪の可能性が高い)
- 事件直後、土佐藩は新選組を疑った。
- 中岡慎太郎も「新選組の者では?」と証言。
- しかし、事件当日に新選組は会合を開いており、アリバイあり。
- 薩摩藩黒幕説
- 龍馬の「公議政体論」が武力討幕を推進する薩摩藩にとって邪魔だった可能性。
- 人斬り半次郎(中村半次郎)が関与した説もあるが、証拠なし。
- 土佐藩黒幕説(後藤象二郎関与の可能性)
- 龍馬は脱藩者であり、土佐藩の方針と対立していた。
- 土佐藩の対応が冷淡で、葬儀にも消極的だった。
- 後藤象二郎が龍馬を見殺しにした可能性。
- 政局の犠牲説
- 龍馬は「佐幕派」「武力討幕派」「土佐藩」など様々な勢力から敵視されていた。
- どの勢力にとっても「都合の悪い存在」になり、暗殺の標的になった。