今回は「辻政信の死因」について、分かりやすく解説していきます。

辻政信(つじまさのぶ)は、昭和の軍人・政治家として知られていますが、その最期は非常にミステリアス。1970年代に突然行方不明となり、今なお「死因は何だったのか?」と多くの人に検索されています。

また彼は、戦争中の行動や言動から「卑怯な性格」とも言われ、その性格が失踪や死と関係しているのでは?という声もあります。今回はその「行方不明の真相」と「辻政信の性格」に分けて、丁寧に解説していきますよ!

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辻政信の死因は何?行方不明の真相

辻政信の死因については、実のところ「不明」です。彼は1970年代に東南アジアで突然行方不明になり、それ以来、遺体も遺品も見つかっていません。それでも、彼の行動記録や現地の状況から、いくつかの可能性が考えられています。ここでは、その真相に迫るヒントを探っていきます。

辻政信の死因は「不明」:行方不明になった経緯

辻政信の死因について明確な記録は残っていません。1970年、彼は参議院議員という立場にも関わらず、単独でラオスを訪れ、消息を絶ちました。その後、日本政府や関係機関が捜索にあたりましたが、ついに発見には至りませんでした。

行方不明の地はベトナム戦争の影響が色濃く残る地域であり、治安も非常に悪かったのです。このような背景から、「戦争に巻き込まれた」「スパイと間違われた」「政治的に暗殺された」など、さまざまな説が浮上しています。

つまり、死因は公式には「不明」ですが、状況からいくつかの有力な仮説が立てられているのです。

行方不明になったのはいつ?ラオスでの失踪事件の概要

辻政信が姿を消したのは、1970年4月10日。彼はラオスの首都ヴィエンチャンから「ルアンパバーン」という都市へ移動する途中で消息を絶ちました。目撃情報や通信記録もなく、その日を最後に一切の足取りがつかめなくなります。

この時期のラオスは、ベトナム戦争の影響で政情が極めて不安定。辻が移動していたルートはパテト・ラオ(共産ゲリラ)や北ベトナム軍の活動地域に近く、外国人の立ち入りは非常に危険でした。

日本政府は現地で捜索を行いましたが、有力な手がかりは見つからず、彼は1980年に「死亡宣告」されます。

死因候補①ベトナム戦争に巻き込まれた可能性

最も現実的とされている説の一つが「ベトナム戦争に巻き込まれた」説です。

当時のラオスや周辺国では、アメリカ軍、北ベトナム軍、パテト・ラオなどが入り乱れており、情勢は戦場そのもの。一般市民でさえ巻き添えになっていた地域を、単独で旅していた辻が何らかのトラブルに遭った可能性は高いです。

現地では外国人がゲリラに拘束されたり、スパイと疑われて処刑されるケースもありました。辻政信が軍人であり政治家だったことも、現地ゲリラの目には「スパイ」として映ったかもしれません。

つまり、彼がそのまま現地の武装勢力に捕まり、殺害された可能性は十分に考えられるのです。

死因候補②政治的暗殺の可能性

もう一つの説が、「政治的暗殺」説です。

辻政信は戦時中に参謀本部で重要な役割を担っており、戦後も参議院議員として活躍。戦争犯罪や旧軍関係の情報にも精通していたことから、「口封じ」として暗殺されたという噂も根強く残っています。

特に彼は、戦後GHQによる戦犯追及から逃れていた数少ない軍人の一人でした。政治的・軍事的に不都合な情報を持っていた可能性があるため、関係者がその存在を「消す」必要があったのでは?と囁かれたのです。

ただし、この説には決定的な証拠がなく、あくまで「陰謀論」に近いものです。しかし、彼の行動歴や性格からして、完全に否定することもできないのです。

死因候補③自作自演の失踪説と「逃亡」の根拠

三つ目の説は、「自作自演による逃亡」です。

辻政信は戦中に多くの命令を下し、多数の死傷者を出したため、「戦争責任」を問われる立場にありました。そのため、何らかの罪を問われる前に、自ら姿を消したという考えです。

実際、辻は戦後に一時期失踪していた過去もあり、「潜伏」や「逃亡」に慣れていた一面があります。さらに、1970年のラオス訪問も、なぜ単独で行動したのか疑問が残るところです。

彼がどこかの国で別人として暮らしていた、あるいは亡命したという都市伝説もありますが、こちらも証拠が見つかっておらず、あくまで「可能性」のひとつとされています。

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辻政信の死因の後に:卑怯な性格と批判される理由

辻政信という人物は、戦争の最前線で作戦を立てた一方、その行動や発言が「卑怯」「無責任」と批判されることが多い人物です。

なぜ彼がそう評価されるようになったのか?

ここからは、辻政信の性格や評判、そしてなぜ“卑怯”とまで言われたのかを解説していきましょう。

辻政信が“卑怯”とされる理由:インパール作戦への関与

辻政信が「卑怯」と言われる最大の理由が、無謀な作戦として知られる「インパール作戦」への関与です。

この作戦は、インド・ビルマ(現在のミャンマー)戦線における日本軍の大規模攻撃でしたが、補給線が確保できていなかったため、結果として数万人の兵士が餓死や病死に追い込まれました。

辻はこの作戦を「精神力でやれる」と主張し、現場の反対意見を無視して強行した人物の一人とされています。にもかかわらず、自分は安全な後方にいて責任を取らなかったため、「兵を見捨てた」「口先だけの参謀」と酷評されているのです。

戦後に責任を取らず、戦犯逃れした経緯も批判の的

戦後、多くの旧日本軍幹部が戦争責任を問われる中、辻政信は一時潜伏し、なんと戦犯指定を免れています。その後、変装して南米や東南アジアに逃れ、帰国後は政治家にまでなったのです。

この行動は多くの人にとって「ずるい」「逃げ得ではないか」と映りました。特に、同じように作戦責任を負っていた将校たちが戦犯となったことを考えると、辻の“生き残り方”は卑怯と見られても仕方がありません。

「戦争で犠牲になった兵士を見捨てた上、自分は政治家に転身するなんて…」という世論が、彼のイメージをさらに悪化させたのです。

部下からの評判も最悪?現場での評価と証言

戦場での辻政信の評判は、決してよくありませんでした。彼の命令はしばしば無茶であり、現場の実情を無視していたため、多くの部下からは「机上の空論」「現場知らず」と見られていました。

さらに、自分の責任になることは他人に押し付け、手柄は自分のものにするというスタンスも不評でした。元部下や同僚の回想録には、「辻にはついていけなかった」「人の命を数字でしか見ていない」という厳しい言葉も残されています。

つまり、現場の兵士たちからも信頼を得ていたとは言いがたいのです。

「卑怯な性格」は本当か?軍人としての戦略眼は評価も

一方で、彼の作戦立案能力や状況分析の鋭さは、一定の評価を受けています。
ノモンハン事件やマレー作戦では、辻の働きが戦局に好影響を与えたとも言われており、「優秀な参謀だった」とする声もあります。

つまり、「性格的には問題があっても、軍人としての能力は高かった」という二面性を持った人物だったとも言えるでしょう。

ただし、やはりその能力をどう使うかが問題であり、実際には多くの兵士を無謀な命令で死なせてしまったことを考えると、「評価できるかどうか」は議論が分かれるところです。

辻政信の最後と“性格”は関係しているのか?

辻政信の最後が「行方不明」で終わったのは、偶然だったのでしょうか?

それとも、「自分の責任を問われたくない」「真実を語りたくない」という彼の性格が関係していたのでしょうか?

前述のように、彼は戦後も逃亡生活を送った経験があり、「隠れる」ことに慣れていたとも言えます。また、「失踪は自作自演だったのでは?」という説が出てくるのも、彼の過去の行動パターンからすると信憑性が出てきてしまうのです。

つまり、辻政信の“卑怯”とされる性格が、最期の謎めいた失踪とどこかでつながっている可能性も否定できません。

総括:辻政信の死因まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 辻政信の死因は不明。1970年にラオスで行方不明になり、遺体も遺品も発見されていない。
  • 失踪はラオスの内戦やベトナム戦争の影響を受けた危険地帯で発生。
  • 有力な死因説は以下の3つ:
    • 戦争に巻き込まれた
    • 政治的暗殺
    • 自作自演による逃亡
  • 辻は「インパール作戦」など無謀な作戦を立案し、兵士の大量死を招いたことで「卑怯」と批判された。
  • 戦後は戦犯追及を逃れ、潜伏や変装を経て政治家へ転身。これも批判の的に。
  • 部下からの評判も悪く、現場を無視した命令や責任転嫁が問題視された。
  • 一方で、戦略面での参謀能力は評価されることもあり、賛否が分かれる人物。
  • 最期の失踪は、彼の「逃げる」性格と無関係とは言い切れない