「日本が植民地にならなかった理由」について考えたことはありますか?

19世紀から20世紀にかけて、多くのアジアやアフリカの国々が欧米の国々に植民地にされました。例えば、インドはイギリスの支配を受け、ベトナムはフランスの植民地でした。でも、日本はそうならず、独立を守り続けました。

なぜ日本は植民地にならずに済んだのでしょうか?

その理由を、地理的な条件、政治の仕組み、戦争の勝敗など、さまざまな角度から分かりやすく解説していきます!

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日本が植民地にならなかった理由まとめ

日本が植民地にならなかった理由には、いくつかの重要なポイントがあります。これから順番に解説していきますので、一緒に学んでいきましょう!

日本が植民地にならなかった最大の理由は「地理的要因」

まず、日本の地理が大きな役割を果たしていました。日本は周りを海に囲まれた島国です。これは、一見すると不便なように思えるかもしれませんが、実は大きな強みでした。

欧米の国々がアジアに進出する際、インドや東南アジアは陸続きで攻めやすかったため、次々と植民地になりました。しかし、日本は島国だったので、大軍を送り込むのが難しかったのです。

例えば、イギリスがインドを植民地にしたときは、軍隊を送り込み、陸路で次々と侵略しました。でも、日本に攻め込むには、大量の兵士や武器を船で運ばなければなりませんでした。これには時間もお金もかかります。

また、日本は貿易の重要な拠点にはなりませんでした。東南アジアの国々は、スパイスや茶など、欧米が求める貴重な資源が多かったため、侵略のターゲットになりました。しかし、日本にはそれほどの資源がなかったため、欧米諸国にとって植民地にするメリットが少なかったのです。

このように、日本の地理的条件が「植民地にされにくい環境」を作り出していたのです。

強固な中央集権体制と武士の存在が防衛の要だった

日本は、長い間、武士の国でした。江戸時代には「徳川幕府」が全国を支配し、強い中央集権国家を作り上げていました。

中央集権とは、「一つの政府が国をしっかりまとめること」です。例えば、中国は当時の清(しん)という国が支配していましたが、ヨーロッパ諸国の侵略を防ぐことができませんでした。

なぜなら、国をまとめる力が弱かったからです。インドも多くの藩王(はんおう)がいて、バラバラの状態だったため、イギリスに狙われました。

でも、日本は江戸幕府が全国をしっかり管理していたので、外国の侵略にすぐ対応できました。また、武士たちは戦に慣れていたため、外国から攻められたときにすぐに防衛できる状態にあったのです。

実際に、幕末には薩摩(さつま)藩とイギリスが戦った「薩英戦争」、長州(ちょうしゅう)藩とフランスが戦った「下関戦争」がありました。このとき、欧米の国々も日本の武士の強さに驚いたそうです。

このように、日本にはしっかりとした政府と戦闘力のある武士がいたため、植民地化を防ぐ力があったのです。

ペリー来航と日本の対応:「開国」が結果的に植民地化を防いだ

1853年、アメリカのペリー提督が日本にやってきました。黒船という巨大な軍艦を引き連れて、日本に開国を求めたのです。

このとき、日本は戦うこともできましたが、幕府は「交渉する」という道を選びました。結果として、1854年に日米和親条約を結び、日本は開国しました。これによって、日本は外国と貿易を始めることになります。

開国は一見、日本にとって不利に見えます。でも、実はこの決断が植民地化を防ぐことにつながりました。なぜなら、他の国が「日本はすでにアメリカと貿易をしているから、無理に植民地化する必要はない」と考えたからです。

例えば、清(中国)はイギリスとの戦争(アヘン戦争)に負けて植民地化されました。でも、日本は戦争をせずに、交渉でうまく切り抜けたのです。

このように、開国することで「戦争を回避しつつ、植民地化を防ぐ」という戦略を取ったことが、日本の独立を守る大きな要因となったのです。

明治維新の成功が日本の植民地化を防いだ

1868年、日本は明治維新を迎えます。これまでの江戸幕府が終わり、新しい政府が誕生しました。この明治政府は、欧米の強さを学び、「日本も強くならなければ!」と考えました。

まず、全国の藩を廃止し、「廃藩置県」を行いました。これによって、地方の大名が力を持たなくなり、日本全体を一つの政府がしっかり管理できるようになりました。さらに、軍隊を強化し、「富国強兵」という政策で日本の経済と軍事を強くしました。

このように、明治維新によって、日本は欧米と同じように近代的な国になっていきました。その結果、欧米の国々も「日本は植民地にするのではなく、貿易相手として利用しよう」と考えるようになりました。

明治維新がなかったら、日本も清やインドのように植民地になっていたかもしれません。政府の改革が、植民地化を防ぐ大きな要因になったのです。

日清戦争・日露戦争の勝利が「日本の独立」を確固たるものに

日本は明治維新の後、さらに強くなるために軍隊を鍛えました。そして1894年、日清戦争が始まりました。これは、日本と清(中国)との戦争で、日本が勝利し、台湾を手に入れました。

その後、1904年には日露戦争が起こりました。これは、日本とロシアとの戦争です。ロシアは当時、世界でも有数の強国でしたが、日本は見事に勝利しました。この勝利によって、日本は「欧米の列強と対等に戦える国」と認められるようになったのです。

こうして、日本は軍事力と外交力を駆使して、植民地化を防ぎました。

日本が植民地にならなかった理由!植民地になった国との比較

日本が植民地にならなかった理由を詳しく見てきましたが、では、実際に植民地化された国々とはどんな違いがあったのでしょうか?

ここでは、インドや中国、東南アジアの国々と比較しながら、日本が独立を守れた理由をさらに深掘りしていきます!

中国(清)が植民地化された理由と日本の違い

中国(当時の清)は、ヨーロッパの列強に侵略され、半植民地状態になりました。その大きなきっかけとなったのが「アヘン戦争」(1840年)です。イギリスがアヘンという麻薬を清に大量に売りつけ、清の社会が混乱しました。そこで清の政府がアヘンを禁止したところ、イギリスと戦争になり、負けてしまいました。

清が植民地化された理由の一つは、「中央政府が弱体化していたこと」です。清は広大な領土を持っていましたが、統治が行き届かず、国内の反乱も多く発生していました。そのため、欧米の国々に対して強い交渉力を持てず、不平等条約を次々に結ばされました。

一方、日本は中央集権の体制を強化し、欧米と対等に交渉する姿勢を持っていました。これが、清と日本の大きな違いだったのです。

インドがイギリスの植民地になった理由とは?

インドはイギリスの支配下に置かれ、約200年もの間、植民地として統治されました。インドが植民地化された理由の一つは、「国内の分裂」です。インドには多くの藩王国があり、それぞれ独立した国のような状態でした。

そのため、イギリスが「分割統治」という戦略を使い、各地の王国をうまく操って植民地化しました。

また、インドの経済はイギリスに依存する形になり、イギリスの都合のいいように資源や労働力が使われました。インドの産業は衰退し、イギリスの工業製品を売るための市場となってしまったのです。

日本は、このような状態にならないように、明治維新によって国を一つにまとめ、経済の発展を進めました。これが、インドとの大きな違いでした。

東南アジア諸国が植民地になった理由と日本の立ち位置

東南アジアの国々(ベトナム、フィリピン、インドネシアなど)は、フランス、スペイン、オランダなどの欧米諸国に次々と植民地化されました。その理由の一つは、「地理的な条件」です。

東南アジアは、スパイスやゴム、砂糖などの貴重な資源が豊富で、欧米諸国にとって「植民地にする価値が高い場所」でした。そのため、欧米の国々は戦争や外交を使ってこれらの地域を支配しました。

また、東南アジアの国々は、日本のような強固な軍事力や中央集権の政府を持っていませんでした。そのため、欧米の進出に対抗できず、植民地化されてしまいました。

日本は地理的にヨーロッパから遠く、また、明治維新で軍事力を強化していたため、欧米の侵略を防ぐことができたのです。

ロシアの南下政策と日本の抵抗―日露戦争が植民地化を防いだ

ロシアは、19世紀から「南下政策」を進めていました。これは、寒い地域にあるロシアが、暖かい海を求めて南に進出しようとする動きです。ロシアは満州(現在の中国東北部)や朝鮮半島に勢力を拡大し、日本もその脅威にさらされました。

もし、日本がこのままロシアに圧倒されていたら、ロシアの植民地になっていたかもしれません。しかし、日本は軍備を強化し、1904年に日露戦争を戦いました。そして、日本は世界的な強国ロシアに勝利しました!

この勝利によって、日本は「アジアの中で唯一、欧米と戦える国」として認められ、植民地化を完全に回避することができたのです。

日本の「富国強兵」政策が植民地化を防ぐ決め手に

明治政府が進めた「富国強兵(ふこくきょうへい)」政策は、日本が植民地にならなかった大きな理由の一つです。「富国強兵」とは、「国を豊かにし、軍事力を強くする」という意味です。

この政策のもとで、日本は近代的な産業を育て、工業を発展させました。例えば、鉄道を作ったり、軍艦を作ったりして、西洋と対等に戦える力をつけました。また、義務教育を導入して国民の知識レベルを上げ、近代国家としての基盤を作りました。

もし、この政策がなかったら、日本は経済力も軍事力も弱いままで、植民地になっていた可能性があります。強い国づくりを進めたことが、日本の独立を守る大きな要因となったのです。

総括:日本が植民地にならなかった理由

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

幕末期の要因

地理的要因

  • 日本は島国であり、大軍を送り込むのが難しかった
  • 欧米にとって貿易の重要な拠点ではなく、植民地化のメリットが少なかった

強固な中央集権体制と武士の存在

  • 江戸幕府が全国を統治し、強い中央集権国家を築いていた
  • 武士が戦闘に長けており、外国の侵略に即座に対応できた

開国による植民地化回避

  • 1853年、ペリー来航後、日本は戦わずに交渉で開国
  • 不平等条約を結びながらも、戦争を避けて独立を維持

明治維新と近代化の影響

明治維新の成功

  • 「廃藩置県」で日本を一つの国家にまとめ、統治を強化
  • 軍事力と経済力を向上させ、欧米と対等な国を目指した

富国強兵政策

  • 工業化を進め、鉄道・軍艦を整備し、経済と軍事を強化
  • 義務教育を導入し、国民の知識レベルを向上

日清戦争・日露戦争の勝利

  • 1894年の日清戦争に勝利し、国際的な影響力を獲得
  • 1904年の日露戦争でロシアに勝ち、列強に対抗できる国と認められる

植民地になった国々との比較

清(中国)との違い

  • 清は国内の統治が弱く、欧米に不平等条約を押し付けられた
  • 日本は幕府や明治政府が統治力を維持し、欧米と対等に交渉

インドとの違い

  • インドは藩王国が分裂しており、イギリスが「分割統治」して植民地化
  • 日本は統一された政府を持ち、分裂せずに国を発展させた

東南アジアとの違い

  • 東南アジア諸国は資源が豊富で欧米のターゲットになった
  • 日本は資源が少なく、欧米にとって植民地化の優先度が低かった

ロシアの南下政策を阻止

  • ロシアの侵略に備えて軍事力を強化し、日露戦争で勝利
  • これにより、日本は独立を維持し、アジアで唯一の強国となる