今日は、歴史の教科書には載っていない「桜田門外の変」の裏話についてお話しします。
「桜田門外の変」と聞くと、雪の降る中、大老・井伊直弼(いいなおすけ)が水戸浪士たちに襲われる…そんなシーンを思い浮かべる人も多いでしょう。けれども、実はこの事件には数々の隠されたエピソードがあるのです!
幕府は直弼の死を隠そうとした?
襲撃者たちは実は「とどめを刺す必要がなかった」?
江戸の町人たちは目の前でこの事件を見ていた?
こうした教科書では学べない「本当の桜田門外の変」を、塾長が分かりやすく解説します!さあ、一緒に歴史の裏側を覗いてみましょう!
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桜田門外の変の裏話とは?隠された真実に迫る
桜田門外の変は、単なる暗殺事件ではなく、幕末の日本に大きな影響を与えた歴史の転換点です。しかし、その背後には一般に知られていない驚くべき真実が隠されていました。
今回は、幕府が隠そうとしたことや、襲撃者たちの意外な行動、江戸庶民の反応などに迫ります。
幕府が隠した「井伊直弼の死」—薬用人参で首を繋げ!?
実は、井伊直弼は襲撃の際に即死していました。しかし、幕府はこの事実をすぐには発表せず、「まだ生きている」と偽ったのです。では、なぜそんなことをしたのでしょうか?
まず、幕府が直弼の死を公にしなかったのは、江戸の治安維持のためでした。幕府の最高権力者が白昼堂々と暗殺されたとなれば、人々の動揺は避けられません。そこで、彦根藩の医師が直弼の遺体を縫い合わせ、あたかも「重病で寝込んでいる」ように装ったのです。
また、面白い話として、当時の江戸町人の間で「薬用人参で首をつげ」という川柳が詠まれました。これは、事件の翌日、将軍・徳川家茂が「直弼の回復を願って」彦根藩邸に薬用人参を送ったことが由来です。しかし、すでに亡くなっている直弼に薬用人参を送っても意味がないため、「人参で首をくっつけるのか?」と皮肉られたのです。
幕府はこの芝居を続けようとしましたが、やがて真実が広まり、井伊直弼の死は正式に発表されました。こうした「隠蔽工作」が行われたことこそ、桜田門外の変の裏話の一つです。
襲撃犯の失敗?井伊直弼はすでに銃撃で絶命していた
桜田門外の変といえば、襲撃者たちが刀で井伊直弼を斬りつけるシーンが印象的ですが、実はその時点で直弼はすでに致命傷を負っていたのです。
襲撃の合図となったのは、水戸藩士・森五六郎が放ったピストルの一発。この弾は至近距離から放たれ、直弼の太ももを貫通しました。当時のピストルは殺傷力が高く、太い血管を損傷すると即死することもありました。実際、検死報告によると、直弼の致命傷はこの銃創によるものでした。
しかし、襲撃者たちはそれに気づかず、駕籠に向かって次々と刀を振るいました。特に薩摩藩士・有村次左衛門が直弼の首を斬り落としたことで、彼は「英雄」として語られるようになりました。
しかし、実際には有村がとどめを刺す必要はなかったのです。この事実を知ると、桜田門外の変は、まるで「必要以上に念入りに行われた襲撃事件」のように思えてきます。
江戸の町人は見ていた!衆人環視の大事件だった
映画やドラマでは、雪の降る中、静かな暗殺劇が繰り広げられるように描かれています。しかし、実際の桜田門外の変は、江戸の町人が大勢目撃していた「衆人環視の事件」でした。
この日、江戸城には多くの大名が登城していました。それに伴い、町人たちは「武鑑」と呼ばれる大名家の名簿を手に、大名行列の見物を楽しんでいました。その中で、井伊家の行列が襲われたのです。当然、周囲には多くの目撃者がいました。
町人たちはこの事件をどう見ていたのでしょうか?当時の記録には「恐怖を感じた者もいれば、無関心を装った者もいた」とあります。また、一部の町人は襲撃者を「国を思う義士」として見ていたものの、多くの人々は「幕府の大老が殺されるなんて、この国は大丈夫なのか?」と不安を感じていたようです。
なぜ水戸浪士に薩摩藩士が1人だけ混じっていたのか?
襲撃者18名のうち、17名は水戸藩士でした。しかし、1人だけ薩摩藩士が混じっていました。それが有村次左衛門です。彼はなぜ、この計画に加わったのでしょうか?
一説によると、薩摩藩はこの事件に直接関与したわけではなく、有村次左衛門の「個人的な行動」だったとされています。しかし、別の説では、薩摩藩の一部の勢力が密かに関与していた可能性があるとも言われています。
さらに、有村は襲撃後に自害しましたが、これは事前に決められていたシナリオだったのかもしれません。なぜなら、もし生き延びて捕まれば、薩摩藩の関与が疑われるからです。つまり、彼は「貧乏くじを引かされた」のではないか、という説もあるのです。
幕末における薩摩藩と水戸藩の関係を考えると、こうした「暗黙の協力関係」があったとしても不思議ではありません。
桜田門外の変が成功しなかったら歴史はどう変わっていた?
もし桜田門外の変が成功しなかったら、日本の歴史は大きく変わっていた可能性があります。井伊直弼は幕府内でも強い権力を持っており、彼が生き延びていたら、幕府の方針はさらに厳しくなっていたでしょう。
まず、直弼は「安政の大獄」を指揮した人物です。彼は反対勢力を次々と弾圧し、尊皇攘夷派を徹底的に取り締まりました。もし彼が暗殺されなかったら、反幕府勢力の取り締まりはさらに厳しくなり、討幕運動が遅れるか、あるいは潰されていたかもしれません。
また、幕府がより強い立場を維持していた可能性もあります。桜田門外の変によって幕府の権威は大きく揺らぎましたが、もし直弼が生き延びていたら、幕府はより強固な体制を築いたかもしれません。そうなれば、幕末の動乱が長引き、維新の流れが変わっていた可能性もあるのです。
桜田門外の変の裏話:教科書に載らない意外な事実
桜田門外の変には、表に出てこない驚くべき裏話がたくさんあります。事件の前にあった暗殺未遂、奇妙な占い、襲撃者たちの処遇など、歴史の隙間に埋もれたエピソードを詳しく見ていきましょう。
井伊直弼は1年前にも暗殺されかけていた
実は桜田門外の変の1年前、井伊直弼は別の襲撃を受けています。場所は赤坂喰違坂(あかさかくいちがいざか)で、襲撃したのは水戸藩士・森五六郎でした。彼は単独でピストルを持ち、直弼を狙撃しましたが、弾は外れ、井伊直弼は無事でした。森五六郎はそのまま濠に飛び込んで逃げたとされています。
この事件を受けて、井伊直弼は警戒を強めるべきでした。しかし、彼は護衛の強化などはせず、通常通りの行動を続けました。その結果、1年後の桜田門外の変で命を落とすことになったのです。もし、この暗殺未遂事件をもっと重く見ていたら、歴史は変わっていたかもしれませんね。
桜田門外の変の直前に出された「不吉な占い」
当時の江戸では、「桜田門外の変」を予言するような不吉な占いがあったと言われています。江戸の陰陽師たちは「幕府に大きな変革が訪れる」という占いを出しており、それが井伊直弼の運命を暗示していたのではないかと言われています。
また、井伊直弼自身も「水戸の怨霊」を気にしていたという話があります。水戸藩は代々、幕府に対して反抗的な動きを見せていたため、井伊直弼は彼らの怒りを恐れていたのかもしれません。さらに、江戸の町には「井伊家に不幸が訪れる」という噂も広まっていました。こうした背景を考えると、桜田門外の変はある意味「運命的な出来事」だったのかもしれません。
「井伊家取り潰し」危機!跡継ぎが決まっていなかった
井伊直弼が暗殺されたとき、彼の跡継ぎは決まっていませんでした。江戸時代の大名は跡継ぎを決めておかないと、家が取り潰されることもあったため、これは非常に危険な状況でした。
幕府が「直弼はまだ生きている」と発表した理由の一つは、彦根藩が跡継ぎを決める時間を稼ぐためだったとも言われています。もし直弼の死がすぐに公表されていたら、彦根藩は混乱し、幕府の権力がさらに弱まっていたかもしれません。
最終的に、井伊家は存続しましたが、それは幕府の政治的な配慮によるものでした。幕末の混乱期において、こうした「裏の事情」もまた重要だったのです。
なぜ桜田門外の変の襲撃者たちは処刑されなかったのか
通常、幕府の要人を襲撃すれば、即座に処刑されるのが普通でした。しかし、桜田門外の変の襲撃者たちは、厳罰を受けながらも処刑された者はほとんどいませんでした。なぜでしょうか?
その理由の一つとして、幕府が事件を大々的に取り上げたくなかったことが挙げられます。もし処刑をすれば、「井伊直弼は襲撃されて殺された」という事実がより鮮明に世間に広まってしまいます。そこで幕府は、あえて厳罰を控えめにしたのです。
また、当時の幕府内でも直弼の政策には反対する声がありました。つまり、襲撃者たちに対して「ある程度の同情」があったのです。そのため、彼らの処遇は比較的軽くなり、生き延びた者も多かったのです。
桜田門外の変が後世に与えた影響
桜田門外の変は、単なる暗殺事件ではなく、日本の政治に大きな影響を与えました。特に、この事件を機に「政治的暗殺」が頻発するようになり、幕末の不安定な情勢が加速しました。
その後の歴史を見ても、坂本龍馬や大久保利通など、多くの要人が暗殺される時代へと突入します。桜田門外の変が、日本の暗殺文化の始まりだったとも言われているのです。
また、井伊直弼の評価も時代とともに変化しました。彼はかつて「暴君」として語られることが多かったですが、近年では「開国を進めた政治家」として再評価されることもあります。歴史は見る角度によって、さまざまな解釈ができるのですね。
総括:桜田門外の変の裏話まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 井伊直弼の死は隠蔽された
- 襲撃で即死していたが、幕府は「重病」と偽装
- 彦根藩の医師が遺体を縫い合わせて生存を装った
- 江戸庶民の間で「薬用人参で首をつげ」と皮肉られる
- 直弼はピストルの一発で致命傷を負っていた
- 水戸藩士・森五六郎の至近距離の銃撃で即死状態
- その後の刀による攻撃は「必要なかった」
- 有村次左衛門が「とどめを刺した英雄」として語られた
- 江戸の町人は衆人環視の中で事件を目撃
- 大名行列見物で多くの江戸町人がその場にいた
- 映画のような静かな暗殺劇ではなかった
- 「幕府の権威が崩れた」と感じた人も多かった
- 襲撃者の中に薩摩藩士が1人だけいた理由
- 有村次左衛門は薩摩の意向ではなく個人の信念で参加?
- 幕府に薩摩藩の関与を疑われないよう、計画的に自害
- 「貧乏くじを引かされた」との説もある
- もし桜田門外の変がなかったら?
- 直弼が生き延びていたら幕府の締め付けはさらに強化
- 安政の大獄が続き、反幕府運動が抑えられていた可能性
- 幕府の権威が維持され、明治維新の流れが変わっていたかも
- 井伊直弼は1年前にも暗殺されかけていた
- 赤坂喰違坂で森五六郎がピストルで狙撃するも失敗
- 直弼は護衛を強化せず、警戒を怠った
- 事件直前に「不吉な占い」が出ていた
- 陰陽師が「幕府の大変革」を予言
- 井伊直弼自身も「水戸の怨霊」を恐れていた
- 井伊家は取り潰しの危機にあった
- 直弼が跡継ぎを決めていなかったため、藩存続が危ぶまれた
- 幕府が死をすぐに発表しなかったのは時間稼ぎのため
- 襲撃者たちはなぜ処刑されなかった?
- 幕府は事件の影響を抑えるため厳罰を避けた
- 幕府内でも直弼の政策に反対する勢力があり、処遇が軽減された
- 桜田門外の変が後世に与えた影響
- この事件をきっかけに「政治的暗殺」が頻発
- 坂本龍馬や大久保利通なども後に暗殺される流れに
- 井伊直弼の評価は「暴君」から「開国の政治家」へと変化している