みなさん、戦国時代の「最強」といえば誰を思い浮かべますか?ここで忘れてはいけないのが「武田信玄」とその後を継いだ武田勝頼(たけだ かつより)です。

父・信玄の後を継ぎ、戦国の世を駆け抜けた武田勝頼。しかし、彼は「家を滅ぼした愚将」とも言われています。でも、本当にそうだったのでしょうか?

この記事では、武田勝頼の最後の瞬間に迫ります!

彼はどこで、どのように命を落としたのか? 彼の首はどうなったのか? なぜ家臣に裏切られてしまったのか?

歴史を分かりやすく解説する「塾長」が、みなさんにとことん説明していきますよ!

武田勝頼の最後死因や首実検・最期の状況

武田勝頼は、父・信玄亡きあと「戦国最強の武田家」を背負いました。しかし、時代の流れと敵の包囲網によって、1582年(天正10年)にその生涯を終えることになります。

では、その最期の瞬間とはどんなものだったのでしょうか?

武田勝頼の最後は天目山での自害!織田・徳川軍の猛攻による悲劇

武田勝頼の最期の地は天目山(てんもくざん)。彼はここで自害することになります。

1582年、織田信長は「甲州征伐(こうしゅうせいばつ)」を開始しました。これは、武田家を滅ぼすための大規模な攻撃です。信長は織田軍、徳川軍、北条軍を動かし、四方から武田領を包囲しました。勝頼は最初、甲府の「新府城(しんぷじょう)」で防戦しようとしますが、敵の猛攻と家臣の裏切りによって撤退を決意します。

勝頼は、信頼していた家臣・小山田信茂(おやまだ のぶしげ)を頼り、彼の岩殿城(いわどのじょう)へ逃げようとします。しかし、小山田信茂も織田軍に内通しており、城に入ることができませんでした。

行き場を失った勝頼は、わずかな側近を連れて天目山へ向かいます。しかし、すでに織田軍が待ち構えていました。勝頼たちは必死に戦いましたが、圧倒的な兵力差により全滅。ついに勝頼は息子・信勝(のぶかつ)や妻とともに、自害して生涯を閉じたのです。

武田勝頼の首はどうなった?信長による首実検の詳細

戦国時代において、敵の大将の首は「戦の勝利」を示す重要な証拠でした。では、勝頼の首はどうなったのでしょうか?

勝頼の首は、織田軍によって織田信忠(のぶただ)のもとへ送られました。しかし、ここである問題が発生します。なんと、勝頼の首が誰のものか分からなくなってしまったのです! 多くの武将の首が並ぶ中で、どれが勝頼のものか区別がつかなかったのです。

最終的に、勝頼の首には討ち取った武将の馬の毛が付いていたことから判明しました。その後、首は織田信長のもとへ送られ、信長自らが首を確認します。その際、信長が杖で勝頼の首を叩いたという逸話も残っています。

翌日、勝頼の首は飯田の町で晒され、多くの人がそれを見に集まったとされています。

武田勝頼の死因と辞世の句~彼が最期に遺した言葉とは?

武田勝頼が自害する際、彼は辞世の句を詠んだとされています。辞世の句とは、「人生の最後に詠む詩」のことです。

勝頼の辞世の句は以下の通りです。

「朧(おぼろ)なる 月もほのかに 雲かすみ 晴て行衛(ゆくゑ)の 西の山の端」

この句には、「月が雲に隠れ、行く先が見えない…」という意味が込められています。まさに、武田家の滅亡を象徴するような悲しい言葉です。

また、16歳で亡くなった嫡男・信勝も辞世の句を残しました。

「またき散る 花とおしむな おそくとく ついに嵐の 春の夕暮」

「散る花を惜しむことはない。遅かれ早かれ、嵐が吹けば散るのだから…」という意味です。若くして死を迎えた信勝の悲しい運命が感じられます。

なぜ武田勝頼は敗れたのか?家臣の裏切りと孤立が決定打に

武田家の滅亡の要因のひとつは、家臣の裏切りです。特に、以下の武将たちの寝返りが勝頼を苦しめました。

  • 木曽義昌(きそ よしまさ) … 信長に寝返り、勝頼の背後を突く
  • 穴山梅雪(あなやま ばいせつ) … 徳川家康と内通し、武田軍を崩壊させる
  • 小山田信茂(おやまだ のぶしげ) … 最後の逃亡先・岩殿城を裏切る

信玄時代の武田家は「最強」と言われましたが、それは「武田信玄のカリスマ」があったからこそ。勝頼は、家臣をまとめる力が弱く、多くの裏切りにあってしまいました。

これが、武田家滅亡の決定的な要因となったのです。

武田勝頼の最後:戦略ミスと家臣の裏切り&家系滅亡

武田勝頼は長篠の戦いで敗北した後、武田家の立て直しを図りました。しかし、織田・徳川の猛攻や、家臣の裏切りが続き、武田家は急速に崩壊していきます。

果たして、勝頼はどのように戦い、どのように滅びていったのでしょうか?

長篠の戦いが武田家滅亡の転機だった!

3,000丁の鉄砲と織田・徳川の戦術が武田騎馬軍団を壊滅させた

長篠の戦いといえば「鉄砲三段撃ち」が有名ですが、実際はこれが戦いの決定打ではなく、織田軍の周到な戦略と陣地構築が武田軍の敗因でした。

武田家の主力武将を多数失った影響

この戦いで武田家の重臣のほとんどが戦死し、武田軍の中核が崩壊。勝頼は再起を図りますが、次第に家臣の忠誠心が薄れていきます。

その後の戦略転換の失敗が滅亡を早めた理由

長篠の敗北後、勝頼は織田軍と正面対決を避け、守りを固める戦略を取ります。しかし、守勢に回ったことで武田家の求心力は低下し、家臣の離反が相次ぐことになりました。

長篠の戦い後の勝頼の苦悩、信玄時代との違い

信玄の時代には武田家は攻める側でしたが、勝頼の時代には守る側に変わってしまいました。これが家臣の士気を下げ、武田家崩壊の原因となってしまいました。

家臣の裏切りが止まらなかった!武田家崩壊の理由

木曽義昌の離反が決定的なダメージに

武田家の家臣・木曽義昌は、織田信長と通じて武田を裏切ります。これにより、武田家の防衛線が崩れ、織田軍の侵攻を許してしまいました。

穴山梅雪の裏切り、徳川家康との内通の証拠

穴山梅雪も徳川家康と密かに通じ、武田家の内部情報を漏らしていました。勝頼にとっては、信頼していた家臣の裏切りが相次ぐことになります。

小山田信茂の最後の裏切りが致命傷となった背景

勝頼は、最終的に小山田信茂を頼って岩殿城へ逃げようとしましたが、小山田も裏切り、織田軍に通報。 これが、武田家滅亡の決定打となりました。

武田勝頼が取るべきだった選択肢とは?もし○○だったら…

武田勝頼は戦国の乱世で数々の決断を下しましたが、もし違う選択をしていたら、武田家は存続できたのでしょうか?ここでは、いくつかの「もしも」を考察していきます。

もし勝頼が長篠の戦いを避けていたら?

長篠の戦いでの敗北は武田家にとって大きな痛手となりました。しかし、もし勝頼がこの戦いを避け、従来のゲリラ戦術を取っていたらどうなっていたでしょうか?
織田・徳川の連合軍との全面対決を避け、武田流の機動戦を続けていたら、武田軍の主力が壊滅することはなかったかもしれません。結果として、戦力を温存し、織田信長の勢力拡大を遅らせることができた可能性があります。

もし勝頼が上杉景勝ではなく北条氏と手を組んでいたら?

上杉謙信の死後、武田勝頼は上杉景勝と同盟を結びましたが、もしここで北条氏と結束していたらどうなっていたでしょうか?
北条家は関東地方で勢力を伸ばしており、徳川家と対立していました。武田と北条が手を組んでいれば、徳川家康の勢力拡大を抑え、織田信長に対しても強固な防衛線を築けた可能性があります。

もし勝頼が岩殿城ではなく真田昌幸の岩櫃城へ向かっていたら?

勝頼は滅亡の直前、小山田信茂の岩殿城を目指しましたが、直前で裏切られてしまいました。もしこのとき、信頼できる真田昌幸の岩櫃城へ向かっていたらどうだったでしょうか?
真田昌幸は軍略に長け、後に徳川家康をも苦しめる戦術家でした。勝頼が岩櫃城に逃れていれば、再起のチャンスがあったかもしれません。

武田家滅亡後の家臣・一族の運命

武田勝頼が滅亡した後、武田家の生き残りや家臣たちはどのような運命を辿ったのでしょうか?

武田家の生き残りは?江戸時代に続いた血筋

武田家が滅亡した後も、血筋は完全に絶えたわけではありません。勝頼の親族や子孫の一部は、江戸時代に大名や旗本として存続しました。例えば、武田信玄の末裔は徳川家に仕え、武田家の名を残しました。

徳川家康が武田遺臣を取り込んだ理由

武田家の家臣の多くは、徳川家康に仕えました。家康は武田の戦術や組織力を高く評価し、「武田流軍学」を取り入れました。特に、武田家の軍師・山本勘助の戦術は、徳川軍の基礎となっています。

真田昌幸・真田信繁(幸村)と武田家のつながり

真田家も元々は武田家の家臣でした。武田家滅亡後、真田昌幸は独立し、のちに関ヶ原の戦いで西軍についたり、大坂の陣で真田幸村が奮闘するなど、戦国史に名を残しました。

後世に受け継がれた「武田信玄・勝頼の教え」

武田信玄の「風林火山」の教えや戦術は、江戸時代の武士道にも影響を与えました。武田勝頼の失敗から学ぶことで、後の大名たちは「家臣団の結束」や「慎重な判断」の大切さを学んだのです。

「風林火山」の軍旗はどうなった?武田の遺産と影響

武田家の象徴である「風林火山」の軍旗は、後世の大名や武士たちに大きな影響を与えました。現在でも甲府の武田神社には、武田家の遺品が残され、歴史好きの間で語り継がれています。

総括:武田勝頼の最後まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 武田勝頼の最期:1582年、天目山で自害
  • 敗因:織田・徳川軍の猛攻、家臣の裏切り
  • 首実検:勝頼の首が織田軍に送られ、信長が確認
  • 辞世の句:滅亡を嘆く内容
  • 裏切り:木曽義昌・穴山梅雪・小山田信茂らが離反
  • 長篠の戦い:鉄砲戦術に敗れ、武田家の衰退が加速
  • もしも…:異なる決断をしていれば存続の可能性も
  • 武田家滅亡後:家臣は徳川家康に仕え、武田流軍学が継承
  • 武田家の遺産:「風林火山」の旗や戦術が後世に影響