日本の歴史の中で「言いたいことが言えなくなる事件」があったって知っていますか?

それが「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」です。

江戸時代の終わりごろ、日本の外にはたくさんの外国があって、船もどんどん日本にやってきました。でも幕府は「外国と関わりたくない」と思っていて、その政策に対して「ちょっと待った!」と言った人たちがいました。

その結果、処罰されてしまったのです。

どうしてそんなことが起こったのか? 誰がやったのか? どんな処罰を受けたのか?

本記事では、蛮社の獄がその後の日本にどんな影響を与えたのかを、塾長がわかりやすく解説していきます!

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蛮社の獄とは?わかりやすく解説!事件の背景と経緯

「蛮社の獄」とは、江戸幕府が外国との関わりを批判した人たちを処罰した事件です。1839年(天保10年)に起こり、学者や医者が「幕府のやり方はよくない」と言ったために投獄されたり、自殺に追い込まれたりしました。

どうしてそんなことが起こったのでしょうか?

それには、日本がとっていた「鎖国政策」や「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)」が大きく関わっています。さっそく見ていきましょう!

蛮社の獄とは?簡単に言うと幕府による言論弾圧事件

「蛮社の獄」は、江戸幕府が知識人たちを取り締まった事件です。特に「蘭学(らんがく)」という学問を学んでいた人たちが標的になりました。蘭学とは、西洋の知識をオランダ語で学ぶ学問のことです。

当時の幕府は「鎖国政策」を続けていて、外国との交流を厳しく制限していました。でも、外国の船がどんどん日本に来るようになり、外国との関係をどうするか考えなければいけない時代になっていました。

そんな中で「外国と仲良くしたほうがいい」「幕府の対応は間違っている」と言った人たちが処罰されてしまいました。幕府は、彼らの意見が広まるのを恐れたのです。

蛮社の獄が起こった理由:モリソン号事件と異国船打払令

蛮社の獄のきっかけは、1837年(天保8年)に起こった「モリソン号事件」でした。この事件では、アメリカの船「モリソン号」が日本にやってきました。目的は、日本で遭難してしまった人たちを連れて帰ることと、日本と貿易をしたいということでした。

でも、幕府はその船を「外国からの侵略かもしれない!」と考え、砲撃して追い払ってしまったのです。

実は、この砲撃には「異国船打払令」というルールが関係していました。これは「日本の港にやってきた外国の船は、話を聞かずに砲撃してもいい」という決まりです。

でも、非武装のモリソン号を撃ったことで、「やりすぎではないか?」と批判が高まりました。これをきっかけに、幕府を批判した学者たちが弾圧されることになったのです。

誰が関わった?処罰された人々と主導した人物

この事件で処罰された代表的な人物は、渡辺崋山(わたなべ かざん)と高野長英(たかの ちょうえい)です。

  • 渡辺崋山:田原藩(いまの愛知県)の家老で、絵が得意な学者でした。幕府の政策を批判した『慎機論(しんきろん)』という本を書いたことで、処罰されました。
  • 高野長英:医者であり蘭学者で、幕府の対応を批判する『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』を執筆したことが原因で投獄されました。一方、この事件を指揮したのが鳥居耀蔵(とりい ようぞう)という幕府の役人です。彼は「西洋の考え方が広まるのを止めるべきだ」と考え、蘭学者たちを弾圧したのです。

渡辺崋山と高野長英の批判:『慎機論』と『戊戌夢物語』

渡辺崋山と高野長英は、それぞれ本を書いて幕府の政策を批判しました。

  • 渡辺崋山の『慎機論』:「幕府は外国との関係を考え直すべきだ」と主張しました。
  • 高野長英の『戊戌夢物語』:「異国船打払令のままでは、外国との戦争になるかもしれない」と警告しました。どちらも「ただ批判する」だけでなく、「日本の将来を考えた意見」でした。しかし、幕府はこれを「反抗的な考え」とみなし、彼らを処罰してしまいました。

江戸時代の知識人グループ「尚歯会」とは?

渡辺崋山や高野長英は、「尚歯会(しょうしかい)」という学者の集まりに所属していました。尚歯会は、蘭学を学んだり、日本の未来を議論したりする知識人グループでした。

でも、幕府から見ると「自分たちの政策を批判する危険な集まり」に思えたのです。

そこで、幕府は尚歯会のメンバーを取り締まり、「蛮社の獄」という言論弾圧を行いました。この事件のあと、尚歯会は解散し、知識人たちの活動は制限されるようになりました。

蛮社の獄をわかりやすく処罰内容とその後の影響

蛮社の獄では、多くの知識人が厳しい処罰を受けました。幕府のやり方に反対しただけで、投獄されたり、自害に追い込まれたりしたのです。

また、この事件の影響で、日本の未来も大きく変わることになりました。それでは、詳しく見ていきましょう!

蛮社の獄での処罰は?切腹・投獄・自殺など様々

蛮社の獄で処罰を受けた人物の運命を見てみましょう。

  • 渡辺崋山(わたなべ かざん)自宅謹慎(蟄居)→2年後に切腹
    • 1839年に捕まり、自宅での謹慎を命じられました。
    • その後、監視が厳しくなり、知人と会うことも許されなくなりました。
    • 精神的に追い詰められ、1841年に切腹しました。
  • 高野長英(たかの ちょうえい)無期懲役(永牢)→脱獄→逃亡生活
    • 牢獄で「一生出られない刑」を言い渡されました。
    • 1844年、牢獄の火事を利用して脱獄。
    • その後、逃亡しながら蘭学の研究を続けました。
  • 小関三英(こせき さんえい)自殺
    • 「自分も捕まるかもしれない」と恐れ、幕府に捕まる前に命を絶ちました。

このように、幕府の政策を批判しただけで、多くの人が命を失ったのです。

高野長英の壮絶な逃亡生活と最後

高野長英は、牢獄から脱走した後も、逃げ続けました。しかし、彼の人生は決して平穏ではありませんでした。

  • 牢屋火災で逃亡した後、名前を変えながら各地を転々とする。
  • 宇和島藩の伊達宗城(だて むねなり)にかくまわれ、蘭学の研究を続ける。
  • 顔を硝酸で焼き、変装して江戸に戻る。
  • 1850年、江戸の隠れ家で発見され、奉行所の役人に捕まりそうになる。
  • 最後は、小刀で喉を突いて自害したとも、捕縛時に撲殺されたともいわれる。

幕府は「彼が自害した」と発表しましたが、実際には捕まる際に役人たちに殴られ、亡くなった可能性が高いとされています。

なぜ鳥居耀蔵は言論弾圧を進めたのか?

蛮社の獄を主導したのは、鳥居耀蔵(とりい ようぞう)という役人でした。彼は「蘭学は危険だ」と考え、蘭学者を徹底的に弾圧しました。

  • 彼自身は儒学(幕府の公式の学問)を学んでおり、西洋の学問を敵視していた。
  • 蘭学を学ぶ人々が幕府の政策を批判することを恐れた。
  • 敵であった江川英龍(えがわ ひでたつ)を排除しようと考えた。

しかし、その後の鳥居耀蔵の運命は悲惨でした。彼のやり方があまりにもひどかったため、1845年に逆に罷免され、最終的には流罪になってしまったのです。

蛮社の獄の影響とは?幕府の対外政策は変わった?

蛮社の獄の影響で、日本の対外政策も変わっていきました。

  • 1842年、異国船打払令が廃止される!
    • 「外国船を見つけたら攻撃!」というルールが見直され、外国との関係を話し合う方向へ。
    • これは、蛮社の獄で批判された政策が見直されたことを意味します。
  • 幕末の開国論へとつながる
    • その後、1853年にペリーが来航し、日本は開国に向かいます。
    • 幕府の強硬なやり方が変わるきっかけになったともいえます。

つまり、蛮社の獄は短期的には弾圧事件でしたが、長い目で見ると「日本が変わるきっかけ」になったともいえるのです。

テストに出る?語呂合わせで覚える蛮社の獄

歴史の年号を覚えるのは大変ですが、語呂合わせを使うと覚えやすくなります!

  • 「ハッ(8)と気づけば、天保(10)年に言論封じ」
    → 蛮社の獄が起こったのは、1839年(天保10年)
  • 「異国船(1825)打払令で、モリソン号(1837)も追い返す」
    異国船打払令(1825年)があったから、モリソン号事件(1837年)が起こった!
  • 「鳥居(とりい)の圧力、蘭学者ピンチ!」
    → 言論弾圧をしたのは、鳥居耀蔵

この語呂合わせを使えば、テストのときにスラスラ答えられますね!

総括:蛮社の獄をわかりやすく解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

1. 蛮社の獄とは?

  • 1839年(天保10年)に江戸幕府が知識人を弾圧した事件。
  • 蘭学者や儒学者が幕府の外交政策を批判したことで処罰された。
  • 特に「モリソン号事件」に対する批判がきっかけとなった。

2. 事件の背景

  • 幕府は「鎖国政策」をとっており、外国との接触を制限していた。
  • 1825年に「異国船打払令」が出され、外国船を無条件で攻撃する方針に。
  • 1837年、アメリカの「モリソン号」が遭難した日本人を送り届けるために来航したが、砲撃されて追い払われた(モリソン号事件)。
  • 幕府の対応を批判した蘭学者らが弾圧されることに。

3. 処罰された人々

  • 渡辺崋山(わたなべ かざん):田原藩の家老で蘭学者。『慎機論』を書いて幕府を批判 → 蟄居処分(自宅謹慎)→ 1841年に切腹
  • 高野長英(たかの ちょうえい):医者であり蘭学者。『戊戌夢物語』で幕府を批判 → 終身刑(永牢)→ 1844年に脱獄→ 1850年に捕縛され死亡
  • 小関三英(こせき さんえい):蘭医。「自分も捕まるかも」と恐れ、自害。

4. 事件の首謀者

  • 鳥居耀蔵(とりい ようぞう):幕府の目付(監視役)で、蘭学を弾圧。
  • 動機:「蘭学の広まりが幕府の体制を揺るがす」と考えたため。
  • その後、1845年に失脚し流罪に。

5. 事件の影響

  • 1842年:異国船打払令が廃止され、外国船への対応が緩和された。
  • 1853年:ペリーの来航により、日本は開国へ向かうことに。
  • 言論弾圧事件だったが、長期的には幕府の外交政策を変えるきっかけとなった。