「八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)」って聞いたことあありますか? 幕末(ばくまつ)の日本で起こった重要な事件の一つで、京都の御所(ごしょ)をめぐる大きな政変(せいへん)です。
でも、「結局、何が起こったの?」と疑問に思っている人も多いはず。
今回は、そんな「八月十八日の政変」をとことん分かりやすく解説します!
なぜこの政変が起こったのか? 誰が中心となって動いたのか? そして、この事件がその後の歴史にどんな影響を与えたのか? 歴史が苦手な人でもスラスラ理解できるように、語呂合わせやテストに出るポイントも紹介するので、最後まで読んでみてくださいね!
※AmazonのKindle Unlimitedは月額980円ですが、3ヶ月無料期間があります。その間、読み放題対象の電子書籍は全部無料。途中で解約ももちろん自由。そのため、電子書籍が実質0円で読めます。以下に、歴史の語呂合わせに関連する無料書籍を載せておきます。
↓実質無料で読めるおすすめ歴史の読み物↓
八月十八日の政変をわかりやすく解説!原因や影響
八月十八日の政変は、幕末の重要な出来事で、朝廷と幕府の対立が激化し、尊皇攘夷派と公武合体派の争いが頂点に達した結果として起こりました。ここでは、その背景や出来事の流れをわかりやすく解説していきます。
八月十八日の政変とは?簡単にわかりやすく解説
八月十八日の政変は、1863年8月18日に京都で起こった大事件です。簡単にいうと、「長州藩(ちょうしゅうはん)を中心とした尊皇攘夷派(そんのうじょういは)が朝廷から追い出されたクーデター(政変)」です。
この時代、日本は外国との関係をめぐって「開国派(かいこくは)」と「攘夷派(じょういは)」が対立していました。攘夷派の中でも特に過激だったのが長州藩。彼らは「天皇が直接指揮をとって外国を打ち払うべきだ!」と考え、朝廷の中で勢力を強めていきました。
しかし、天皇を支えていた会津藩(あいづはん)や薩摩藩(さつまはん)は、「長州藩のやり方は危険だ!」と判断。孝明天皇(こうめいてんのう)も長州藩の暴走を嫌い、ついに彼らを排除する決断をしました。そして起こったのが、この八月十八日の政変なのです。
八月十八日の政変はなぜ起こった?その理由
八月十八日の政変が起こった理由は、大きく3つあります。
- 攘夷運動の暴走
長州藩は、幕府が正式に攘夷(外国を追い払うこと)を許可したと勘違いし、勝手に外国船に砲撃を始めました。しかし、他の藩はこれに賛同せず、長州藩は孤立していきます。 - 孝明天皇の不信感
長州藩は、天皇を動かして「攘夷親征(天皇が指揮する攘夷戦争)」をしようとしました。しかし孝明天皇は「今は戦うべきではない」と考えていたため、長州藩のやり方に不満を抱くようになります。 - 公武合体派の反撃
長州藩の影響力が強まると、「このままでは危ない!」と考えた会津藩や薩摩藩が動き出しました。彼らは天皇の信頼を得て、長州藩を京都から追放する計画を立てたのです。
こうした理由が重なり、1863年8月18日、ついに「八月十八日の政変」が起こりました。
八月十八日の政変の流れを時系列で解説
八月十八日の政変がどのように進んだのか、時系列で見ていきましょう!
| 年月日 | 出来事 | 詳細・影響 |
|---|---|---|
| 1863年5月 | 長州藩、関門海峡で外国船を砲撃 | 幕府の意向を無視した独自の攘夷行動。幕府や他藩との対立が深まる。 |
| 1863年6月~8月 | 長州藩、天皇を利用し「攘夷親征」を計画 | 天皇を担ぎ出して攘夷戦争を主導しようとする。孝明天皇はこれに不満を抱く。 |
| 1863年8月17日 | 会津藩・薩摩藩がクーデターを計画 | 孝明天皇の意向を受け、公武合体派が長州藩を追放する準備を整える。 |
| 1863年8月18日(早朝) | 京都御所の門を封鎖 | 会津藩・薩摩藩が御所を封鎖し、長州藩と尊皇攘夷派の公家を締め出す。 |
| 1863年8月18日(午前中) | 御所内で会議が開かれる | 「長州藩の追放」「尊皇攘夷派の政治関与禁止」などの決定が下される。 |
| 1863年8月18日(午後) | 長州藩、京都を追放 | 長州藩と尊皇攘夷派の公家が京から追われ、「七卿落ち」が発生。 |
| 1863年8月18日(夜)以降 | 公武合体派が政権を掌握 | 長州藩は朝廷の影響力を失い、公武合体派が政権を固める。 |
こうして、長州藩は京都から完全に排除され、公武合体派が政権を握ることになりました。
八月十八日の政変の中心人物は誰?キーパーソンを紹介
八月十八日の政変には、いくつかの重要人物が登場します。
| 名前 | 役割・立場 | 政変における行動・影響 |
|---|---|---|
| 孝明天皇(こうめいてんのう) | 天皇 | 長州藩の暴走を嫌い、公武合体派にクーデターを許可 |
| 中川宮(なかがわのみや) | 朝廷の公武合体派リーダー | 朝廷内で公武合体派をまとめ、政変の計画を推進 |
| 松平容保(まつだいら かたもり) | 会津藩主・京都守護職 | 京都の警備を担当し、政変の実行を指揮 |
| 島津久光(しまづ ひさみつ) | 薩摩藩の実質的なリーダー | 武力を用いて長州藩を京都から追放 |
| 三条実美(さんじょう さねとみ) | 尊皇攘夷派の公家 | 長州藩の支持を受けたが、政変後に追放され「七卿落ち」の一人に |
このように、それぞれの人物が政変において重要な役割を果たしました。
八月十八日の政変のその後は?池田屋事件・禁門の変との関係
八月十八日の政変によって、長州藩を中心とする尊皇攘夷派は京都から追放されました。しかし、これで長州藩が大人しく引き下がるわけではありません。この政変の影響で、さらに大きな事件が連続して発生することになります。
1. 池田屋事件(いけだやじけん)
八月十八日の政変で京都を追い出された長州藩でしたが、実は一部の尊皇攘夷派志士(しし)たちは京都に潜伏し、再び挙兵(きょへい)しようと計画していました。この動きを察知した新撰組(しんせんぐみ)が、1864年6月5日、京都の池田屋(いけだや)という旅館を急襲し、多くの尊皇攘夷派を討ち取った事件です。
池田屋事件は新撰組の名を全国に知らしめるきっかけとなりましたが、長州藩の怒りを買い、さらなる戦いへとつながっていきます。
2. 禁門の変(きんもんのへん)
池田屋事件に激怒した長州藩は、翌月の1864年7月19日、京都へ大軍を率いて攻め込みました。これは「禁門の変(きんもんのへん)」、またの名を「蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)」と呼ばれる戦いです。
長州藩は、朝廷への復帰を目指して京都御所(ごしょ)に攻め込もうとしましたが、会津藩・薩摩藩・幕府軍の猛反撃に遭い、大敗北を喫しました。この戦いによって、長州藩は「朝敵(ちょうてき)」とされ、日本全国から敵視されるようになります。
こうして、八月十八日の政変をきっかけに、幕末の歴史は倒幕運動(とうばくうんどう)へと大きく進んでいくことになったのです。
八月十八日の政変を分かりやすく:テストで出るポイント
八月十八日の政変が起きた背景には、幕府の政策に対する不満や、尊皇攘夷運動の激化があります。ここでは、テストのポイントを紹介します。
八月十八日の政変の重要ポイント
テストでよく出る「八月十八日の政変」のポイントをまとめました!
✅ いつ起こった? → 1863年(文久3年)8月18日
✅ どこで起こった? → 京都御所
✅ 何が起こった? → 長州藩と尊皇攘夷派が京都から追放された
✅ 誰が関わった? → 長州藩・会津藩・薩摩藩・孝明天皇・中川宮
✅ その後どうなった? → 池田屋事件・禁門の変・第一次長州征討につながった
このあたりは暗記しておくと、テストで得点しやすくなります!
八月十八日の政変の語呂合わせ
歴史の年号ってなかなか覚えられないですよね。そんなときは、語呂合わせを使いましょう!
🔹 1863年(文久3年)の語呂合わせ
👉 「いや、むざん(1863)、長州藩の追放!」
これで、「1863年に長州藩が京都から追い出された」ことを思い出せますね!
公武合体と尊皇攘夷の違いを簡単に解説!
幕末の歴史を理解するためには、「公武合体(こうぶがったい)」と「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」の違いを知ることが大切です。
- 公武合体 = 幕府と朝廷が協力して国を守ろうとする考え(会津藩・薩摩藩・幕府など)
- 尊皇攘夷 = 天皇を中心に外国を追い払おうとする考え(長州藩・一部の公家など)
この対立が原因で八月十八日の政変が起こったことを覚えておきましょう!
八月十八日の政変の影響
八月十八日の政変は、その後の日本の歴史に大きな影響を与えました。主な影響を3つにまとめると…
- 長州藩が朝敵とされ、倒幕運動が加速
- 薩摩藩と長州藩が敵対し、その後「薩長同盟(さっちょうどうめい)」を結ぶ流れへ
- 新撰組が京都で活躍し始めるきっかけになった
幕末の歴史の流れを理解するうえで、とても重要な政変だったことが分かりますね!
総括:八月十八日の政変をわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 八月十八日の政変とは?
- 1863年8月18日に京都で発生した政治的クーデター。
- 長州藩と尊皇攘夷派の公家が朝廷から追放された事件。
- なぜ起こったのか?
- 攘夷運動の暴走
- 長州藩が外国船を勝手に砲撃し、他藩と対立。
- 孝明天皇の不信感
- 長州藩が天皇を利用しようとしたため、反感を買う。
- 公武合体派の反撃
- 会津藩・薩摩藩が孝明天皇の支持を得て長州藩追放を決行。
- 攘夷運動の暴走
- 八月十八日の政変の流れ(時系列)
- 1863年5月:長州藩が外国船を砲撃 → 孤立化
- 1863年6月~8月:長州藩が天皇を利用しようとする → 孝明天皇が不満を持つ
- 1863年8月17日:会津藩・薩摩藩がクーデターを計画
- 1863年8月18日(早朝):京都御所の門を封鎖 → 長州藩を締め出す
- 1863年8月18日(午前):「長州藩の追放・尊皇攘夷派の政治関与禁止」が決定
- 1863年8月18日(午後):長州藩と公家が京都から追放 → 七卿落ちが発生
- 政変の中心人物
- 孝明天皇:長州藩の暴走を嫌い、政変を許可
- 中川宮:公武合体派のまとめ役
- 松平容保(会津藩主):京都守護職として政変を指揮
- 島津久光(薩摩藩):武力を用いて長州藩を追放
- 三条実美(長州派の公家):政変後に追放され「七卿落ち」の一人に
- 政変のその後(影響)
- 池田屋事件(1864年6月)
- 京都に潜伏する尊皇攘夷派を新撰組が襲撃。
- 禁門の変(1864年7月)
- 長州藩が京都に攻め込むも敗北 → 朝敵認定される。
- 第一次長州征討
- 長州藩は幕府軍の討伐対象となり、倒幕運動へとつながる。
- 池田屋事件(1864年6月)
