今日は「孫文(そんぶん)」という中国の偉人が「何をした人なのか」を、小学生にも分かるように、バッチリお伝えします。
さらに、孫文がなぜ日本に亡命してきたのか、どんな日本人と関わっていたのかも紹介します。
さあ、一緒に中国の歴史を動かした男・孫文のすごさを学んでいきましょう!
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孫文は何をした人か簡単に解説!中国革命の父の功績
孫文は「中国革命の父」と呼ばれています。アジアで初めての共和国・中華民国をつくり、古い王朝である清を倒したことで知られています。でも、それだけじゃありません。
政治の考え方を示したり、日本で仲間を集めたり、中国共産党とも手を組んだりと、大活躍した人物です。
中国初の共和国「中華民国」をつくった人
孫文の一番大きな功績は、清という王朝を倒して、中国で初めての「共和国(きょうわこく)」をつくったことです。この大きな動きは「辛亥革命(しんがいかくめい)」とよばれています。
1911年、中国では「清(しん)」という皇帝のいる国が続いていましたが、民衆の不満が高まり、ついに反乱が起きました。そのリーダーが孫文です。
辛亥革命の成功によって、清はほろび、1912年に「中華民国(ちゅうかみんこく)」という新しい国が生まれました。孫文は最初の「臨時大総統(りんじだいそうとう)」になり、皇帝のいない新しい国の形を始めたのです。
「三民主義」を唱え政治の理念を示す
孫文は国を良くするために、「三民主義(さんみんしゅぎ)」という考え方を作りました。これは、中国をどうやって平和で豊かな国にするかを示したものです。
三民主義の内容は、次の3つです。
- 民族主義(みんぞくしゅぎ)…外国からの支配をなくし、中国人の国にすること
- 民権主義(みんけんしゅぎ)…みんなが政治に参加できること
- 民生主義(みんせいしゅぎ)…みんなの生活を豊かにすること
この三つの考えは、中国の人々に希望を与え、今の中国にも大きな影響を残しています。
革命団体「中国同盟会」を日本で結成
孫文は、日本にいるときに仲間と一緒に「中国同盟会(ちゅうごくどうめいかい)」という団体を作りました。これは、清をたおして新しい国をつくるためのグループです。
1905年、東京でこの団体を立ち上げ、海外にいる中国人や日本の支援者とも協力して、革命の準備を進めました。日本では、孫文を応援する人も多く、資金や物資の支援も受けながら活動していました。
この同盟会が、のちに「国民党(こくみんとう)」という大きな政党へと成長していくのです。
「国共合作」を実現:中国共産党と協力しました
孫文は、より多くの人の力を集めるために、1924年に中国共産党(ちゅうごくきょうさんとう)と手を組むことを決めました。これを「国共合作(こっきょうがっさく)」といいます。
このとき、孫文がつくった国民党と、まだできたばかりの共産党が協力して、外国の支配や内戦と戦う体制を整えました。
この協力関係は、中国を変える大きな一歩となり、後の歴史にもつながっていきます。いろんな考えの人たちをまとめようとした、孫文のリーダーシップが光る場面です。
孫文の死後も「革命未だ成らず」という言葉が影響
1925年、孫文は病気で亡くなりました。亡くなる直前に残した言葉が「革命いまだ成らず(かくめい いまだ ならず)」です。これは、「自分の目指した理想の国はまだ完成していない。これからも続けていってほしい」という意味です。
この言葉は、その後の中国の指導者たちにとって、とても大切な言葉となりました。今でも孫文は、「中国の近代化を最初に始めた人物」として、尊敬されているのです。
孫文は何した人か簡単に:日本に亡命した理由など
孫文は中国国内で何度も革命を起こそうとしましたが、何度も失敗し、そのたびに外国に逃れていました。とくに「日本」は孫文にとって大事な場所でした。
ここでは、孫文がなぜ日本に亡命したのか、そして日本でどんな活動をして、誰に助けられたのかを、わかりやすく解説します!
清への反乱に失敗したから
孫文が日本に亡命した最初の理由は、1895年におこなった「広州蜂起(こうしゅうほうき)」という武装反乱の失敗でした。このとき清王朝に反抗しようとしましたが、うまくいかず、命を狙われる身となってしまったのです。
その後、香港や東南アジアを経て、安全な場所を求めて日本にやってきました。日本は当時、明治維新を経験して近代国家として成功していたこともあり、多くの中国人留学生や革命家たちが集まる場所になっていました。
孫文も、日本で仲間を集め、次の革命の準備を進めていったのです。
日本で支援者を得て革命活動を継続
日本に来た孫文は、ただ逃げてきただけではありません。日本人の支援者たちと出会い、大きな助けを受けながら革命運動を続けていきました。
とくに有名なのが、宮崎滔天(みやざき とうてん)や梅屋庄吉(うめや しょうきち)といった人物です。彼らは孫文の理想に共感し、お金や住む場所を提供するなど、さまざまな支援をしてくれました。
また、政治家の犬養毅(いぬかい つよし)なども孫文に協力していたことで知られています。日本と中国の人々が、理想の国を目指して力を合わせていたのです。
日本で革命団体の結成し軍資金を調達
日本にいる間、孫文は「興中会(こうちゅうかい)」や「中国同盟会(ちゅうごくどうめいかい)」といった革命団体をつくり、仲間を集めました。これらの団体は、日本を拠点にして中国の清王朝を倒すための計画や活動を行っていました。
とくに資金集めや武器の調達が重要な仕事でした。日本国内では武器の手配や、船で中国へ送る準備なども行われていたと言われています。
日本での活動は、ただの「亡命生活」ではなく、本格的な革命の準備期間だったのです。
なぜ日本に繰り返し亡命してきたのか
孫文は一度だけでなく、何度も日本に来ています。なぜ繰り返し日本を亡命先に選んだのでしょうか?理由は大きく3つあります。
まず一つ目は、日本が地理的に近く、中国から逃げやすかったこと。二つ目は、日本に中国人留学生や仲間が多くいたこと。情報や支援を得やすかったのです。そして三つ目は、日本政府がある程度、孫文の活動を黙認していたことです。
もちろん完全に自由ではありませんでしたが、ほかの国よりは活動しやすかったのです。孫文にとって、日本は「戦いを準備するための安全な場所」だったのです。
孫文と日本人の交流が残した歴史的意義
孫文は亡命中、多くの日本人と深く交流を持ちました。これは単なる支援にとどまらず、日中の歴史に大きな影響を与える交流だったのです。
孫文の理想に共感した日本人は、彼を「中国の未来を変える人物」として応援し続けました。その中にはお金持ちの商人だけでなく、普通の庶民もいました。宿を提供したり、手紙を運んだりと、いろんな形で支えていたのです。
こうした関係は、今でも日本と中国の友好の象徴として語り継がれています。たとえば、神戸にある「孫文記念館」はその交流の証であり、多くの人が訪れています。孫文の人生には、日本との絆が深く刻まれていたのです。
総括:孫文は何したか簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
孫文は何をした人か?
- 清王朝を倒し、中国初の共和国「中華民国」を建国した(辛亥革命のリーダー)。
- 「三民主義(民族・民権・民生)」を唱えて近代国家のビジョンを示した。
- 日本で「中国同盟会」を結成し、革命の拠点とした。
- 国民党と共産党による「国共合作」を実現し、協力体制を築いた。
- 「革命いまだ成らず」という言葉を残し、後世に影響を与えた。
孫文が日本に亡命した理由と活動
- 清への反乱に失敗し、日本に亡命(特に1895年の広州蜂起後)。
- 宮崎滔天や梅屋庄吉など、日本人の支援者に助けられて活動を継続。
- 日本で興中会や中国同盟会を設立し、資金・武器調達を行った。
- 日本は安全で地理的にも近く、活動拠点として最適だった。
- 孫文と日本人の交流は、日中の友好関係に今も影響を与えている。