今回は「ベルサイユ条約」をテーマに、子どもにも分かりやすく解説していきますよ。
「ベルサイユ条約って何?」
「なぜ問題になったの?」
と疑問に思っている人も多いはず。
そんなみんなの疑問にしっかり答えていきますので、歴史がちょっと苦手という子も安心して読んでくださいね。
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ベルサイユ条約を簡単に解説!内容・背景・影響
ベルサイユ条約は、第一次世界大戦を終結させるために結ばれた重要な条約です。戦後の世界秩序を大きく変えたこの条約が、どんな内容で、どのような影響を与えたのかを解説します。
ベルサイユ条約とは:第一次世界大戦を終わらせた講和条約
ベルサイユ条約(べるさいゆじょうやく)は、第一次世界大戦のあとに結ばれた「戦争を終わらせるための約束ごと」です。1919年、フランスの首都パリの近くにある「ベルサイユ宮殿」で、ドイツと連合国のあいだで結ばれました。
この条約は、戦争に勝った国(連合国)が、負けた国(ドイツ)に「これからどうするか」を決めさせたものでした。だから内容もとてもきびしく、ドイツにたくさんの責任や負担をおわせたのです。
名前の「ベルサイユ条約」は、調印(ちょういん=サイン)された場所「ベルサイユ宮殿」から来ていますよ。
国際連盟の設立が最大の特徴
ベルサイユ条約のなかでも、特に大きなポイントが「国際連盟(こくさいれんめい)」の設立です。これは「もう戦争を起こさないように、世界のみんなで話し合おう」という仕組みです。
アメリカのウィルソン大統領が提案した「十四か条の平和原則」の中でも一番大事にされた内容でした。国際連盟には日本も参加し、イギリス・フランスなどと一緒に、世界の平和を守る「常任理事国」として活動しました。
しかし、国際連盟を作ったアメリカ自身は国内の反対が強くて、結局加盟しなかったのです。提案した国が入らないという、ちょっと不思議な結果になりました。
ドイツの軍備制限と非武装地帯の設定とは?
ベルサイユ条約では、ドイツの軍事力を大きく制限しました。これは「また戦争をしないようにするため」です。まず、徴兵制(ちょうへいせい)という制度がなくなり、ドイツ軍の人数は10万人に制限されました。
さらに、潜水艦や航空機の使用も禁止され、戦車や重い武器の保有も制限されました。とくに「ラインラント」という地域は「非武装地帯」とされて、ドイツはそこに軍を置くことができなくなったのです。
こうしてドイツの力を小さくし、戦争がふたたび起こらないように工夫されたのです。
ドイツの領土縮小と植民地の喪失がどう影響したか
条約の中では、ドイツの領土が大きく削られました。たとえば、アルザス・ロレーヌ地方はフランスに返され、ポーランドに「ポーランド回廊(かいろう)」という土地が渡されました。これは、ポーランドが海に出られるようにするためのものでした。
さらに、ザール地方は国際連盟の管理下におかれ、15年後にどこに属するかを住民投票で決めることになりました。また、ドイツは持っていた海外の植民地もすべて失い、イギリスやフランスなどに分けられました。
このように、ドイツの国の広さは小さくなり、経済的にも大きなダメージを受けたのです。
ドイツに課された賠償金と戦争責任の重さとは
ベルサイユ条約では、第一次世界大戦の責任が「ドイツにある」とされました。そして、その戦争で連合国側が受けた損害に対して「賠償金(ばいしょうきん)」を払うように命じられました。
賠償金の金額は最終的に1320億マルクにのぼり、今の日本円で約200兆円とも言われています。とても払いきれる金額ではなく、ドイツの経済はボロボロになってしまいました。
この「戦争責任条項(じょうこう)」と高額の賠償金は、ドイツ国民にとってとても大きな怒りの原因となりました。
ベルサイユ条約を簡単に:問題点とその後の影響
ここからは、ベルサイユ条約がもたらした「問題点」や「その後の影響」について、塾長がわかりやすく説明していきます。条約がきっかけとなって、世界がどう動いたのか、そして何が教訓として残ったのかを一緒に考えてみましょう!
問題点①一方的な内容がドイツの反発を招いた理由とは?
ベルサイユ条約は、戦勝国が敗戦国ドイツに対して一方的に内容を押しつけたものでした。ドイツはこの条約を「ディクタート(命令)」と呼び、とても不満を持っていました。
なぜなら、交渉に参加できず、ただ「サインしなさい」と言われたからです。しかも内容はとてもきびしく、国の経済や軍事、領土など、あらゆる面で制限されました。
これにより、ドイツ国民の多くが「こんな条約は不公平だ」と怒りを感じるようになり、その感情が後の大きな混乱へとつながっていくのです。
問題点②アメリカが批准しなかったのはなぜ?
ベルサイユ条約はアメリカのウィルソン大統領が大きな役割を果たして作られましたが、アメリカ国内では「条約に賛成しない」という声が強く、最終的に議会で否決されてしまいました。
その理由は、「アメリカが他国の問題に巻き込まれてしまうのでは?」という心配があったからです。特に、国際連盟に入ることで、アメリカが戦争に引きずり込まれることを避けたいと考える人が多かったのです。
その結果、アメリカは国際連盟にも参加せず、ベルサイユ条約も批准(ひじゅん=正式に認めること)しませんでした。
ヒトラーの台頭とナチス政権成立の原因に?
ベルサイユ条約による厳しい内容は、ドイツ国民の心に深い怒りと不満を残しました。この感情を利用して台頭してきたのが、アドルフ・ヒトラー率いるナチスです。
ヒトラーは「ベルサイユ条約を破棄する」と主張し、「ドイツの誇りを取り戻そう!」と国民に訴えかけました。すると、条約に苦しめられていたドイツ国民の多くがヒトラーに希望を見出し、彼を支持するようになったのです。
このように、ベルサイユ条約はヒトラーのような独裁者が生まれる土台を作ってしまったとも言えるのです。
第二次世界大戦へつながった過程とは?
ヒトラーが政権をにぎると、まずベルサイユ条約で禁止されていた「再軍備(再び軍を持つこと)」を始めました。1935年には軍の規模を大きくし、戦車や戦闘機も作り始めました。
1936年には、非武装地帯だったラインラントへ軍を進めました。これも条約違反ですが、イギリスやフランスは何もしませんでした。
こうして、ベルサイユ条約は「守られない約束」になってしまったのです。そして、1939年にドイツがポーランドに侵攻したことで、イギリスとフランスが宣戦布告し、第二次世界大戦が始まってしまいました。
ベルサイユ条約の教訓とは?平和を築くために必要な視点
ベルサイユ条約は、第一次世界大戦を終わらせるために結ばれたものですが、その内容が厳しすぎたことで、かえって新たな戦争を生んでしまいました。
ここから学べる教訓は、「勝った側が負けた側に厳しすぎる態度をとると、新たな争いを生む可能性がある」ということです。戦争を防ぐには、相手をゆるす心や、対話を重ねる姿勢がとても大切なのです。
また、国際社会が一つになって協力する仕組みも必要です。現代の国連(こくれん)は、そのような考えのもとで作られました。過去の失敗を活かして、未来の平和を守っていくことが、今を生きる私たちの大切な役目なのです。
総括:ベルサイユ条約を簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
ベルサイユ条約の要点
- ベルサイユ条約とは?
第一次世界大戦を終わらせるために1919年に結ばれた講和条約。場所はフランスのベルサイユ宮殿。 - 国際連盟の設立が最大の特徴
世界平和を目指すための国際組織「国際連盟」が条約の中で設立された(ただしアメリカは不参加)。 - ドイツの軍備制限と非武装地帯の設定
ドイツの軍隊は10万人に制限され、ラインラントは非武装地帯となった。武器や兵器の使用も禁止された。 - ドイツの領土縮小と植民地喪失
アルザス・ロレーヌやザール地方などを失い、植民地も全て失った。経済的打撃が大きかった。 - ドイツに課された賠償金と戦争責任
1320億マルクという高額な賠償金が課され、ドイツは「戦争の責任者」とされたため国民の怒りが増した。
ベルサイユ条約の問題点と影響
- 一方的な内容がドイツの反発を招く
ドイツは条約に参加できず、一方的に内容を押しつけられ「命令(ディクタート)」と呼んで反発した。 - アメリカは条約を批准しなかった
ウィルソン大統領は推進したが、議会が反対しアメリカは国際連盟にも参加しなかった。 - ヒトラーとナチスの台頭につながった
条約に不満を持つ国民の心をつかみ、ヒトラーが「条約破棄」を掲げて支持を集めた。 - 第二次世界大戦への引き金になった
ドイツは条約を破って再軍備を進め、最終的にポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まった。 - 教訓:厳しすぎる講和は新たな争いを生む
平和のためには、対話とゆるし、そして国際協調が重要であるという学びを残した。
